勅姫婚礼のお引越し
当事者の勅子が自分の結婚に関与するのはすべての話がまとまって以降。結婚が揺るぎないものとなって初めて勅子の出番となる。勅子は嫁入り前の女子としての作法はすべて身に付けていた。残る知識は夫婦の営みに付いてのみ。それは乳母や年増の側女中を通しリレーのように微に入り細に穿ち、顔も赤らむようなしきたりを言い聞かされる。そしてそんな口さがない年増の側女中が忠告するのは、やはり既に元美公が一子儲けている現実から推量されること、妾の存在に絞られた。女は大抵の難儀に耐えられるが夫が他の女と情を交わすのだけは我慢ならないもの、しかし一国一城の主たる者、後継者を絶やさず次世代に繋ぐことこそ最重要責務である。後継者がなければお家断絶、連綿と続く家名を絶やすこととなり、それは家臣を路頭に迷わすことになる。正室となる勅子は主君に断じてそれをさせてはならぬ、まして嫉妬など町娘のようなはしたないことをして子作りの邪魔立てなどは金輪際ならぬとこんこんと言い聞かされた。そして側女中頭の芳野は大名家にとって家を存続させるということが如何に難解であるかを身近な本藩を例にとり説き聞かせる。
幕府のお達しとして大名が十七歳未満で亡くなった時はお家断絶、そうならないためには当主が五十歳までに後継者を仮に指名しておく必要があった。ところが血統を重んじるが故に夭逝や早世が珍しくない当時としてはこれがなかなか成立しない問題で跡継ぎが十七歳まで育たない場合が多い。長州も江戸期最初の藩主・秀就から数えて十一代目に当たる斉元、十二代目斉広、十三代目敬親への継承の経緯では世にも珍しい事件が立て続けに起こり、まかり間違えばお家断絶になり兼ねない危うい記録が残されている。
事の発端は秀就から数えて十代目斉煕の時代に遡る。時、文化十一年(一八一四年)斉煕は急死した兄の実子がまだ幼かったため、行く行くは兄の実子・徳丸を後継者にすることにして藩主となった。だが徳丸は半年後に急死。斉煕はは二年前に二歳になる長男を失ったばかりだった。それを考慮してかどうか生まれて五ヶ月の庶出の子が居るにはいたが、あまりに幼いので取り敢えず従弟の斉元を仮養子にし後継者に指名する。斉元は二十一歳で年齢に問題はないが、既に家老福原家の養子になっていた。そこで福原との養子縁組を解消し幕府にはそのことを伏せて許可願を提出し、斉煕の実の娘と婚姻させ婿養子として相続させることとした。ところがこれには問題があった。毛利宗家の後継者は一門六家からと決まっていた。だが斉元は出自に拘る当時としては庶出の部屋住みで既に福原の養子となっており最早六家には属さない。よって直系を重んじる家中の猛反対にあう。しかしそれ以外に方法のない藩の重鎮は結局それを押し切った。だが位の高い側女中達が藩主の出自にこだわり、いつまでも斉元を藩主として認めようとせず、すったもんだの挙げ句斉元が決意の宣言演説を発表してそれが功を奏して落着する。やっと落ち着いたかに見えた相続問題であったが、十二年後に斉元に家督を譲り隠居していた斉煕が死去すると、四か月後に斉元が急死、そしてその年の十二月病気療養中の斉煕の実子で有力後継者・斉広も急死する。事態は急展開を見せる。急遽後継者を斉元の実子・敬親を擁立したのであった。このように武家の相続は早世や夭折で子が育たない上に血統に面子・慣習などが絡み複雑且つ難解な問題なのである。だから毛利家の始祖・元就が正室以外との子は"虫けらの子"と言明したにも拘わらず、藩主並びに領主は一人でも多く男子を残さねばならないのである。しかしながら貸腹の女性の存在は頭では理解していてもなかなか受け入れ難い悩ましい問題である。貸腹が貸腹で終わればいいがそうはいかないのが浮世の定め、だからそのための教育はし過ぎるということはない。理性に感情は寄り添わない。老練な年寄り達はそこを汲み取って諭したのだった。
いくら利発な勅子でもそういう経験のない心の問題までは推し量れない。どんなことでも自分に克服できないことはないくらいしか考えられなかった。既に子が居ようと自分は正室、毅然と構えていればよいのであった。年寄りが最後に付け加えたその言葉に力強い味方を得たような気がしていた。
やがて一八三九年九月二十八日の嫁入りの引っ越しが近付くにつれ、周囲は急に慌ただしくなった。縁談が纏まってから追々京都に発注していた嫁入り仕度の着物も続々仕上がり徳山港に荷揚げされた。既婚者の着る着物には娘時代とは違う決まりごとがありそれに則って新しく誂えればその数並々ではない。部屋に運ばれてきた荷物をほどき、一枚一枚たとう紙を開いては柄見本で注文した通りのものが仕上がっているかどうか確かめつつ、側女中達とああでもないこうでもないと批評するのはまるでお祭り騒ぎのような賑わいである。だがその中には慶弔時の紋付も混じっていて、微妙に徳山とは異なる新たな厚狭毛利の家紋が施されているのを見ると、浮かれ気分を窘められたようで他家へ嫁ぐ覚悟が次第に固まっていくのだった。こうして徐々に嫁ぐ心構えは整って行った。一方生活必需品の注文は大阪であった。大阪でなければ揃わなかった。嫁入り道具はその他にも毛利の表の紋章に対し裏紋である沢瀉の紋章が彫られた箪笥二竿・長持ち二竿・琴二面・三味線二竿・鏡・長刀・お雛道具・絵の具これに愛用の書籍類が加わり一々上げればきりがない。道中の風呂一式も新品が用意された。祝儀の品も続々届けられ、身分の高い人からは現金や着物地・帯・帯地など、腰元からなどからは半紙・奉書・するめ・干し鯛・昆布・わかめ・扇子・懐中・匂い袋など、身分に応じた祝いの品が届けられた。一々上げればそれらも切りがなく、表玄関を上がったすぐの広間に嫁入り道具が所狭しと並べられ、その脇に次々持ち込まれた祝いの品々がうず高く積み上げられた。祝いの品々の中には大姑の遊昌院や舅の房晃に姑の瑶光院に混じり、後に時代が江戸から明治に移行する一時期元美の腹違いの弟で後継者だったこともある二歳に満たない幼い宣次郎の名の記された品も含まれていた。重複する昆布やスルメなどの食品はまるで市が立ったようだった。こうして引っ越しの品々は予定された結婚式九月二十九日に合わせて、注文していた家具や衣類等揃えられていった。だがこうして華燭の典に向けて準備が着々と進められていく中、勅子の体調が思わしくなくなった。倦怠感が起こって食欲が落ち頭が上がらなくなった。これまでこんなことはなかったのでやはりどこか変調をきたしているに違いない。乳母の秋山がこれは深刻な病気だと騒ぎ出した。早速侍医の増野獨泊に診断を仰いだ。すると心労だろうということになった。結婚前の過度の緊張による心の病、いわゆる婚前ブルーである。日常の生活を離れて湯治でもしてはどうかと進言された。いくら気丈な勅子とはいえ、入れ替わり立ち代り年寄り連中から気の重くなる結婚心得ばかり聞かされては神経も参る。当時女の最終目的は結婚、どんな所へ嫁ぐかで将来は約束されたようなもの、それを勝ち得て夢見心地の所へことごとく打ち砕くような暗澹たる将来を物語られてさすがの勅子もそれがこたえた。得意な和歌で鍛えた想像力に加え、お琴や三味線・長刀などの稽古で知らず知らずのうちに培われていた感性は並外れて豊かな情感を紡いでいてそれは繊細に鋭敏に研ぎ澄まされていた。藩の侍医・増野からそう指摘されては側女中達も反省せざるを得ない。言われてみれば思い当たることばかり。忠告の行き過ぎを悔い慌てて口を閉ざしたが最早手遅れ。症状はおいそれと改善しない。予定されていた歴代徳山毛利崇敬の神社、遠石八幡宮への参拝も日延べされた。参拝は長年節目節目に無病息災を祈願して無事乗り切ってきた大切な行事だから、感謝の参詣は当然、これを怠っては相手は物言わぬ神仏だけに祟りは計り知れないと恐れられてきた。人智及ばぬ世界の存在をかたくなに信じている時代である。神社仏閣の参詣は何よりも優先された。しかしこの時ばかりはそれすらも延期したのだった。老女達は忠告の行き過ぎを反省し、すると老女達を味方に付けた勅子の前途は明るい。勅子の体を労わる老女中達の注進は絶対で、すべての予定が延引、既に決定されていた結婚式まで覆され延期となった。主役の勅子が初めて優先された。この頃の医師としては日常生活の問診で判断し処方するしか方法は無く、成り行きを見守っていた増野はしばらく場所を変えて日常から切り離して保養することを勧めた。勅子は増野の指示通り気の置けないメンバーを従え桂浜へ保養に出掛けることとなった。口うるさい側女中達を断ち大海原に臨む海岸沿いに場所を移しての休養はたちまち効果を上げ、食欲増進の薬草も効いて徐々に食欲が出て一週間後には快方に向かったのであった。十月十日には遠石八幡宮を参詣できるまでに回復した。遠石八幡宮は宇佐八幡大神のお告げにより推古天皇が七〇八年この地に創建したとされる歴代徳山藩主の崇敬する大社である。そこへお別れの挨拶とこれからの無病息災祈願のために参詣したのであった。帰り掛けは体調も良く予定していた大成寺まで足を伸ばし、やはり引っ越し道中の安全を願って祈祷を受けたのであった。お札守りを貰い百匹のお礼目録を置き、こうして嫁入り前にしておかねばならないことの一つ一つを片付けていくうち再び心は穏やかに落ち着いて行った。
婚礼のしたくは着々と進められていた。十月十五日の早朝、城内の使い走りの小者が徳山城の前の広い通りを引っ越しの行列が通ることを大声で知らせて走る。暗に邪魔立てするなという触れでもある。それから遅れること二・三時間、再び小者が走って一行はゆるゆると城を出立したのであった。先頭を切るのは御先払いの足軽二人、それに続いて毛利の裏紋(女紋)である沢瀉の紋章の入った黒塗りの御先鋏箱の中間四人である。その後を長刀持ちの中間二人、お茶弁当持ち二人それから広鎮、勅子、産みの母・益井のそれぞれが乗った駕籠、華燭の典に列席する家臣の面々が身分の高いものから順に馬にまたがり行列に並ぶ。出頭頭の岡晋を先頭に加判役・両人役・用人役がいつ終わるとも知れない行列に延々続く。医師の増野獨泊の顔も見える。家臣衆の後をそれぞれの陪臣が家格順に三人ずつ付く。その後を勅姫の嫁入り道具である箪笥二竿・長持ち二挺・鏡台・衣装・貝桶・お雛道具・長刀・お琴二挺・お風呂道具一式・書籍の荷担ぎが続き、この日のため臨時に雇われた荷担ぎの交代要員も付き従った。しばらく行くと休憩である。駕籠の中は窮屈で身動きが取れない。駕籠の旅は乗る側も疲労困憊し想像以上に体力を奪われる。そこで前以って借受している家で休憩する。お茶を戴き少し休憩を取ると次の休憩は昼食までない。借りた家には世話になる度合いに応じて金など相応の礼が成された。菓子折りのみですませるところもあった。最初の休憩は福川であった。福川を出るとその夜は富海に一泊、翌日は宮市を経由して山口に宿泊。道中神社仏閣の前を通り掛かれば必ず立ち寄り旅の安全を願って参拝した。決して素通りはしなかった。山口では遠くて伊勢神宮まで行けない人のために、大内氏が伊勢神宮に似せて造らせたという山口大神宮へも立ち寄り、道中の安全を祈願した。大内氏三十代目の義興が神霊を勧請して創建したというだけあって式年遷宮のための敷地を有し、外宮内宮もあり西のお伊勢さんとも呼ばれる。そうして三泊四日にかけての大移動も終わりが近付き、お引越し最後の十八日の朝、白無垢の花嫁衣裳に正装した勅子は輿に乗って明木を後にした。萩との境界であり事実上往還の関所の金谷天神前では四本松家より使者が出迎えに来ていた。
四本松家は間もなくである。
使者を脇に勅子の輿が大門をくぐり式台前に横付けされると上下着用の足軽が二人平伏する間を老女に手を取られて勅子は輿から降りた。親類衆が出迎えていた。その一人に軽く会釈をして少し進むと、家老から祝いの挨拶を受けた。そうして何人顔合わせをしたことだろう。出迎える親類衆や家臣衆から挨拶を受け誰に急かされることもなくそれにいちいち会釈を返せば、正確に時を刻む時計があるわけではなく新郎との対面は昼をとうに下っていた。そこで部屋改まり初めて新婦は新郎とまみえた。勅子が新婦の席に着座すると結婚の儀は開始された。先ず三献の式次第から、二献が済んだところで御雑煮を戴き、三献目を。お吸い物が出て再び一献、そうして結婚式第一日目は終わった。
翌日は舅、舅の母・遊昌院、姑の瑶光院始め親類衆との対面である。勅子は色物に着替えていた。先ず初めに、既に婚家から送られていたお祝いの品々の返礼として、徳山からのお土産贈呈である。それから家臣団との顔合わせがあり十八日に始まった結婚式は延々二十三日徳山の家臣団が引き上げるまで続いた。(ウィキペディア)(お家相続)(江戸三百藩)(防府毛利博物館資料)(勅姫様のお引越し)