五話 逃げろや逃げろ、南区を駆ける
【第一章:ライフラインの終焉】
五月の終わり。湿り気を帯びた風が那珂川を渡るが、「イとコジ調査部屋」の空気は淀みきっとった。
「……コジ、水ば。鉄瓶の中、空っぽたい」
伊頭が乾いた声で呟くが、居心地の良さそうだった石油ストーブは片付けられ、今はただの鉄の塊になっとる。
「所長、無理っす。水道は昨日の朝、電気とガスは一週間前に死んだっすよ。ポストば見て。督促状の赤い紙が、博多名物の明太子のごとく詰まっとるっす」
コジがバイト先の『十路人』の余りもののサンドイッチを口に放り込みながら、ポストの中身をデスクにぶちまけた。
「このままじゃ餓死っすよ。名山マスターが、同情して仕事ば回してくれたっす。犬探し。前回のスピッツじゃなか、今度は迷子のサルーキたい」
【第二章:逃げる貴公子】
「サルーキ?……あの足の細か、モデルみたいな犬か」
伊頭はしぶしぶ重い腰を上げた。依頼料は「成功報酬で三万円」。今の二人には、那珂川の底に沈む金塊よりも輝いて見えた。
二人はさっそく、目撃情報のあった南区の住宅街へ向かった。
「あ!おったっす!あそこの電柱の影!」
コジが指差した先には、気品あふれる垂れ耳と、カモシカのような長い脚を持つサルーキがおった。
「よし、コジ。お前が右から回り込め。俺が正面から『プロの威圧感』で足を止める」
伊頭がかつて数々の難事件を解決した(はずの)鋭い眼光で犬を睨んだ。だが、サルーキは伊頭のトレンチコートを一瞥すると、鼻で笑うような仕草を見せ、軽やかに地を蹴った。
「速っ……!?」
【第三章:那珂川ラビリンス】
「待てやコラ!三万円逃げるなっす!」
コジが叫びながら爆走する。サルーキは追いつかれそうになると、わざと路地の狭い隙間を抜け、公園のベンチを跳び越え、二人を翻弄した。
「伊頭さん!回り込んで!あいつ、那珂川の土手に向かいよるっす!」
「わかっとる……!ばってん、俺の膝が『もう帰れ』ち言いよる……!」
伊頭は息を切らしながらも、長年の勘で犬の逃走経路を先読みする。袋小路に追い詰めた、と思った瞬間、サルーキは信じられん跳躍力でブロック塀を越え、隣の民家の庭へと消えた。
「……捕まらん。あいつ、逃げることば楽しんどる」
伊頭は膝をつき、激しく肩で息をした。かつての自分も、何かに追われ、あるいは何かを追い、こうして街を駆け抜けとったのかもしれん。だが、今は目の前の三万円が、風のように遠ざかっていく。
【結末:にわかの灯火】
結局、サルーキを捕まえることはできんかった。
夜、真っ暗な事務所に戻った二人は、お互いのドロドロになった靴を見て力なく笑った。
「……結局、犬の飼い主が、向こうから歩いてきた犬とバッタリ会って解決したげな。名山マスターからメールが来たっす。骨折り損のくたびれ儲けっすね」
「……腹減ったな、コジ。って、携帯つかえるんか?おまえ?」
「オイラはちゃんと払ってるから、止められてないです」
「……家賃入れても、ええんやで?」
コジは聞こえないフリをして
「およしさんに泣きつくしか、道はなかとですよ」
二人はトボトボと、居酒屋『にわか』の提灯を目指して歩き出した。
「およしさん、ツケで煮込み……二人分……」
「またあんたたちは! 働きもせんで!」
怒鳴りながらも、およしさんは特盛りの煮込みと、おひや(これもツケだ)を出してくれた。
「……生きてる心地がするっす」
「明日こそは……電気の通る仕事を……」
伊頭は煮込みを口に運び、那珂川の夜景を眺めた。
逃げろや逃げろ。犬も、過去も、金も。
追いかけ続ける限り、この街での暮らしは終わらん。伊頭はそう自分に言い聞かせ、七味をたっぷり振りかけた。




