第三章:決別の雨
その日は、急な機材トラブルで仕事が午前中に切り上げとなった。
健一は、家族を驚かせようと、デパートで高価なフルーツタルトを買って帰宅した。
玄関の鍵を開けると、家の中からは快活な男の笑い声が漏れていた。
「ハハハ! それは面白いね、美紀さん。次はイタリアの別荘でも買おうか」
「まあ、佐藤さんったら! そんなの、夢みたい」
リビングを覗き込むと、見知らぬ男が美紀の肩を抱き、あろうことか健一の定位置であるソファの中央に座っていた。
結衣と愛梨も、その男の膝に縋り付くようにして、プレゼントされた高級バッグやゲーム機を眺めて笑っている。
「パパ……」
愛梨が健一に気づき、部屋の空気が一瞬で凍りついた。
「あら、早かったわね」
美紀は焦る風でもなく、ゆっくりと立ち上がった。その瞳には、隠し事を見つかった後ろめたさなど微塵もなく、ただ「邪魔者が来た」という露骨な嫌悪感だけがあった。
「美紀、その人は……。結衣、愛梨、どうして……」
「どうして、じゃないわよ。見ての通り。佐藤さんは、私たちを『本物の幸せ』に連れて行ってくれる人。あなたみたいな、負け犬の万年主任と一緒にいるなんて、もう限界なの」
不倫相手の佐藤は、健一を値踏みするように眺め、鼻で笑った。
「君が佐藤健一君か。話は聞いてるよ。ハーバードを出ておきながら、窓際でくすぶっている無能だってね。美紀さんと子供たちは、僕が責任を持って引き取る。君みたいな『重荷』からは、解放してあげるよ」
健一の手にあったタルトの箱が、床に落ちた。
鮮やかなイチゴが潰れ、真っ白なクリームが床を汚す。
「……お父さん、もういいよ。佐藤さんの方が、私たちを大事にしてくれるし、お金もいっぱい持ってるもん。お父さんは、一人でその暗い会社にこもってればいいじゃん」
結衣の言葉が、健一の心に最後の一撃を与えた。
彼の中にあった何かが、音を立てて砕け散った。
それは悲しみではなく、底冷えするような「虚無」だった。
「……分かった」
健一の声は、自分でも驚くほど静かだった。
「離婚しよう。家も、貯金も、すべて君たちにあげる。その代わり、今すぐ僕の前から消えてくれ。二度と、私の前に現れないでほしい」
「ええ、言われなくてもそうするわ。さあ行こう、佐藤さん、みんな。こんな貧乏臭い部屋、もう未練なんてないわ」
嵐が去った後のような静寂の中、健一は床に散らばったタルトを見つめていた。
「……のほほんとするのは、もう終わりだ」
翌日。会社に出社した健一を待っていたのは、さらなる「追放」の宣告だった。
黒田部長が、歪んだ笑みを浮かべて辞令を突きつけた。
「佐藤君。君には北の果ての関連会社、『帝国電子部品』へ行ってもらう。実質的な左遷だ。本社にはもう、君の席はないんでね」
健一は無言でそれを受け取った。
すべてを失った。家族も、住む場所も、プライドも。
だが、彼の瞳の奥では、これまで眠らせていた「黄金の知性」が、静かに、そして鋭く、牙を研ぎ始めていた。




