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第一章:灰色の歯車

本作を手に取っていただき、ありがとうございます。この物語は、理不尽な組織や冷え切った家庭の中で、自分の価値を見失いかけているすべての人へ贈る「再生と報復」の物語です。沈黙を守り続けてきた一人の天才が、牙を剥いた時に何が起きるのか。北の大地の澄んだ空気とともに、凍てついた心が熱く燃え上がるカタルシスを、どうぞ最後までお楽しみください。

 窓の外には、鈍色の雲が低く垂れ込めていた。

 午後三時。帝国電産本社ビルの十五階は、サーバーの排熱と、数十人の社員が吐き出す二酸化炭素で、逃げ場のない熱気に満ちている。


 佐藤健一は、使い古されたキーボードを叩く音の中にいた。

 カタ、カタカタ。

 周囲の喧騒から隔絶されたような、規則正しいリズム。彼の視線の先にあるモニターには、常人には理解不能な数式の羅列が、滝のように流れ落ちている。


「おい、佐藤」


 背後から、湿り気を帯びた声がした。

 振り向かなくてもわかる。部長の黒田だ。

 健一が椅子を回すと、そこには安物の香水をきつく漂わせた黒田が、丸まった背中を見下ろして立っていた。


「……はい、黒田部長。何か」


「何か、じゃない。例の次世代エネルギー効率の報告書はどうなった。役員会議は明日だと言ったはずだぞ」


「あと三十分で終わります。現在、量子干渉によるロスを……」


「能書きはいい! お前のその、のほほんとした顔を見ていると反吐が出るんだ」


 黒田はデスクの上にあった健一のコーヒーカップを、わざとらしく手で払いのけた。

 ガチャン、という乾いた音がフロアに響く。

 茶褐色の液体が、健一の使い古したシャツに染み込んでいく。


「あ……。すみません、すぐに拭きます」


「お前は本当に、ハーバードを出ているのか? 学歴だけで仕事ができると思うなよ。お前のような『万年主任』を置いてやっているだけでも、会社にとってはボランティアなんだ」


 周囲の若手社員たちが、クスクスと忍び笑いを漏らすのが聞こえた。

 健一は何も言わず、膝をついて床を拭いた。

 シャツに染みたコーヒーの熱さが、どこか遠い世界の出来事のように感じられた。


 彼にはわかっていた。

 黒田が自分を苛むのは、健一の提出する理論が、黒田の理解を遥かに超えているからだ。自分の無知を隠すために、相手を貶める。それは、組織という檻の中で繰り返される、滑稽で悲しい儀式だった。



閑話:黄金の双星(リアムとの回想)


 十五年前。アメリカ、マサチューセッツ州。

 真冬のケンブリッジは、すべてを凍てつかせるような静寂に包まれていた。

 ハーバード大学、物理学部の研究棟。その一室で、一人の男が髪をかき乱していた。


「信じられん……。ケン、お前は一体何を食べて育てば、こんな発想が出てくるんだ」


 叫んだのは、ウィリアム・ハリソン――後に世界最大級の投資グループを率いることになる、リアムだった。

 彼は全米から選りすぐられた天才たちの中でも、常に頂点に君臨してきた。だが、この少し眠そうな目をした日本人、佐藤健一だけには、一度も勝てたことがなかった。


「……そんなに驚くことかな。摩擦がない場所なら、力はもっと素直に流れるはずだよ」


 健一は、手垢のついたノートにさらさらと鉛筆を走らせた。

 そこには、既存の熱力学の限界を突破する、革命的な数式が記されていた。


「素直、だと? お前が書いているのは、神の領域の計算だぞ。ケン、お前は世界を変えられる。いや、変えなきゃいけないんだ」


「僕は、ただ静かに数式と向き合っていたいだけだよ。世界なんて、もっと元気な人が変えればいい」


 リアムは健一の肩を強く掴み、真っ直ぐにその瞳を見つめた。


「いいか、ケン。お前のその『のほほん』とした優しさは、いつかお前自身を食い潰すぞ。牙を持たない天才は、凡人の嫉妬という名の毒に殺される。もし、お前が自分の居場所を失うようなことがあったら……その時は、迷わず僕のところへ来い」


 健一は、その時のリアムの真剣な表情を、どこか他人事のように眺めていた。

 牙など持たなくても、誠実に生きていれば、道は開ける。

 当時の彼は、まだ本気でそう信じていた。

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