二話 春雨の迷い子
【第一章:雨の日の訪問者】
那珂川の川面が、しとしとと降る春雨に細かく波立っている。
南区の端っこ、家賃18,000円の「イとコジ調査部屋」では、主の伊頭が石油ストーブの上でシュンシュンと鳴る鉄瓶の音を聞きながら、読みかけの文庫本をめくっていた。
そこへ、一人の老婦人が駆け込んできた。
「探偵さん、助けてちょうだい。うちの主人が……死んだ主人が、化けて出たとです」
タキさんと名乗った彼女の手には、スーパーの買い物袋。中には、一袋の乾いた春雨が入っていた。
【第二章:透明なメッセージ】
「なんね、幽霊ち。……コジ、お茶ば出さんね」
伊頭が促すと、居候の女子大生・コジが「うぃっす、今淹れるっす」と、およそ女子大生らしからぬ太い声で応じる。
タキさんの話はこうだ。亡くなった夫は、頑固一徹な職人だった。三日前の命日、タキさんが仏壇に彼の大好物だった「春雨の酢の物」を供えようとしたところ、台所に置いてあった未開封の春雨の袋が、なぜか「開封され、数本だけ使われた形跡」があったという。
「泥棒かと思ったばってん、何も盗まれとらん。ただ、春雨が少し減っとるだけ。主人が『戻し方が足らん』って怒っとるんでしょうか」
伊頭は、預かった春雨の袋をじっと見つめた。
「タキさん。旦那さんは、春雨をどうやって戻してました?」
「主人はせっかちでね。いつも熱湯で一気に戻して、コシが強すぎると文句を言いよったですよ」
【第三章:ふやけた真相】
伊頭は重い腰を上げ、タキさんの家を訪ねた。同じ南区の古い平屋だが、手入れが行き届いている。
キッチンを調べると、床にわずかな「水滴の跡」があった。春雨の袋が置いてあった場所から、勝手口まで続いている。
「タキさん、最近、近所で猫や犬の迷子はいませんでしたか?」
「そういえば、隣の家で飼いよるワンちゃんが、一昨日からおらんごとなって……」
伊頭は勝手口の外、雨に濡れた縁側の下を覗き込んだ。そこには、ガタガタと震える一匹の白いスピッツがいた。
「見つけた。化けて出たのは、この子ですよ」
(犬は専門外やけどなぁ……)
【第四章:春の雨が解く謎】
謎はこうだった。
隣の家の犬が脱走し、タキさんの家の勝手口の隙間から入り込んだ。空腹だった犬は、たまたま置いてあった春雨の袋を噛みちぎり、数本を食べた。しかし、乾いた春雨は硬くて飲み込みづらい。犬はそれを吐き出し、喉が渇いてキッチンの水飲み場を探したようだった。
「でも探偵さん、袋はちゃんと閉じられとったですよ?」
伊頭は笑って、袋の口を指差した。
「この袋、ジッパー付きでしょう。犬が噛んで引っ張った拍子に、偶然、重みで閉じたように見えただけです。タキさんは『主人の呪いだ』と思い込んどったから、少し形が整っているだけで『誰かが閉じた』と錯覚してしまったとです」
タキさんは、ホッとしたように胸をなでおろした。
「……よかった。主人が怒っとるわけじゃなかったんですね」
【結末:優しい雨の味】
「おーい、伊頭さん!隣の家の人、犬が見つかって泣いて喜んどったっすよ!」
野太い声で報告に来たコジを横目に、伊頭はタキさんに「せっかくだから、この春雨で料理を作りましょう」と提案した。
今度は熱湯ではなく、たっぷりのぬるま湯で、ゆっくりと時間をかけて戻す。
「春雨はですね、急がせちゃいかんのです。ゆっくり水分を吸わせれば、味もしっかり染み込むし、柔らかいけど芯がある、一番いい状態になる。……人間も、これくらい余裕がなかといかんですね」
出来上がった酢の物を口にしたタキさんは、「あら、主人に食べさせたかったくらい美味しい」と目を細めた。
外では、まだ春雨が降り続いている。
すべてを白く煙らせるこの雨は、家賃や公共料金の督促に追われる伊頭の心まで、「少しゆっくりしなさい」となだめているようだった。




