九話 静寂の音
【第一章:三時の報酬】
六月半ば、珍しく雲の切れ間から初夏のような日差しが差し込んどった。
「お待たせっす! 『十路人』特製のダージリンと、名山マスター秘蔵のクッキーっすよ」
コジが弾んだ声で戻ってきた。かつては廃材で湯を沸かしよったのが嘘のごたる。事務所のちゃぶ台には、今やささやかな「午後のティータイム」が並ぼうとしとった。
だが、コジが湯呑みを片付け始めたその時、古びた引き戸が遠慮もなく開け放たれた。
「失礼する。ここが伊頭の事務所か」
入ってきたのは、仕立ては悪くないがどこかくたびれたスーツを着た男。その隙のない、しかし猜疑心に満ちた視線を見て、伊頭は椅子に深く腰掛けたまま、薄く笑った。
「……弁護士さんが、何の用ね?」
【第二章:留守電の断末魔】
男は名乗ろうとして口を開けたまま、虚を突かれたように固まった。
「……なぜ弁護士だと? いや、今はそんなことはいい。伊頭さん、あなただな。この資料を見ていただきたい」
男は鞄からA4サイズの茶封筒を取り出し、ちゃぶ台に置こうとした。だが、伊頭は興味なさげに窓の外を眺め、手を出そうとはせん。
コジは空気を察し、クロを抱き上げると「オイラは奥で猫の世話してくるっす」と、足早に奥の部屋へ引っ込んだ。
男は業を煮やし、封筒から小さなテープレコーダーを取り出して、ちゃぶ台の真ん中に置いた。
「……留守電のテープか。どうしたとや、それが」
「ある殺人事件の被告、私の依頼人である奥様を助けたい。これは証拠品のコピーだが……ある人物に、あんたに『本物』だと言わせれば、裁判に出しても良いと言われた」
「誰に言われた」
「……山代という刑事だ」
伊頭は一瞬だけ眉を動かし、すぐに口の端を吊り上げた。警察側の人間が、なぜ弁護士に自分を紹介したか。その「毒」の意味を、伊頭は即座に理解した。
「……よかろう。聴くだけは聴くたい」
【第三章:チプカシの時報】
再生ボタンが押された。
スピーカーから流れてきたのは、男女の言い争う声。そして、突然の短い悲鳴。その直後、ガチャリと電話が切れる音が響いた。わずか数秒の、死の記録。
その静寂の直後、弁護士の左腕から、安っぽいが実用性だけは折り紙付きのデジタル時計——カシオのAE-1200、通称「チプカシ」が「ピピッ」と無機質な時報を告げた。午後三時ちょうど。
「……もうよかろ。聴くだけ聴いた。さあ、帰ってくれ。これからティータイムたい」
伊頭は冷淡に言い放った。奥の部屋から、コジの堪えきれん吹き出し笑いが聞こえてくる。
「なっ……! 判断を仰ぎに来たんだ! 専門家としての意見を……!」
弁護士は憤慨して食い下がったが、伊頭は力ずくで彼を玄関まで押し出した。
扉を閉める間際、悪態をつく男の背中に、伊頭は一言だけ投げかけた。
「……そのテープ、証拠に出してよかよ。奥様とやらは無実たい。あんた、頑張りんしゃい」
弁護士は毒気を抜かれた顔をしたが、すぐに鼻を鳴らして去っていった。
【第四章:共謀の紅茶】
「……コジ、携帯ば貸せ」
伊頭は奥から出てきたコジからスマホを受け取ると、山代の直通番号を叩いた。
「……俺だ。変な弁護士ば寄こしやがって。ティータイムが台無したい」
文句を言いながらも、伊頭の声には隠しきれん含み笑いが混じっとった。
「……あんたも悪い男やな、山代。あの弁護士が犯人やろう。……ああ、あのテープが決定的な証拠たい。悲鳴のすぐ後に、微かに入っとったよ。あの男が今も腕に巻いとる、くたびれたカシオの時報の音がな。……奥様を無実にするための証拠として提出されたら、鑑識に回して音紋の裏付けば取ればよか。身に覚えのある時刻に、自分の腕で鳴った音が、自分の首を絞めることになる……皮肉なもんやな」
電話の向こうで山代が低く笑う気配がした。
「所長、お疲れっす。推理の後は、甘いもんが一番っすよ」
コジが淹れ立ての紅茶とクッキーをちゃぶ台に並べた。
窓の外では、那珂川の風が梅雨の湿気を吹き飛ばしよった。
伊頭はクッキーを一つ手に取り、静かになった部屋で、ようやく訪れた午後の音に耳を澄ませた。




