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第二章:冷え切った食卓

 午後八時。健一は世田谷の自宅へと辿り着いた。

 妻の美紀が「ステータスのために」と無理をして選んだ、駅近の高級マンション。

 玄関のドアを開けても、温かい夕食の匂いはしなかった。


「ただいま」


 声をかけると、リビングのソファでワイングラスを傾けていた美紀が、こちらを見向きもせずに言った。


「遅かったわね。また黒田部長に絞られてたの?」


「……まあ、少しね。夕飯はあるかな」


「冷蔵庫にスーパーの惣菜があるわ。勝手に温めて食べて。私は結衣と愛梨を連れて、佐藤さんとフレンチに行ってきたから」


美紀の口から出た「佐藤さん」という名前に、健一の指先がわずかに震えた。

 佐藤。最近、美紀が「投資のアドバイスをくれるエリート」として頻繁に名前を出す男だ。


「パパ、汚い。その格好でこっちに来ないで」


 中学二年生の長女、結衣がスマートフォンから目を離さずに言い放った。

 隣で雑誌を読んでいた次女の愛梨も、同調するように顔を顰める。


「本当。パパのシャツ、コーヒー臭いよ。お母さんが言ってたけど、パパは会社で一番給料が低いんだって? 恥ずかしくて、授業参観に来てほしくないな」


 健一は、キッチンで一人、冷え切ったメンチカツをレンジに入れた。

 彼がこの家のために、どれだけの屈辱に耐え、どれだけの睡眠時間を削って働いているか。それを彼女たちが知ることはない。

 美紀が毎日、子供たちに父親がいかに「無能」で「価値がない」かを吹き込んでいる。


「美紀……。週末、久しぶりに家族で出かけないか。結衣が欲しがっていた靴も……」


「週末? 無理よ。佐藤さんが、会員制のゴルフ場に連れて行ってくれるの。あなたみたいな万年主任には縁のない場所よ。一人で家で寝てればいいじゃない」


 美紀の左指が、癖のように髪の先を弄る。

 健一はそのサインが「嘘」と「裏切り」の混じったものであることを知っていたが、心の中に湧き上がった波紋を、無理やり押し殺した。


 のほほんと、笑っていればいい。

 いつか、わかってくれる。

 そんな淡い期待が、数日後、地獄のような光景によって打ち砕かれることになるとも知らずに。



閑話:折れた翼の辿り着く場所(瀬戸遥の過去)


 三年前の春。

 新宿駅のホームは、帰路を急ぐ群衆の熱気で溢れていた。

 瀬戸遥は、その雑踏の中で、自分がどこに立っているのかもわからなくなっていた。


 最大手証券会社の法人営業。

 それが彼女の肩書きだった。二十代のすべてを、数字とノルマに捧げてきた。

 上司の顔色を伺い、顧客に不利益な商品を「これが最善です」と笑顔で売りつける日々。


「瀬戸、次の一億が決まらなければ、来月の席はないと思え」


 その言葉が、彼女の耳の奥でずっと鳴り響いていた。

 心拍数が上がり、呼吸が浅くなる。目の前の景色が歪み、ホームに滑り込んでくる電車の音が、巨大な獣の咆哮のように聞こえた。


「……もう、無理」


 気がつくと、彼女は病院の待合室に座っていた。

 重度の適応障害。医師から手渡された診断書を見た時、彼女が感じたのは絶望ではなく、奇妙なまでの安堵だった。


 会社を辞め、実家のある北の街へ戻った。

 かつての「バリキャリ」としてのプライドは粉々になり、自分には何の価値もないと思い詰めていた彼女を拾ったのが、遠い親戚である岩田だった。


「遥ちゃん、うちは数字に強い奴がいなくて困ってるんだ。泥臭い仕事だけど、手伝ってくれないか。空は広いし、魚は美味いぞ」


 岩田の工場「帝国電子部品」は、油の匂いと、規則正しい機械音に満ちていた。

 東京のような殺気はない。ただ、実直に物を作る人間たちの呼吸がある。

 遥はここで、ようやく自分の名前を取り戻した。

 そして、北の街の冷たい海風が、彼女の心を少しずつ、凪の状態へと導いていったのだ。



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