椛
海を見ていた。
朝は太陽の光を反射してきらきらと輝き、昼は照りつける光が眩しくて目が開けられなかった。
そして夕方から夜に移りゆく今は、沈みゆく太陽とやわらかく輝きだした月が、揺れる水面に一緒になって映っている。
特に何も考えずただぼーっとしている時間が久し振りで、僕はその小さな幸せに浸っていた。
「おい」
誰かに呼ばれたような気がしたけれど、ここには僕のことを知っている人なんていない。
気のせいだと思い、また海をぼんやりと見つめていると
「おい!そこの青い上着のにーちゃん!!」
さっきと同じ声がまた聞こえた。
僕も青い上着を着ているので、もしかして自分のことかな?と思いながら振り返ると、後ろに困った顔をしたオッサンが立っていた。
黒いTシャツの上からでも分かる鍛えられた身体。膝が抜けているジーンズに、踵が踏みつけられてボロボロなのに何だか妙にきれいなスニーカーを履いていてるのが、目についた。
細い目と薄い唇に丸っこい鼻。髪は短く刈り込まれ、これでサングラスでもかけたらヤクザに間違えられても文句は言えないだろうという顔立ちだ。
ただ、今は全身からオロオロした雰囲気を醸し出しているので全く怖くはない。
「おい、兄ちゃん?」
ハッキリ言おう。うらやましい!!
僕なんてわざわざジムにいって鍛えているのにひょろっとした感じから抜け出せないでいるのに。
お腹だって割ったのに誰にも信じてもらえなかったのに!!
「おーい、聞こえてんのか?」
ぽん、と肩を叩かれて僕は正気に戻った。
いけない。いつもの癖でしょうもない事をぐだぐだと考えていたようだ。
「あースミマセン。聞こえてます。
えっと、何かご用ですか?」
問いかけるとオッサンは「あー」と口の中でもごもご言って黙ってしまう。
用があるから声をかけてきたのだろうと思ったんだけど、どうしたんたんだろうか?
何とも言えない微妙な沈黙を破ったのは、オッサンの方だった。
「兄ちゃんはこの辺りのヤツじゃねぇよなぁ?」
それはその通りだったので、素直に「ハイ」と答える。
「んでもって、朝からずーっとここにいるよな?」
「そうですけど?」
だからどうした?という風な返事になってしまったのは仕方ないと思う。つか、何で僕が朝からここにいることを知ってるんだよ。
そんな僕の表情に気づいたオッサンは、何かを悩みながら右手で自分の耳をひっぱっていた。
痛そうなんだけど、癖なのかな?
「いやなぁ、だからどうって訳じゃないんだがなぁ」
いきなり声をかけてきて、用事がないとか訳が分からない。
少しばかり警戒して身構える。
オッサンはひとしきり悩んだ後、頭をぼりぼりかきながらまっすぐにこっちを見た。
ーーー視線が、合うーーー
とても真面目な顔をしてるのに、引っ張っていた耳が赤くなっているのが何だかおかしかった。
「実は俺な、あそこん家のばぁちゃんに毎日三食飯を届けてんだわ。
で、今日は来るたんびに兄ちゃんがじーっとそこに座ったまんまだから気になってたんだよ」
「あそこな」と指差された場所は僕が座っていた堤防の斜め向かいで、それなら僕が朝からいたのを知っていてもおかしくないな。と、納得した。
ただ、このごついオッサンが毎日ご飯を届けてるなんて違和感がありまくりだけれど。
「兄ちゃんはこの辺りじゃ見ない顔だし、釣りをするわけでもなくずーっとここに座ってるから気になってなぁ。
ちなみに宿は決まってんのか?」
何で配達から宿の話になるのかは分からないけど、一生懸命に話しているオッサンを冷たくあしらうのも可哀想で、僕はオッサンの問いに答えることにした。
「決めてないです。これから帰るつもりですし」
時刻は五時半を過ぎたばかり。
もちろん、時間なんて気にしてなかったことはにっこり笑顔の裏に隠している。
「うん、兄ちゃん。残念なお知らせがある」
「?」
「今日のバスは30分前に仕舞いだ」
「えっ!?」
最終が五時とかサラリーマンに喧嘩売ってるのかココは!
あぁでも田舎だしみんな車移動なのか?
「町に出るバスは明日の朝までないし、ここらで宿っつったら一軒だけだ。
ちっこいトコだが一応温泉もあるし、飯もまずくはない…と思うが、どうする?」
僕より背が高くて見た目はごつい癖にこう、雰囲気が小動物的なオッサンって需要あんの?
そう思い付いたら何だか面白くなってきて、初めは我慢しようと思ったんだけど、どうにもこうにも止まらずに笑い転げてしまった。
オッサンは突然笑い出した僕に驚いていたが、止まらない僕を見て自分が笑われていると気づいたのか眉間にシワを寄せてこっちを睨んできた。
しかし、うっすらと頬を赤く染めているので、怒ってるだけではなさそうだ。
ひとしきり笑った後ーーオッサンは僕の笑いの発作が止めるまで待っていていてくれたーー僕は、オッサンの申し出にありがたく乗ることにしたのたった。
****
旅館に向かいながら、まず僕たちがしたのは自己紹介だった。
「本庄 真樹です。
よろしくお願いします」
「土屋 徹だ。
こちらこそよろしくな」
顔をくしゃくしゃにして笑う土屋はやさしそうで、初対面の時の印象とは大違いだった。
「着いたぞ」
30分ほど歩いた先にあった旅館は聞いていた通り、こじんまりとした所で旅館というより民宿のような感じがする。
玄関の上にある一枚板の看板には『椛』と書いてあるが、あれは何と読むのだろう?
“うーん”と悩んでいると、土屋に頭をぽんぽんと叩かれた。
うん、何で僕は小さい子扱いされてるのかな?
「止めて下さい」
「いやぁ、丁度いい高さで……って看板読めたか?」
慌てて誤魔化しても聞こえてるんだけど…まぁ今は誤魔化されてやろう。
「読めないです。なんて読むんですか?」
「やっぱ読めないよなぁ~あれはな『もみじ』って読むんだよ」
教えてもらって見直したが、ピンと来ない。
『もみじ』の漢字は『紅葉』じゃなかっただろうか?
こういう時にはスマホで……と思って取り出した所で電池切れでした!残念!!
顔を上げると、一人で色々とやっている僕を放って土屋は宿の玄関に入っていく所だったので、あわてて後を追った。
「いらっしゃいませ」
優しそうな、安心する声だな。
そう思って中を見ようとしたけれど、それほど広くはない玄関の目の前に土屋がいて、僕の位置からは声の主が全く見えない。
「さぁ、お客様は中へどうぞ。
土屋さんは早く退いて下さいな。貴方の体でお客様が見えないじゃあありませんか」
土屋の体の隙間から玄関をのぞくと、少しばかり横に広がったおばさんが、にこにこと微笑みながらこちらを見ていた。
「兄ちゃん、この人が女将の朝生さん。
朝生さん。この人がお客さんの本庄さん」
「いらっしゃいませ、本庄様。
小さい宿ですがゆっくりしていって下さいね」
「はい、よろしくお願いします。」
そのまま土屋さんは奥に入って行き、僕は朝生さんに部屋まで案内してもらう。
あてがわれた部屋は、古いながらもきちんと手入れされた気持のいい部屋だった。窓からは海が一望でき、景観も文句はない。
ただ、どうみても一人部屋とは思えない広さで本当にこの部屋でいいのか躊躇してしまった。
だって、知り合い価格なのか知らないけど三食付きで一泊五千円なんだよ。なのに部屋は2~3人は余裕で泊まれる広さなんだからビックリするのは当然だと思う。
「広いからビックリされました?
実はうちは一人用の部屋がないんですよ。お客様は釣り客の方が多くて、しかも2~3人以上で釣りに来られる方が大半なんです。
この部屋はうちで一番狭い部屋なので気兼ねせずにお使いください。
いつも一人のお客様にはこの部屋を使って頂いてるんですよ。」
僕が驚いているのに気づいた朝生さんがにこやかに説明してくれる。
ためらいはまだあったけれど、女将がいいと言ってるんだし。という事で、僕はありがたく部屋を使わせてもらうことにした。
「ふ~」
夕食まで少し時間がかかるとの事だったので、僕は先にお湯を貰って火照った体を窓際に設置してあるソファに埋めて一日座りっぱなして固まっていた体をほぐしていた。
風呂は檜風呂と露天風呂の二種類で、露天風呂からも部屋と一緒で海が見えたし、檜風呂は木のいい香りが浴室内に充満していて更にお湯も少し重くて僕好み。
そんなに広くはなかったけれど、僕的には大満足だった。
しばらくぼーっとしていると、襖の外から声をかけられる。返事をすると、朝生さんが夕食を配膳してくれた。
「こんなものしか用意できなくてごめんなさいね。
お口に合うといいのだけど・・・」
実は今日、この宿には僕以外の宿泊客はいないらしい。シーズンオフで元々宿泊までして釣りをする人が少ない上に、ほかの客は今朝全てチェックアウトしたのだそうだ。
しかし、用意された夕食は急ごしらえとは思えないものだった。
刺身の盛り合わせにたっぷりシジミの入った味噌汁。カボチャやエビなどの天ぷらに茶碗蒸し。それにお櫃に入った炊き立てだろうご飯もある。
どれもこれも美味しくて、結構な量があったのに僕はぺろりと平らげてしまった。
お膳を下げにきた朝生さんに観光できる場所が無いかを聞いてみる。
宿に着いた時は一泊して帰るつもりだったけれど、雰囲気もいいしご飯も美味しいので少し連泊したくなったのだ。安いしね!!
朝生さんは
「あまりないんですけどねぇ」
と言いながらもこの辺りの観光スポットを教えてくれた。話しながら部屋を片付け、布団も敷き終わっていたのは流石です。
ふと時計を見ると、まだ9時前だった。
しかし風呂で温まった上に、おいしい料理で満腹になった今、心地いい睡魔が這い寄ってきていたので、僕はそのまま布団とお友達になることにしたのだった。
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”腹減ったぁ”
目が覚めてまず、最初に思ったのがそれだった。
夢見心地のまま階下から漂う味噌汁のいい匂いに釣られて階段を下ると、黄色いエプロンをした土屋と目が合う。
・・・ごっついオッサンに黄色いエプロン・・・
それだけでも異様なのに、エプロンの胸元にはかわいらしいマーガレットのアップリケまでくっついている。
似合わない。ものすごく似合っていない。
まだ、黒の無地とかならいいのに何で黄色。何でアップリケ。
あまりの姿に呆然としていると、その異様な物体は僕に向かって『にかっ』と笑いかけてきた。
「おはよう。
もーすぐ朝飯出来るからなー。ちっと部屋で待っててくれや」
すでに僕の思考回路は半分フリーズしてるのに、そんな言葉が耳に入っても理解出来ている訳がない。
案の定、土屋が厨房に戻ってもう一度出てくるまでの間、僕は固まったままだった。
「おーい。兄ちゃん?起きてるかー?
飯、部屋に運んどくから早く来いよ」
土屋が階段にたどり着いた所でやっと意識が戻った僕は、慌てて彼の後を追ってそのまま追い越して布団にダイブした。
固まるのは解けたけど、次は笑いの発作が出てきそうで大変だったんだ。
布団に顔をうずめると同時に限界がきて、僕は掛け布団をひっつかんでひーひーと大笑いをしてしまった。
数分たってやっと笑いの発作が治まって顔を上げると、部屋の机の前に黄色いエプロンをつけた土屋が座っていた。
「うっわ!?何で!?」
思わず声を上げると、土屋は無言で机の上を指差す。
そこにはシャケの塩焼きにほうれん草のおひたし、出汁巻き卵に味噌汁、そしておひつに入ったご飯が並べられており、朝食が準備万端整っていた。
「飯運んでたらすげぇ勢いで追い抜いて行くんで何事かと思ったら部屋で笑い転げててな……
理由は分かってっから取り合えず放置してみたんだわ」
にこやかに言っているが、目が笑っていない(ように見える)
気まずくなった僕はあわてて机の前に座ると
「いただきますっ!」
と手を合わせた。
味噌汁からを一口すすると、口の中いっぱいにかつおだしの味が広がり、腹ペこなのを思い出した僕の箸は活動を開始した。
シャケは脂がのっていて皮はカリカリだし、箸休めのおひたしはふんわりと優しい味だ。出汁巻き卵なんてふわふわのとろとろで、焦げ目なんて全然ない。
半分ちょっと食べて少し落ち着いたので顔をあげると、にこにこと笑う土屋と目があった。
本当に嬉しそうで、幸せそうに笑っている顔にドキッとして、僕は慌てて残りのご飯をかきこむ。
いい歳したオッサンを可愛いと思うなんて、気の迷いだし!!
自分に言い聞かせながら食事を終えると、すさかず新しいお茶が出される。“料理上手で気の利く奥さんになれるな”と馬鹿なことを考えていた。
「ごちそうさまでした」
感謝の気持ちを込めて手をあわせると「お粗末様でした」と律儀に返してくれて、また少し、心がほっこりする。
「今日の朝ごはんって、土屋さんが全部作ったんですか?」
「そうだぞ。ちなみに昨日の晩飯作ったのも俺な。
ココで雇われてんだよ」
「マジで?
昨日も今日も凄い好みの味だったんだよね!!
いいなぁ、ここに住みたいなぁ~」
冗談半分本気半分で言うと、土屋は笑いながら僕の頭をぐちゃぐちゃとかき回してきた。
僕は知り合い以外に触られるのが、あまり好きじゃない。
普段なら全力で拒絶するのだけれど、何となく、土屋に触られるのは平気な気がしたんだ。
嫌悪感ではなく、安心感が凄く大きい。
いつもと違う自分の感覚を疑問に思いはしたけれど、ゆっくりとなでてくれる土屋さんの手が気持よくって、そんな事はどうでもよくなる。
ふわふわとした心地よさに混ざった小さな好意を、僕はあえてそのままにすることにした。