八話 しょんなかねー
【第一章:六月の静寂】
那珂川を白く煙らせる長い梅雨。
家賃18,000円の平屋では、コジが子猫の世話に明け暮れ、小百合が電話で里親探しに奔走しとった。
伊頭は縁側で雨のカーテンをぼんやりと眺めとったが、ふと立ち上がり、「ちょっと出てくるばい」とだけ言い残して外へ出た。
「伊頭さん、傘は!?」
小百合の声を背に、伊頭は傘も差さず、よれよれのトレンチコートを濡らしながら歩き出した。
【第二章:貴金属店の違和感】
いつもの花屋で、馴染みの店主に小銭を渡し、地味な仏花を一束受け取った。札は一枚もなか。
そのまま墓地へ向かう道すがら、一軒の貴金属店の前を通りかかった。
向かいのカフェをチラ見したその刹那、伊頭の目がわずかに細まった。
……誰もおらんはずの席、あるいは、あるはずのない影。
伊頭は足を止めず、深い溜息をついてそのまま通り過ぎる。だが、その足は墓地へは向かわず、今来た道を静かに引き返した。
再び花屋の軒先に戻ると、店主に「すまん、電話ば貸してくれ」と頼んだ。
受話器を取り、山代の直通番号を回す。
「……俺だ。……今、あそこの貴金属店の向かいのカフェ、三番目のテーブル。……『臭か』ぞ。……あとは好きにしろ」
二、三言だけ。それ以上は説明せん。山代なら、それだけで十分やった。
店主に短く礼を言い、伊頭はようやく墓地へと向かった。
【第三章:一番奥の三番目】
広い墓地の、一番奥の列。左から三番目の墓石。
伊頭はそこに花束を供え、雨に打たれながら立ち尽くした。
刻まれた名前を見つめること、二十分。
激しくなる雨が、彼の頬を伝い落ちる。それが雨水なのか、涙なのか、それは誰にも分からん。
「……ナァ」
足元に、いつの間にか黒猫のクロが寄り添っとった。まるで行き場を失った飼い主を案じ、帰宅を急かしているようやった。
「……悪かったな、クロ。帰ろうか」
伊頭は冷たくなったクロを抱き上げ、来た道を戻り始めた。
【第四章:嘘と温もり】
貴金属店の前まで戻ると、案の定、パトカーの赤色灯が雨の中に滲んどった。
伊頭の通報が間に合ったのか、あるいは事件が起きた後なのか。鑑識や警官たちが慌ただしく出入りしとったが、伊頭はそれを「我関せず」とばかりに、視線を合わせることなく通り過ぎた。
「ただいま……。こいつ、雨の中散歩に行きよって、捕まえるとに苦労したばい」
平屋の引き戸を開けると、伊頭は無理に作ったような豪快な笑い声を上げた。
「ちょっと! 伊頭さん、ずぶ濡れじゃないですか! 早く拭いて!」
小百合が慌てて駆け寄る。伊頭は、醤油で煮しめたような色の古いタオルを手に取ると、まずはクロの体を丁寧に、優しく拭き上げた。
「……しょんなかねー、猫は濡れるのが嫌いなとに」
クロの抜け毛のついた同じタオルで、自分も無造作に顔を拭う。
伊頭は再び縁側に座り、雨に濡れた庭を見た。
心の中の土砂降りが止むことはなか。それでも、膝の上で喉を鳴らす黒猫の温もりが、彼をこの世界に繋ぎ止めとった。




