同じ月を見ていた
「私は、悪く、無い」
これが、富山県高岡市に、娘を連れて戻って来てからの口癖になった。
地元で5店展開しているスーパーでレジ打ちのパートをしている。9:00~20:00。お昼休みが13:00~14:00、お昼休みの12:00~13:00は忙しいから一時間遅れで昼食を取る。お弁当は娘のお弁当を作った残りをちゃっちゃっと入れたもの。
主に青果コーナーで、商品の入れ替えも行っている。賞味期限切れの商品は、家に持ち帰って使う。鮮魚コーナーの若い男とも仲良しだから、魚も売れ残りを格安で譲ってくれる。
娘の為に、本当はお肉が欲しいのだけれど、お肉コーナーの未亡人は冷たくて、眼の前ですき焼き用の国産和牛肉をダストボックスに捨てる。
私は石倉雅美、43歳。バツイチで5歳の娘と同居中です。アパートですが、五段飾りの雛人形を飾るだけの、経済的にも、空間的のも余裕があります。
元夫と別れた時には示談金も頂きませんでした。娘だけ、高岡市の実家に連れて帰れば良かったのです。
実家では両親は健在ですが、母親が介護を必要としております。ただ、父が元気で、「介護は俺がやる!50年つくしてもらったからな」と、介護を拒み続けたので、丁度お味噌汁が冷めない距離のアパートがあったので、そこに娘と同居しています。
実は、息子がいます。もう20歳。東京で営業マンをしています。結婚して子供もいます。23歳、結婚してすぐに出来た子供でした。元夫と大切に育てました。
夫が大学時代にアウトドアサークルだったので、滋賀の湖西の比良山に家族で山登りに行きました。その頃のトレッキングシューズは今も持っています。息子との大事な思い出です。
息子は、大学に入って上京し、すぐに結婚しました。所謂、「出来婚」でした。大学の新歓コンパで出会った女の子とSEXし、8月には妊娠した事を知って、直ぐに中退して働き始めました。
ですから、結婚式も上げず、身内で披露宴をしたそうです。未だ夫だった方と共に呼ばれず、翌年の年賀状で、妻のお顔を拝見しました。奮発して、新婚旅行に行ったハワイの写真でした。ビキニのお嫁さんは、少しウェストは太っていました。
お昼ご飯を済ませて、青果コーナーの人参を入れ替えます。
「私は」で段ボール箱から人参を取って、
「悪く」でコーナーに並べる。
「ない」で、腰に手をやる。
レジに戻る。
「私は」で商品を取って、
「悪く」でピッとする。
「ない」で、かごに戻す。
何が悪くないのか。離婚の原因だ。娘だった・・・
3年前に閉経した筈だった。もう性にも興味もない、乳房も垂れたみっともない女だ。誰もSEXの興味の対象にしないと思っていたし、自分ももうSEX等したくもなかった。
SEXが嫌いな訳じゃない。耳を触れられるのは好きだ、キスも嫌いじゃない。
ただ、妊娠は嫌いだ。
子供は好き。
でもお腹の皮が弾ける程痛むし、つわりが酷い。後、出産の時、よく一般的に「西瓜が出てくる」苦痛だと言うが、カバが出て来た気がした。最初の息子がこの世に生まれて来た時は。
だから、妊娠だけはしたくなかった。でも、女の子は欲しかった。自分の好きなブランド、Pink Houseのお洋服を、お人形さんごっこみたく、着せ替えをしたかった。息子では無理だったから。
「奥様、ちょっといいですか?」
髭を3日間ほど剃っていない、丁度45歳程、旦那、いえ、元夫と同じ位の歳だと思った。ハンチング帽にバーバリーのコート。所謂探偵に見えたが、差し出された名刺を見ると、とある有名な週刊誌の雑誌記者だった。
探偵や警察と変わらない職業ともいえる。
街頭アンケートで、「女子高生レイプ事件。医大生3人が、地元有名女子高生を泥酔させてレイプ、妊娠させる」について主婦に意見を聞いてきた。
特に答える積りもなかったのだけど、話が上手かったので、つい答えて仕舞った。
そのまま、生まれて初めてバーに行った。元夫とは居酒屋がせいぜいだった。
「フィリップモリス スーパーライト 100‘s」を吸っていた。元夫も吸っていた銘柄だ。だから覚えている。
元夫は、大学時代のアウトドアサークルで、好きだった女の子に、泥酔の時に買ってきて貰ったのが切っ掛けで、この煙草を定番にした。
そんな話を、週刊誌の記者にした。
笑いながらキスをしてきた。最初のKISSは煙草のフレバーがした。
名刺代わりにSEXをした。たった一度きり。彼の車の中で。軽自動車は狭く、助手席のシートに馬乗りになって、バックでした。彼も一回が精一杯で、一万円を払おうとしたが、拒んだのだが「取材料だ」と言って押し付けた。
神奈川ナンバーを見送った。
そして半年、身体がおかしくなった。吐き気が酷い。産婦人科に行った。40過ぎた位で妊娠していた。
元夫には素直に伝えた。
ただ、SEXもしていないのに、怪訝な表情を浮かべたけれども、
「私は」で段ボール箱から白菜を取って、
「悪く」でコーナーに並べる。
「ない」で、目をつぶる。
レジに戻る。
「私は」で商品を取って、
「悪く」でピッとする。
「ない」で、かごに戻す。
女の子だった。欲しかった女の子。でも、もうPink Houseは好きなブランドじゃなくなっていた。
彼と同じ一重まぶた。・・・彼も、茶色っぽい髪の毛をしていた。
元夫は、それでも健気に子育てを手伝ってくれた。
そうとう、娘が嬉しかったらしい。お風呂にも率先して入れてくれたし、おむつも取り替えてくれた。まっさらなおまんこを誰よりも初めて見たのは、元夫だ。愛すべき杏奈のおまんこ。
3年が限界だった。
別れよう、と切り出したのは私だ。
元夫は何も言わず離婚届に印鑑を押した。それで終わりだった。
杏奈は元夫になついていたが、私が引き取る事にした。元夫も了解してくれた。
・・・
一ヶ月に一度、元夫は杏奈に会いに来る。私は一緒にはいない。
週に一度、杏奈がお父さんに「お疲れなさい」メールを動画で送る。
私は写りたくないのだが、手首の加減で、どうしても顔が見切れない。
「私は」で見切り品のラベルをプリントアウトして、
「悪く」で商品に貼る。
「ない」で、涙を拭う。
レジに戻る。
「私は」で商品を取って、
「悪く」でピッとする。
「ない」で、かごに戻す。
・・・
雑誌の記者だった男は、フリーになったらしく、別の会社の週刊誌で「伝説の泡姫『あさがお』の風俗遍歴。赤線から、トルコ風呂、ソープランドへの道のり」と言う記事を書いていた。娘の、本当の父親として、恥ずかしい。
スーパーの仕事を抜け出して、杏奈の夕食の為、自転車でアパート迄戻る。
お味噌汁を作っていると、杏奈が帰って来る。
「ただいま!」
「おかえり」
「ねぇねぇ、今日も健次君の所でお世話になってたんだよ。今日はふかし芋を出してくれたんだ!」
Pink Houseを着せようと思っていた娘はショートカット。春から初冬迄ホットパンツをはいている。
「もう、毎日毎日健次君の所に行って・・・お土産でも持って行かないと。御迷惑ばっかり」
「そんな事ないよ!今日、鯉のぼりを見せて貰ったんだ!子供の日に、七五三の着物着て行っていい?」
「あれは3歳の時のでしょう?・・・まぁ、仕立て直せば、着れない事はないでしょうけど・・・」
お味噌汁が湯だってきた、お味噌の香りが飛んでしまう。
「わかりました。明日リフォーム店に持って行きます。それでいい」
「うん!」
「なら、向こうでTVでも見てらっしゃい」
「はーい」
Pink Houseより、着物だ、って、おませさんだわ。現在の流行に敏感だわ。
夕食後、今日は週に一度の、元夫への「お疲れ様」動画メールの日。杏奈がめかしこんでスマホを覗き込む。
「あー、あー。おとうさんげんきですか。あんなはげんきにようちえんにかよっていますよ。けんじくんといっしょにあそんでいるよ。ひなまつりのときの551のホーライのぶたまんおいしかったです」
「これ、杏奈、30秒しかないんだから」
「わかったおかあさん。だからこどものひの二日まえのおとうさんがくる日には551のホーライのぶたまんかってきてね。それじゃあ、おしごとがんばってください」
画面をオフにする。
私が見切れているか確認してメールする。1/3が見切れていたからいい。
「私は」で画面を再生する。
「悪く」で元夫の電話番号を選択する。
「ない」で、送信する。
・・・
「私は」で元夫の事を思い、
「悪く」であのフリーランスのジャーナリストの事を思い、
「ない」で、杏奈を抱きしめる。
あぁ、この娘も、いつか処女を破られるんだ。でも、どうか、妊娠はさせないで下さい。
あんな苦痛を女に与えた神を恨みます。
男は好き勝手精子をまき散らすだけの生き物。
ああ、健次君は健やかなる人で、杏奈を守ってくれますように。
五月の鯉のぼりは子孫繁栄の願い。でも、杏奈にはあんな苦痛は与えたくない。
中学生になったら、セーラー服が綺麗でしょうね。
「お母さん、痛いよ」
力強く抱きしめていたらしい。涙が杏奈の頬を濡らしたらしい。
中学生になったら、せめて髪は肩まで伸ばしてね。
髪を撫でる。柔らかい、キューティクル一杯の髪。これなら伸ばしても大丈夫ね。
男の人の前ではね、小首を傾げるの。そして、垂れた髪を濡れた唇で咥えるの。それでもう、イチコロよ。健次君だってね。きっと真っ赤になるわ。
そして、おちんちんを痛くするの・・・
淡い思い出。元夫との・・・
そう、彼が東レの三島工場から大阪本社に転勤になって、私が勤めていた部署に配属された日、新入社員の歓迎会があった。
私が一番幼い女の子だったから、隣に座ってお酌をした。
小首を傾げながら、枝垂れた髪を、その日だけ真っ赤に染めたルージュで咥えながら。
終電が無くなり、ホテルを取るお金も二人とも無く、堂島の会社に戻ったわ。
接客用のソファーに二人で寝て、SEXをした。
私は処女だった。
息子が生まれて、私は退職した。専業主婦になった。
会社の同期で3番目に早い結婚。ブーケを受け取った娘は、未だ独身。
・・・
どうして涙が止まらないのだろう。
「お母さん、大丈夫?泣いてるよ」
「・・・人ってね、嬉しい時にも泣くものなの・・・覚えておいて・・・『いい人って冷たい』んだから・・・」
「私は」で涙を拭いて、
「悪く」でティッシュを取って、
「ない」で、鼻をかむ。
杏奈を抱きしめて、
「私は」で髪を撫で、
「悪く」で頬をさわり、
「ない」で、その頬にキスをする。
「私」が「悪く」「ない」んじゃない。誰も悪くないんだ。
そうやって地球は回っている。太陽もフレアを噴出しているし、土星の台風の目も大きいままだ。
寝入った娘を布団に入れて、鏡を見る。
「元気ですかー!」と声を張り上げてみる。
・・・笑ってみる。
そんなに悪くない、まだ30代後半に見えるし、子供二人いるとも思えない。閉経したと思っていた月の周期も戻っている。まだまだ女だ。
・・・月を見る。丁度、満月。
子宮が疼く気がする。
そういえば、元夫は、30歳で東京に単身赴任になり、ナプキンや紙おむつに使う、ポリプロピレンの不織布の営業をやって鬱になった。
その時、私は大阪の茨木の社宅で、息子を育てながら電話をした。
電話の向こうで泣いていた。
中島みゆきの、甲斐バンドのヴォーカルが書いた「仮面」の歌詞を、電話越しに歌ってあげた。
♪ねぇ 覚えてやしないでしょ
私 あんたが 文無しだった
頃から 近くにいたのにさ
近くで見とれていたのにさ・・・♪
貴方、電話の向こうで号泣していたね。私も深沢に行って、抱きしめてあげたかった。
・・・どうして、女に生まれたんだろう。
・・・どうして、女を生んだんだろう。
「私は」で帝王切開だった二回目の出産を思い出し、
「悪く」で、目を閉じる。
「ない」で、涙を拭う。
「私は」で杏奈を見に行き、
「悪く」で布団を直す。
「ない」で、乱れた髪を直してあげる。
・・・。
今日は、オールナイトニッポンでも聞こうかしら。
谷山浩子が好きだった、中島みゆきが好きだった、サンプラザ中野が好きだった、大槻ケンヂが好きだった、中村あゆみが好きだった。
でも、とんねるずは嫌いだった、松任谷由実も嫌いだった・・・
寝よう。
・・・元夫が横にいる気がする。抱いてきそうな、満月の夜。でも朧月夜。それ程性欲は子宮を襲って来ない・・・
明日、杏奈の着物をリフォームに持って行かなくっちゃ、後、燃えるゴミを出さなきゃいけないから、8時には起きなきゃいけない・・・瞼が重くなっていく・・・。
杏奈のセーラー服姿を見るまでは、レジ打ちのパートを続けていよう。
・・・小学校は給食だけど、中学校に入ったらお弁当を作ってあげなきゃいけないし・・・
何気なく、スマホを手にして、ピースサインで写真を撮り、何のメッセージも付けずに、元夫に送った。
もうすぐ、黒部立山アルペンルートの道開きだ。
あの、巨大な雪の壁の間を、バスが通っていく。
室堂では、高山植物の蕾が育っている頃。
・・・寝返り・・・
杏奈を連れて行ってあげようかしら・・・?
元夫は、槍ヶ岳が大好きで、大学時代、登る度に、「アルプス一万尺」をラインダンスで踊っていたそうだ。
寝よう。
布団をかぶった。
一人じゃない、杏奈がいる。そして、元夫と、杏奈の実の親であるフリーランスのジャーナリストも。
・・・抱きしめて欲しい。精子が欲しい。
甲斐バンドの「杏奈」のメロディを思い出した。
♪杏奈 クリスマスキャンドルの灯ま未だ
燃えているか
お前の愛の灯は未だ
燃えているか・・・♫
そうだ、今年の杏奈のクリスマスプレゼントは、Pink Houseのスカートにしよう。テディベア柄の真っ赤な。杏奈は着ないだろうけど、母親として、それ位の我儘はいいだろう。
・・・
フリーランスのジャーナリスト、中原靖男は困っていた。
あさがおに貢ぎ過ぎて金に窮していた。
あさがおの風俗遍歴の記事は話題で、50万円は貰えるらしいが、3か月後で、印税をひかれたら、手元に幾ら残るか分からない。
マグロで評判のじゅんなにも入ったから大赤字だ。
岐阜駅のベンチで寝ている。煙草の吸殻をそこいた辺中にまき散らして。
そして、ある切っ掛けで出会った女の事を思い出してる。
40を過ぎた年頃。SEXをした。女の子が産まれたらしい。
離婚した旦那とは長年性交は無く、どうやら自分が父親らしい。
だが、法廷論争も、賠償金もなかった。
一年に一度、その女の子、「杏奈」の写真を送って来る、押しつけがましく。
・・・次は、、じゅんなの記事にしようか、煙草を燻らせながら思った。
キャバクラで働いていた、榮倉奈々似といっておきながら、実際はブス。
ウェストは70もあろうか。
自分から何も出来ずに、足の指を舐めてと言ったら泣き出して、付け睫毛もとれてしまった。
鬱で病院に通っているとの事。
自分も鬱で、去年、宇治の精神病院、黄檗病院に1ヶ月入院していた話をすると、その話の詳細ばかりを聞いてきた。
結局、口にもオマンコにも一発も発射出来なかった、2時間で八万円。時間も金も無駄だった。
でも、先日取材したあさがお姫の話からすれば、次の記事のネタに打って付けだ。
4月の中旬が過ぎたとはいえ、屋外で寝るのは寒い。
バーバリーのコートのインナーを外していたのが良くなかった。
ハンチングを目深にかぶって、JR東海の退職者であろう人が、花壇を梅雨に向けて紫陽花に変えているのを見ない様にして、眠る事にする・・・
♪ァイト 戦う君の唄を
戦わない奴らが笑うだろう
ファイト冷たい水の中を
震えながら登っていけ♬
杏奈の母親、石倉雅美も、カーテンを開けて、月を見ていた。
同じ月を見ていた。
完)