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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

『灰の街の赦し』 ― 壁の向こうに法はあるか ―

作者: 96猫


 風が鳴くと灰が舞う。

 辺境都市〈リュゼン〉は、戦の火で一度焼け、いまも灰の上に石を積み直している。石は黙っているが、継ぎ目は知っている。秩序が壊れた夜、人が人であることをやめる瞬間を。


 俺――王国監察官ルーク・アルディンは、朝の見回りで市門をくぐった。露店の湯気、馬の鼻息、鐘楼のゆっくりした拍。隣を歩くのは若い補佐官ユナだ。

「旗は北東。午後は雨ですね、隊長」

「灰が湿るのは悪くない。足跡が残る」

「犯人のために雨が降るみたいな言い方は、あまりモテませんよ」

「昔からだ」


 通りの角に、赤い外套の少女が立っていた。肩に薄い埃、指先は裂け、焦点の合わない目がこちらを探す。

 呼ぶより先に、名が出た。

「……セラ」

 彼女は小さく頷いた。「覚えてくれてたのね、監察官様」


 十年前、悪法に従って俺が処刑した親友トマス。その娘だった。

 灰は喉に張りつく。俺は上着を外し、彼女の肩にかけた。

「孤児院へ。暖かい部屋がある」

 ユナが走る。俺はゆっくり歩幅を合わせた。人は、ある種の沈黙でしか温まらない。


 聖リムの孤児院。白壁の部屋で、司祭が傷に塗薬を置く。セラは視線を落とし、短く息を刻んでいた。

「訊ける範囲でいい。何があった」

 沈黙のあと、ひとことだけ。

「……呼ばれたの。父の友人だと名乗られて。行ったら、違った」

 その先を彼女は言わない。言わせる必要もない。部屋の空気が、それを語っていた。糸が切れたように、感情の音が鳴らない沈黙。


「加害者の名を」

「意味はないわ。閣下の息子よ。——法は彼を罰しない」

「なぜ断言できる」

「神殿で聞いたもの。『悔悟は済んだ、罪は神に赦された』って。人の法なんて、あの人には届かない」


 ユナが奥歯を噛む音がした。

 俺は心の奥で、別の音を聞いていた。戦の最後の冬、指揮系統が砂になり、人が獣になった夜の喧噪。——あの無法を二度と見たくない。だから俺は、どんな歪んだ板切れでも“法”と呼ばれるものを頭上に掲げてきた。板があるという事実が、獣を眠らせると信じて。

 その板の重みで、俺は親友を殺した。救いなどない。ただ秤の片側に命を置いた。それでも、秩序が崩れるよりはマシだと、震える理性に言い聞かせて。


 翌朝、王都から派遣された法典会議の審問が開かれた。灰で曇る高窓、蝋燭の短い炎。白マントの若い男は、静かに座っている。指には金の指輪。

 証人は来なかった。来た者も、見たものを見なかった顔で帰っていった。金は沈黙を買い、身分は記憶を薄くする。

 議長は冷たい声で言った。「証拠は足りぬ。無罪とする」

 ハンマーが鳴る音が、灰の街に冬を連れ戻した。

 セラは席を立たない。拳は白く、唇は血で染まる。

 俺はそっと肩に触れた。「帰るぞ」

「帰る場所なんてない」

「なら、作ろう。お前が息をできる場所を」

「生きている限り、あの夜は消えない」


 ユナが俺を見る。目は責めず、ただ問うていた。

 ——隊長、守るのは法ですか、人ですか。


 その夜、セラはいなくなった。枕元に、ぎこちない折り鶴が一羽。羽の角度が揃わないまま、急いで折られた形跡。

「隊長」

「わかってる。間に合ううちに」


 雨が来る前に、灰が舞った。貴族街の門。石灯の影に、赤い外套の小さな背中。手の中で鈍く濡れる短剣。

「やめろ、セラ」

「どいて、ルーク。法は死んだ。なら、私が——」

「無法の夜に戻すのか」

「戻してくれたのは、あの人たちよ」

 窓の向こうで灯が動く。屋敷の内に、人の気配。


 俺は一歩、彼女の視界に入った。

「……俺は壁だ。お前と無法の間に立つ」

「もう誰かを殺すの?」

「違う。命を守るために立つ」


 短剣が吸い込むように上がった。俺は腕で弾き、肩を差し出す。金属が服を裂き、浅く肉をかすめた。

 熱と、鉄の匂い。

「撃つなら、俺を撃て。お前はまだ、誰も殺していない」

 言葉は事実というより祈りだった。

 刃が石畳に落ちる。セラは膝をつき、声のない泣き方で泣いた。

 俺は片腕で彼女の頭を抱き、もう片方で戸口を睨んだ。

「出てこい。お前は壁の内側に入る。今はそれでいい」


 雨が降り出した。灰は湿り、足跡は消えにくくなった。


――――――



 翌朝、俺は法典会議に呼び出された。

 議長は細い指で机を叩いた。「監察官ルーク・アルディン。自ら刃を受け、私刑を妨げる形で法を曲げた。弁明は」

「人を救わぬ法は、もう法ではない」

「それは法を疑う言だ」

「法を壊さぬための言だ。——戦で見た。命令が砂になった夜、人は獣よりひどくなる。あの無法に戻さないために、俺は法を守ってきた。だが昨夜、法は人を守らなかった。だから、壁として間に立った。秩序のために」

 議長は目を細めた。「秩序のために、法を越えたと?」

「法の顔をした無法を、法の中に連れ戻すために」


 長い沈黙。蝋が落ちる音だけが聞こえる。

 やがて、議長は視線を外して言った。

「……今回、報告には残さぬ。だがアルディン、壁は扉にもなれ」

「いつか、なろう」


 貴族子弟は別件で拘束された。違法な武装、脅迫の準備。核心からは遠いが、壁の内側には押し込めた。

 セラは孤児院に戻り、子らの読み書きを手伝いはじめる。声は震えるが、紙の上に文字が立つたび、震えは一つずつ消える。

 ユナは市場で古い地図を買い、彼女に渡した。

「道は曲がるけど、石は嘘をつきません」

 セラは微かに笑い、地図の端に家の印を描いた。

「ここから、やり直す」


 俺は城壁の上で風を受けた。包帯越しに肩が重い。

 ユナが隣に立ち、乾いたパンを二つ差し出す。

「隊長。——昨日の、あの一歩は何でしたか」

「恐怖の言い換えだと思っていた理性が、やっと別の名を思い出した」

「別の名?」

「赦しだ。罰の外にある、次の一歩」

「じゃあ“均衡”は?」

「支払ったあとに、始めるための秤だ」


 ユナは頷いて、真面目な顔を崩した。

「よかった。隊長の“壁理論”、やっと入口ができた」

「入口?」

「扉、ですね。開け閉めができる」


 その日の夕刻、聖リムの司祭が俺を呼び止めた。

「監察官殿。——セラが会いたいと」

 小部屋で、彼女は膝の上に地図を広げていた。

「私、あの人を憎むことをやめません。けれど、殺すことは諦めます」

「それでいい」

「いいえ、よくない。赦してはいないから。でも、あなたが立った場所を、私もいつか立てるように……努力する」

 俺は言葉を選んでから、ゆっくり置いた。

「赦しは相手ではなく、未来のために置く。怒りを持ったままでも、置ける」

「そうね。怒りは消えない。でも、私の手は空けておきたい」


 彼女は懐から小さな箱を出した。

 中に、古い軍籍のタグが二枚。鎖で繋がれている。

「父の形見。神殿の倉で見つかったわ。……ルーク、あなたが持っていて」

「俺が?」

「あなたが磨くと、きれいになる気がするから」

 涙はもう落ちなかった。彼女の声は、目に見えない場所で震えているだけだ。


 その夜、ユナが小さな提案書を机に置いた。

「“被害証言は神殿での密室聴聞を第一とし、証言者の身元は監察官が守秘、虚偽は教会法で処罰”——会議に出しましょう」

「法を、変える気か」

「壁を扉にする気です。隊長が言った通り」

 俺は短く笑って、羽ペンを取った。

「よし。——風向きはどっちだ」

「北東。明日は雨です。灰が湿る」


 数日後、法典会議の諮問に新しい条が書き加えられた。

 まだ弱い条文だ。だが、弱くとも“ある”ことが大事だ。板の枚数が一枚増えれば、獣は少し長く眠る。

 ユナは会議棟の階段で拳を握り、俺にだけ見えるように小さく跳ねた。

「第一歩です」

「ああ。次は、証拠の保管法だな。司祭の記録を法廷記録に準ずる形に」

「やりましょう。灰が乾き切る前に」


 春が来た。風が街を抜けるたび、灰はただの塵に近づく。

 セラは孤児院の庭で子どもと歌い、ユナは紙束を抱えて走り、俺は城壁の上で扉の蝶番を点検する。

 夕焼けに、鐘楼の影が長い。

「隊長」ユナが横に来て、空を指す。「あの雲、獣に見えます」

「眠っているなら、起こすな」

「起こさないために、扉を閉める?」

「違う。風を入れておく。——閉め切った部屋のほうが、獣は目を覚ます」


 城門前のベンチで、セラが地図を広げていた。

 俺は隣に座り、何も言わず、彼女が印をつけるのを待つ。

「ここ。……ここに、私の家」

「いい場所だ。風が通る」

「風が通ると、灰は舞うわ」

「灰は、いずれ落ちる」

 彼女は静かに笑った。

「ねえ、ルーク。あなたは父を赦した?」

「赦していない。——俺は、俺を赦す日を待っている」

「それでも、磨くのね」

「磨かないと、錆びる。錆びると、鎖が切れる。鎖が切れると、俺は戦の夜に戻る」

「なら、磨き続けて。私も、火のない夜を磨くから」


 夕風が三人の間を抜けた。ユナが笑い、俺は肩の包帯を指で押さえ、セラは地図を丁寧に折った。

 痛みは境界を教え、地図は帰り道を教える。

 均衡は支払われた。けれど物語は、支払いの先で始まる。


 城門が閉じる前に、俺たちは立ち上がった。

 扉は重いが、蝶番に油を差せば、静かに開く。

 壁は、扉にもなれる。

 風が通るかぎり、灰の街は呼吸を続ける。


——了——

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