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[01]NANAKAちゃんは時計とにらめっこ

 あと三十分。黒い文字盤の白い針は、急げ急げと急き立てていた。


 歩きではもう間に合わないかもしれない。おろしたてのスーツにとっておきの(かばん)。今日のために買った真新しい革靴も履いている。後は扉を開けて目的地へ向かうだけ。けれど彼女はアパートの部屋でドアを前に座り込んだままだった。


 一歩外へと踏み出しさえすれば、後は惰性と勢いに任せてどうとでもなる。そんなこと、頭の中では分かっていた。でも、その勇気を出せなくて。だからもう一時間近く……。


 スーツの袖をめくり、腕に巻いたクロノグラフへと目を落としたのはこれで何度目だろう。プラスチック風防の奥にある分針は、無情にも真下から僅かに左側へと傾いていた。


(ううん、大丈夫。自転車を漕いで行けばまだ間に合うよね――)


 彼女はそう自分に言い聞かせ、ポケットに自転車の鍵が入っていることをもう一度確認した。


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


 間戸まど七夏ななかは今日から晴れて〈独立行政法人・月面開発公社〉の正職員となる。公社本棟にある本会議室では、入社式が間もなく始まろうとしていた。


 人も羨む独立行政法人、天下の月面開発公社。意気揚々と出かけても良いはずだった。


 けれど七夏は違った。腕時計の分針を見つめたまま、アパートの部屋でフリーズしていた。残念なことに彼女は憶病過ぎたのだ。


 止まっているように見える針は、しかし無情にも動いている。そうこうしているうちにも、小さな秒針は小刻みに回り続けていた。どうして分針は動いてないように見えて、いつの間にか動いているのだろう――現実逃避を図る彼女は遂に、人間の知覚限界にまで想いを馳せ始めた。


 そんな時のことだ。ふと落とした視線の先に、白いふわふわとした物体があることに気が付いた。


「そう言えば玄関の掃き掃除、しばらくしていなかったっけ……」


 今度は声に出して小さく呟くと、彼女はのそのそと振り返った。ダイニングキッチンも少し埃っぽかったし、その上、小さな羽毛がいくつか落ちていた。窓から差し込んだ日の光を受けているせいか、いやに目立っている。


「参ったな。掃除しないと」


 気になって靴箱の下を覗き込むと、隅っこの方にこんもりとした塊ができていた。


“こんな時に限って掃除をしたくなったり机の整理をしたくなったり症候群”を発症する七夏ももう28歳。無条件な若さという青春期は過ぎ去ろうとしていた。


(実家を出て何年だったっけ――そっか。もう、十年)


 彼女は母親の小言を思い出していた。そのバリエーションの一つはこんなだ。


 ――ダニが湧くんだからね、後悔するのは自分だよ?


 何度も口を酸っぱくして言っていた母親。これからまた、油断ならない季節がやってくる。七夏本人も、それは分かっていた。気を付けていたつもりではいたが、このところ身の回りの整理もいい加減になってきたかもしれない。


 一人暮らしを始めた頃を思い返そう。もう少し気を引き締めないと。思い浮かべた両親の顔は、月面開発公社の正職員となる自分のことを誇らしく見つめていた。これじゃあいけない。


 そう、目立ってしまう。身だしなみのことも、母親からしょっちゅう言われていた。目立つんだからね、と。だから掃除も小まめにしていたつもりだけれども――今更それを言っても仕方がない。


(身だしなみ、か)


 そうだ。こんな所に座り続けていたせいで、新品のスーツに皺を付けてしまったかもしれない。それに厄介なのはあの白い羽毛だ。おしりに付いてないよね? 黒っぽいスーツだと特に目立ってしまう。


 この先、このスーツを着る機会もそうは無いだろう。せっかくフルオーダーで作ったのに。もちろん、こだわりがあってオーダーメイドした訳では無い。七夏としては別に既製品でも構わなかった。


 もしあれば、の話だったが。


 立ち上がった彼女は、スカートをパンパンと(はた)いた。埃と一緒に迷いが落ちていくような気がして。


 ドアノブに手をかける。強く願うと共に、意を決して扉を開けた。


(誰もいませんように!)


 初春の朝、八時三十五分ちょっと前の空は眩しかった。さあ、急がないと。青空の下に立った七夏は、いつもの後ろ向きな自分を振り払おうとするかのように、大きく背伸びする。少しだけ、勇気が湧いてきたような気がした。そして、こんな時に自分を奮い立たせる方法を思い出した。



 彼女は、真っ白い翼を広げて、大きく羽ばたいた。


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