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第七章:強欲の陥穽(かんせい)

 東京、帝国電産本社。部長室の空気は、梅雨の湿気と黒田の焦燥で、息が詰まるほど重かった。


「……動かん。なぜ動かんのだ!」


 黒田はデスクの上にある、健一が残していったデータを解析した報告書を、引き千切らんばかりに握りしめた。

 健一が去ってから三ヶ月。黒田が「自分の手柄」として役員会議で大口を叩いた「次世代エネルギー効率プロジェクト」は、完全に暗礁に乗り上げていた。

 健一の残した数式は、まるで古代の暗号のようで、本社のエリート技術者たちが総出で解析しても、その真意にたどり着くことさえできない。


「黒田部長……。役員の方々から、来月のプロトタイプ発表について、進捗の確認が……」


「うるさい! 黙っていろ!」


 部下の報告に、黒田は灰皿を壁に投げつけた。

 ガシャン、という音とともに、灰がフロアに散らばる。


 その時、黒田の携帯が震えた。

 画面には、健一が出向した北の街に送り込んだ産業スパイからの、緊急連絡が表示されている。


『部長。アステリズム・エナジー(健一の新会社)のサーバーから、常温超伝導の初期データを抜き出すことに成功しました。……ただし、暗号化が非常に複雑です』


 黒田の瞳に、ギラリとした強欲の光が宿った。


「……よくやった。今すぐそのデータをこちらへ送れ。本社のメインフレームで解析させる」


 黒田は、勝利を確信した。

 健一が個人名義で特許を取ったとしても、その技術を「帝国電産が先に実用化」してしまえば、世界は帝国電産のものになる。健一など、またゴミのように捨ててやればいい。


 だが、黒田はまだ気づいていなかった。

 健一という「黄金の知性」が、ただ奪われるだけの存在ではないことに。



閑話:祭り囃子の夜に(健一と遥の急接近)


 北の街に、夏が来た。

 東京のような茹だるような暑さではない。爽やかな潮風が、祭りの熱気を心地よく運んでくる。


「佐藤さん、あっちの屋台、イカ焼きのいい匂いがしますよ」


 工場の事務室。遥が、デスクワークをしていた健一に声をかけた。

 今日は、街の「港祭り」だ。岩田社長は「俺は地元連中と飲むから、お前らは二人で祭りでも見てこい!」と、早々に二人を追い出していた。


「……そうですね。少し、休憩しましょうか」


 健一は眼鏡を外し、疲れた目をこすった。

 遥を振り返った瞬間、彼は言葉を失った。


「……あ。佐藤さん、どうしました?」


 遥は、藍色を基調とした、落ち着いた朝顔柄の浴衣を着ていた。髪は少しアップにして、普段は見せないうなじが、石油ストーブの光に照らされて白く輝いている。


「いえ、何でも。……瀬戸さん、すごく似合ってます」


「……あ、ありがとうございます。母が遺してくれた浴衣なんです」


 遥は、少し照れくさそうに俯いた。


 二人は、祭り囃子の音に誘われるように、街へと繰り出した。

 屋台の明かりが、アスファルトをオレンジ色に染めている。人混みの中で、遥の浴衣の袖が、健一の腕に何度も触れた。


「……佐藤さん。ここに来て、もうすぐ半年ですね」


「ええ。随分と遠いところに来たような、でも、あっという間だったような気もします」


「……私。佐藤さんが来てくれて、本当によかったと思っています。この工場も、私も……佐藤さんの静かさに、救われた気がするんです」


 遥の声は、祭り囃子の音にかき消されそうになりながらも、健一の心に真っ直ぐに届いた。

 その時、人混みが急に激しくなり、遥の体が健一の方へ押しやられた。


「……あ」


 健一は、とっさに遥の手を掴んだ。

 遥の手は、少しひんやりとして、でも、驚くほど柔らかかった。


「……すみません。人混みが凄いので、はぐれないように」


「……はい」


 遥は、繋がれた手に少し力を込めた。

 二人の間に、祭り囃子も、人混みの喧騒も届かない、静かで温かな時間が流れた。

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