十一話 松の脂と銀の弾丸
【第一章:八尺の上の孤独】
朝八時。那珂川の川面から湿った熱気が立ち昇り始める頃、伊頭はすでに八尺の脚立の天辺におった。
「……しょんなかね、芽の固まってから。一本やり終えるとに、今日一日じゃ足りんかもしれん」
松の芽摘みは、指先で一枝ずつ丁寧に新芽を摘み取る根気のいる作業たい。二時間経っても、ようやく全体の十分の一が終わった程度。腕は鋭い針葉でチクチクと痛み、指先は真っ黒な松脂で塗り固められとった。
「伊頭さーん、下は片付いたっすよ。松脂、それ石鹸じゃ落ちんとですよ」
下で竹箒を振るうコジが、首にタオルを巻いて見上げとった。
「わかっとる。……今夜、風呂に入ったら飛び上がるごとヒリヒリするやろうね」
「……伊頭さん、風呂入らんでしょ?」
「あ、あれはたまたまや! 稼ぎがあれば、ちゃんと毎日入るたい!」
いつものコントのようなやり取りが、セミの声に混じって庭に響く。
【第二章:瓦煎餅と一瞬の異変】
「伊頭さん、コジちゃん、そろそろ休みんしゃい」
午前十時。家主のばあちゃんが、軒下に冷たいコーヒーと瓦煎餅を用意してくれた。
伊頭が脚立から降りようと最後の一枝を整え、ふと顔を上げたその時。
庭の塀の向こう、見通しの良い歩道を一人の爺さんがゆっくりと歩いとった。そこへ、背後から一台のスクーターが銀色の風のように走り抜ける。
次の瞬間、吸い込まれるように爺さんが倒れた。
「……おい!」
伊頭は脚立を飛び降りるような勢いで駆け下り、門を飛び出した。スクーターは一度も振り返らず、路地の角へ消えていった。
【第三章:盗難車の真実】
幸い、爺さんに大きな怪我はなかった。「鞄を引っかけられただけたい」と震える声で言うが、伊頭は念のために病院へ送り届けることにした。
「コジ、小百合さんに電話しろ。ひったくりだ。スクーターのナンバーは……福岡、さ、三三一五。白の古いジョグたい」
伊頭の記憶力は、一瞬の景色を写真のように切り取っとった。
小百合がパトカーで駆けつけ、ほどなくして近所の公園に乗り捨てられたスクーターが発見された。調べると、それは「盗難届」が出されたばかりの車両だった。
【結末:感謝の矛先】
一時間後。事務所に戻った伊頭を待っていたのは、何やら晴れやかな顔をしたコジと、少し複雑な表情の小百合やった。
「所長、解決っす! あのスクーター、本当の泥棒じゃなかったとですよ」
聞けば、乗っていたのは近所の中学生。父親のスクーターを勝手に持ち出し、無免許で乗り回していたのだという。息子が事故を起こしたと察した父親が、慌てて「盗難された」と嘘の届け出を出していたのだ。
「中学生の親御さんが、息子が取り返しのつかないことをする前に見つけてくれてありがとうって、コジさんと私に菓子折りを持ってこられて……」
小百合が困ったように笑う。結局、伊頭が一番に動いたにもかかわらず、感謝の言葉は現場にいた女子二人に集中したようやった。
「……まあ、怪我がなかったらそれでよかたい。それよりコジ、風呂屋の回数券、あと何枚残っとったっけ?」
「一枚もなかですよ。……明日も剪定、頑張るしかないっすね。まだ一割しか終わってないとですから」
伊頭は苦笑いして、遠くで鳴り始めた夕立の予感に目を細めた。




