六話 白煙の向こうの境界線
【第一章:那珂川の焚き火】
那珂川の河川敷。五月の湿った風に混じって、目に染みるような白煙が立ち昇っとった。
「ゲホッ……! 所長、この廃材、全然乾いとらんとっすよ。建築現場の親父さん、確信犯っすね」
コジが顔を真っ赤にしながら、一斗缶の中でくすぶる木片を棒で突っついた。
その上には、どこから持ってきたか分からん年季の入った鉄瓶。公園の水道で汲んできた水が、ようやく小さな気泡を上げ始めた。
「文句ば言うな。鉋屑ば足せ。……お湯さえ沸けば、俺たちの勝たい」
伊頭は、一斗缶から流れてくる煙を避けもせず、じっと火を見つめとった。
ようやく沸いた白濁したお湯を、一つのカップ麺に注ぐ。三分後、まずはコジが猛然と麺を啜り、残ったスープの入った容器を伊頭に手渡した。
「……ふぅ。五臓六腑に染み渡るっす。所長、残りのスープ、出汁が出て美味いっすよ」
伊頭は黙ってそのスープを飲み干した。贅沢とは程遠いが、河川敷の風の中で飲むそれは、どんな名店のスープよりも「生きている」味がした。
【第二章:山代と『名無し』の刑事】
「……相変わらず、ひでぇ暮らしだな。伊頭」
背後からかかった声に、伊頭の肩がわずかに動いた。
振り返ると、そこには仕立てのいいスーツを着こなした男・山代が立っとった。その隣には、この薄汚れた河川敷にはおよそ似つかわしくない、若くて品のある、凛とした美人が一人。
「山代か。……警察の回し者が、俺たちの朝食を邪魔しに来たか」
「朝食だと? 炊き出しの間違いだろ。……紹介する。俺の新しい『目』だ」
山代が横の女性を促したが、彼女は無表情に会釈しただけで、名乗ろうとはせんかった。
「名前は教えられん。……仕事だ、伊頭。小学校近くに出没する痴漢の捜査。件数が多すぎて、こちらの戦力が足りん。お前のその『ドブネズミのような鼻』で、犯人を特定してこい」
「断る。俺は失せ物探しが専門たい」
「報酬は、お前の事務所のインフラ全復旧。電気、ガス、水道……滞納分も全てこちらで持つ」
伊頭とコジの目が、一瞬で鋭くなった。
【第三章:一瞬の解決】
「——で、犯人はあそこの『十路人』の裏の路地に逃げ込んだ男っすね」
数時間後。コジがスマホの画面を見せながら、山代たちに告げた。
伊頭は現場を見るまでもなく、風の流れと、街のざわめきから犯人の潜伏先を割り出しとった。
「あいつは、痴漢じゃなか。ただの『露出狂』でもなか。……目的は、小学校の警備システムの穴を探しとる下見たい。痴漢騒ぎは、警察の目を逸らすためのブラフ(撒き餌)だ」
伊頭がそう断言した瞬間、山代の隣の女性刑事が、目を見開いて伊頭を凝視した。
「なぜ……資料も見ていないのに、そこまで」
「……空気の淀みば読みゃ分かる。あんた、育ちは良かろうが、現場の『臭い』には疎かごたるな」
伊頭の言葉が終わる前に、彼女は無線で応援を呼び、迷いのない足取りで路地裏へと突っ込んでいった。
数分後、犯人は確保された。山代の読み通り、ただの痴漢事件では済まない重大な余罪が芋蔓式に出てきた。
【結末:名当て】
夕暮れ時。再び河川敷。
約束通り、事務所の電気と水道が復旧したという通知が山代から届いた。
「世話になったな、伊頭。……ところで、彼女の名前、当ててみろ。お前の勘がまだ錆びついてないなら、分かるはずだ」
山代がニヤリと笑う。美人の刑事は、相変わらず無言で伊頭を見つめとる。
伊頭は鉄瓶の煤を指で拭い、彼女の靴と、耳元の小さなピアスをちらりと見た。
「……『小百合』。……それも、名字は『山代』やな」
女性刑事が、初めて驚いたように眉を上げた。
「……正解だ。俺の従姉妹だよ。小百合、こいつはただの浮浪者じゃねぇ。元・……いや、今はただの便利屋だ。覚えとけ」
山代たちが去った後、コジが不思議そうに伊頭に尋ねた。
「所長、なんで分かったとっすか? 勘っすか?」
「……いや。さっきのカップ麺の蓋の裏に、彼女が落とした警察手帳の影が映っとっただけたい。……さあ、電気が点くうちに、およしさんの店に行くぞ。今日はツケじゃなか。山代の経費で飲み食いする」
伊頭は再びトレンチコートの襟を立て、那珂川の夜景へと歩き出した。




