第四章:北風と錆びた門
新千歳空港に降り立った瞬間、肺の奥まで突き刺さるような冷気が健一を迎え入れた。
三月の北海道は、春の気配など微塵もなく、灰色の空から湿った雪が舞い落ちている。健一は、東京の百貨店で急ぎ買い求めた安物のコートの襟を立て、重いボストンバッグを抱え直した。
数時間をかけて辿り着いたその場所は、札幌の市街地からさらに離れた、潮風の当たる工業地帯だった。
『帝国電子部品』
その社名が刻まれた門扉は、長年の塩害で茶色く錆びつき、力なく開け放たれていた。
「……ここか」
健一の吐く息が、白く濁って消える。
本社のような自動ドアもなければ、受付もいない。そして、守衛の鋭い視線もない。あるのは、遠くで聞こえる波の音と、規則正しく響くプレス機の重苦しい駆動音だけだった。
事務所の引き戸を引くと、石油ストーブ特有のツンとした匂いが鼻を突いた。
「おーい、誰だ?」
奥から出てきたのは、ヨレヨレの作業服を着た、小太りの男だった。頭にはタオルを巻き、手には油汚れのついた軍手を持っている。
帝国電子部品の社長、岩田剛。
彼は健一の顔を見るなり、鼻を鳴らした。
「ああ、本社の……佐藤とかいう。随分と弱々しいのが来たもんだな」
「……本日付で着任しました、佐藤健一です。よろしくお願いします」
健一が深く頭を下げると、岩田は「フン」と興味なさそうに視線を外した。
「うちは見ての通りだ。本社で捨てられた『不良品』を修理して、小銭を稼ぐだけの場所だ。ハーバードだか何だか知らねえが、ここでは学歴は腹の足しにもならねえ。とりあえず、あそこの隅っこに座ってろ」
岩田が指差した先には、ガタついた木製のデスクがポツンと置かれていた。
健一がその席に腰を下ろそうとした時、隣のデスクから一人の女性が立ち上がった。
「お疲れさまです、佐藤さん。私は事務を担当している、瀬戸と申します」
瀬戸遥。
落ち着いたネイビーのカーディガンを羽織った彼女は、丁寧にお辞儀をした。
その仕草には、地方の小さな工場には不釣り合いなほど、洗練された品格があった。だが同時に、彼女の瞳には、自分と同じような深い喪失の影が宿っているのを健一は見逃さなかった。
「……瀬戸さん。よろしくお願いします」
「はい。ここ、冬は本当に冷えるので。よかったら、この膝掛けを使ってください」
遥が差し出したのは、少し毛玉のついた、厚手のブランケットだった。
東京では、誰も健一の「寒さ」を気にかけてなどくれなかった。黒田部長は彼を道具として使い、美紀は彼を財布としてしか見ていなかった。
見ず知らずの女性から差し出された、ささやかな温もり。
健一は、それを壊れ物のように大切に受け取った。
閑話:木製の食卓(健一と遥の日常)
着任から一週間。
健一の生活は、驚くほど単調で、そして静かだった。
午前八時に出社し、午後五時まで不良品の検品。退社後は、会社近くの古いアパートで、一人で眠る。
「佐藤さん、今日はまだ残っていらしたんですか?」
午後六時。事務所の掃除をしていた遥が、デスクに突っ伏して古い回路図を眺めていた健一に声をかけた。
「あ、すみません。つい、この機械の構造が気になってしまって」
「根詰めるのもよくないですよ。……これ、母が送ってくれたジャガイモで作ったコロッケなんです。よかったら、夕食にでも」
遥が差し出したのは、アルミホイルに包まれた、まだ温かいコロッケだった。
二人は事務所の片隅にある小さなテーブルに座った。石油ストーブの上で沸騰するヤカンの音が、シュンシュンと鳴り響いている。
「……美味しいです。中が、すごくホクホクしていて」
「ありがとうございます。北海道のジャガイモは、それだけでご馳走ですから」
遥は、自分の分のお茶を啜りながら、窓の外の暗い海を眺めた。
「佐藤さんは、どうしてこちらへ? 本社では、とても優秀な技術者だったと聞いています」
健一は、コロッケを噛み締めたまま、言葉を選んだ。
「……居場所を、失くしたんです。家族も、仕事も、すべて。僕は、のほほんとしすぎていたんでしょうね」
自嘲気味に笑う健一に、遥は真っ直ぐな視線を向けた。
「のほほんとしていることの、何がいけないんですか。……世界が、忙しすぎるだけです。佐藤さんのその静かさは、きっと誰かを救う力になると思いますよ」
健一は、遥の言葉を反芻した。
救う力。
これまで一度も、そんな風に言われたことはなかった。
遥もまた、かつて東京の証券会社でボロボロになり、この街に流れ着いた一人だった。傷ついた者同士だからこそわかる、言葉にならない連帯感が、そこにはあった。




