十二話 松の芯と、ここにいる理由 (第一部 : 完了)
【第一章:二日目の静寂】
翌朝、那珂川の土手から吹き上げる風は、昨日よりもさらに熱を帯びとった。
伊頭は再び、八尺の脚立の上に立っておった。昨日のひったくり騒ぎで作業は中断し、まだ全体の二割も終わっとらん。
指先は松脂で真っ黒になり、二の腕のチクチクとした痛みは既に麻痺しとった。
「……伊頭さん。昨日、あの中学生のお父さんが、また菓子折り持って事務所に来んしゃったよ。息子さん、こっぴどく叱られたげな」
下で枝を拾い集める小百合が、見上げるように言った。非番のはずだが、何やかやと理由をつけて手伝いに来とる。
「……叱る親のおるうちは、まだよかっちゃんね」
伊頭は専用の鋏を動かし、密集した古い葉を透かしていく。松の剪定は、ただ短くするのではない。数年後の姿を思い描き、風と光が通る「道」を作る作業たい。
【第二章:透き通る景色】
午後三時。ようやく半分を過ぎた頃、庭の空気が変わった。
密集して重たげだった松の枝ぶりが、伊頭の手によって一枝ずつ丁寧に「芯」を残して整理され、木漏れ日が地面に美しい網目模様を描き出しとった。
「……うわ、綺麗っすね。さっきまであんなに鬱陶しかったとに、急に涼しげになったっす」
コジが冷たい麦茶を持ってきて、感心したように声を上げた。
伊頭は脚立の天辺で、松脂のついた手で汗を拭った。
「松は、我慢強い木たい。……厳しか冬ば越えるために、余計なもんを削ぎ落として、一番大事な芯だけば守っとるとたい。人間も、そげんありたいもんやな」
その言葉に、小百合はハッとしたように伊頭を見上げた。家賃18,000円のボロ平屋で、失せ物探しをして食いつなぐこの男の、隠しようのない「芯」が、透き通った松の枝越しに見えた気がした。
【第三章:夕暮れの問いかけ】
ようやと作業が終わり、夕暮れ時。
道具を片付け、ばあちゃんに礼を言って、三人は那珂川の土手を歩きよった。松の木一本、2日で一万円。相場としては安すぎる手間賃やった。だが、一人暮らしのばあちゃんには大金や。伊頭にとっても。
ちゃんとした植木屋に頼んだら3倍以上かかるやろう。ばあちゃんにとっては、救いの神やった。
沈みゆく夕日が川面をオレンジ色に染め、クマゼミの声が遠くで響いとる。
ふと、小百合が立ち止まり、前を歩くコジの背中に問いかけた。
「ねえ、コジさん。……あなたは、どうして? 優秀な成績で大学にも通って、もっとちゃんとした場所で働けるはずなのに。どうして、あんな……正体も分からない、危うい人の隣に居続けるの?」
伊頭は少し先で、ポケットに手を入れたまま、聞こえていないふりをして川を眺めとった。
【結末:だから、ここにいるっスよ】
コジは、首にかけたタオルで顔を拭うと、立ち止まって小百合に向き直った。
その顔には、迷いも、卑下も、一片もなか。ただ、夏の夕日に照らされた、眩しいほどの確信だけがあった。
「……そげんこつ言われても困るっすよ、小百合さん。オイラ、あの人の『芯』が一番美味かところば、もう知っとるとですよ」
コジは、少し照れくさそうに笑いながら、でもはっきりと、那珂川の風に乗せて言い放った。
「……だから、ここにいるっスよ!」
その野太い、けれど温かい声が土手に響き、伊頭の背中がわずかに揺れた。
伊頭は振り返らず、ただ一言、「……腹減ったな。コジ、にわかに行くぞ」と呟いた。
「うぃっす! 今日は所長の奢りっすね!」
「回数券もなかとに、奢れるわけなかろうもん!」
いつもの喧嘩をしながら歩き出す二人を、小百合は苦笑いしながら追いかけた。
那珂川の長い夏は、まだ始まったばかりやった。




