『灰の街の赦し』 ― 壁の向こうに法はあるか ―
風が鳴くと灰が舞う。
辺境都市〈リュゼン〉は、戦の火で一度焼け、いまも灰の上に石を積み直している。石は黙っているが、継ぎ目は知っている。秩序が壊れた夜、人が人であることをやめる瞬間を。
俺――王国監察官ルーク・アルディンは、朝の見回りで市門をくぐった。露店の湯気、馬の鼻息、鐘楼のゆっくりした拍。隣を歩くのは若い補佐官ユナだ。
「旗は北東。午後は雨ですね、隊長」
「灰が湿るのは悪くない。足跡が残る」
「犯人のために雨が降るみたいな言い方は、あまりモテませんよ」
「昔からだ」
通りの角に、赤い外套の少女が立っていた。肩に薄い埃、指先は裂け、焦点の合わない目がこちらを探す。
呼ぶより先に、名が出た。
「……セラ」
彼女は小さく頷いた。「覚えてくれてたのね、監察官様」
十年前、悪法に従って俺が処刑した親友トマス。その娘だった。
灰は喉に張りつく。俺は上着を外し、彼女の肩にかけた。
「孤児院へ。暖かい部屋がある」
ユナが走る。俺はゆっくり歩幅を合わせた。人は、ある種の沈黙でしか温まらない。
聖リムの孤児院。白壁の部屋で、司祭が傷に塗薬を置く。セラは視線を落とし、短く息を刻んでいた。
「訊ける範囲でいい。何があった」
沈黙のあと、ひとことだけ。
「……呼ばれたの。父の友人だと名乗られて。行ったら、違った」
その先を彼女は言わない。言わせる必要もない。部屋の空気が、それを語っていた。糸が切れたように、感情の音が鳴らない沈黙。
「加害者の名を」
「意味はないわ。閣下の息子よ。——法は彼を罰しない」
「なぜ断言できる」
「神殿で聞いたもの。『悔悟は済んだ、罪は神に赦された』って。人の法なんて、あの人には届かない」
ユナが奥歯を噛む音がした。
俺は心の奥で、別の音を聞いていた。戦の最後の冬、指揮系統が砂になり、人が獣になった夜の喧噪。——あの無法を二度と見たくない。だから俺は、どんな歪んだ板切れでも“法”と呼ばれるものを頭上に掲げてきた。板があるという事実が、獣を眠らせると信じて。
その板の重みで、俺は親友を殺した。救いなどない。ただ秤の片側に命を置いた。それでも、秩序が崩れるよりはマシだと、震える理性に言い聞かせて。
翌朝、王都から派遣された法典会議の審問が開かれた。灰で曇る高窓、蝋燭の短い炎。白マントの若い男は、静かに座っている。指には金の指輪。
証人は来なかった。来た者も、見たものを見なかった顔で帰っていった。金は沈黙を買い、身分は記憶を薄くする。
議長は冷たい声で言った。「証拠は足りぬ。無罪とする」
ハンマーが鳴る音が、灰の街に冬を連れ戻した。
セラは席を立たない。拳は白く、唇は血で染まる。
俺はそっと肩に触れた。「帰るぞ」
「帰る場所なんてない」
「なら、作ろう。お前が息をできる場所を」
「生きている限り、あの夜は消えない」
ユナが俺を見る。目は責めず、ただ問うていた。
——隊長、守るのは法ですか、人ですか。
その夜、セラはいなくなった。枕元に、ぎこちない折り鶴が一羽。羽の角度が揃わないまま、急いで折られた形跡。
「隊長」
「わかってる。間に合ううちに」
雨が来る前に、灰が舞った。貴族街の門。石灯の影に、赤い外套の小さな背中。手の中で鈍く濡れる短剣。
「やめろ、セラ」
「どいて、ルーク。法は死んだ。なら、私が——」
「無法の夜に戻すのか」
「戻してくれたのは、あの人たちよ」
窓の向こうで灯が動く。屋敷の内に、人の気配。
俺は一歩、彼女の視界に入った。
「……俺は壁だ。お前と無法の間に立つ」
「もう誰かを殺すの?」
「違う。命を守るために立つ」
短剣が吸い込むように上がった。俺は腕で弾き、肩を差し出す。金属が服を裂き、浅く肉をかすめた。
熱と、鉄の匂い。
「撃つなら、俺を撃て。お前はまだ、誰も殺していない」
言葉は事実というより祈りだった。
刃が石畳に落ちる。セラは膝をつき、声のない泣き方で泣いた。
俺は片腕で彼女の頭を抱き、もう片方で戸口を睨んだ。
「出てこい。お前は壁の内側に入る。今はそれでいい」
雨が降り出した。灰は湿り、足跡は消えにくくなった。
――――――
翌朝、俺は法典会議に呼び出された。
議長は細い指で机を叩いた。「監察官ルーク・アルディン。自ら刃を受け、私刑を妨げる形で法を曲げた。弁明は」
「人を救わぬ法は、もう法ではない」
「それは法を疑う言だ」
「法を壊さぬための言だ。——戦で見た。命令が砂になった夜、人は獣よりひどくなる。あの無法に戻さないために、俺は法を守ってきた。だが昨夜、法は人を守らなかった。だから、壁として間に立った。秩序のために」
議長は目を細めた。「秩序のために、法を越えたと?」
「法の顔をした無法を、法の中に連れ戻すために」
長い沈黙。蝋が落ちる音だけが聞こえる。
やがて、議長は視線を外して言った。
「……今回、報告には残さぬ。だがアルディン、壁は扉にもなれ」
「いつか、なろう」
貴族子弟は別件で拘束された。違法な武装、脅迫の準備。核心からは遠いが、壁の内側には押し込めた。
セラは孤児院に戻り、子らの読み書きを手伝いはじめる。声は震えるが、紙の上に文字が立つたび、震えは一つずつ消える。
ユナは市場で古い地図を買い、彼女に渡した。
「道は曲がるけど、石は嘘をつきません」
セラは微かに笑い、地図の端に家の印を描いた。
「ここから、やり直す」
俺は城壁の上で風を受けた。包帯越しに肩が重い。
ユナが隣に立ち、乾いたパンを二つ差し出す。
「隊長。——昨日の、あの一歩は何でしたか」
「恐怖の言い換えだと思っていた理性が、やっと別の名を思い出した」
「別の名?」
「赦しだ。罰の外にある、次の一歩」
「じゃあ“均衡”は?」
「支払ったあとに、始めるための秤だ」
ユナは頷いて、真面目な顔を崩した。
「よかった。隊長の“壁理論”、やっと入口ができた」
「入口?」
「扉、ですね。開け閉めができる」
その日の夕刻、聖リムの司祭が俺を呼び止めた。
「監察官殿。——セラが会いたいと」
小部屋で、彼女は膝の上に地図を広げていた。
「私、あの人を憎むことをやめません。けれど、殺すことは諦めます」
「それでいい」
「いいえ、よくない。赦してはいないから。でも、あなたが立った場所を、私もいつか立てるように……努力する」
俺は言葉を選んでから、ゆっくり置いた。
「赦しは相手ではなく、未来のために置く。怒りを持ったままでも、置ける」
「そうね。怒りは消えない。でも、私の手は空けておきたい」
彼女は懐から小さな箱を出した。
中に、古い軍籍のタグが二枚。鎖で繋がれている。
「父の形見。神殿の倉で見つかったわ。……ルーク、あなたが持っていて」
「俺が?」
「あなたが磨くと、きれいになる気がするから」
涙はもう落ちなかった。彼女の声は、目に見えない場所で震えているだけだ。
その夜、ユナが小さな提案書を机に置いた。
「“被害証言は神殿での密室聴聞を第一とし、証言者の身元は監察官が守秘、虚偽は教会法で処罰”——会議に出しましょう」
「法を、変える気か」
「壁を扉にする気です。隊長が言った通り」
俺は短く笑って、羽ペンを取った。
「よし。——風向きはどっちだ」
「北東。明日は雨です。灰が湿る」
数日後、法典会議の諮問に新しい条が書き加えられた。
まだ弱い条文だ。だが、弱くとも“ある”ことが大事だ。板の枚数が一枚増えれば、獣は少し長く眠る。
ユナは会議棟の階段で拳を握り、俺にだけ見えるように小さく跳ねた。
「第一歩です」
「ああ。次は、証拠の保管法だな。司祭の記録を法廷記録に準ずる形に」
「やりましょう。灰が乾き切る前に」
春が来た。風が街を抜けるたび、灰はただの塵に近づく。
セラは孤児院の庭で子どもと歌い、ユナは紙束を抱えて走り、俺は城壁の上で扉の蝶番を点検する。
夕焼けに、鐘楼の影が長い。
「隊長」ユナが横に来て、空を指す。「あの雲、獣に見えます」
「眠っているなら、起こすな」
「起こさないために、扉を閉める?」
「違う。風を入れておく。——閉め切った部屋のほうが、獣は目を覚ます」
城門前のベンチで、セラが地図を広げていた。
俺は隣に座り、何も言わず、彼女が印をつけるのを待つ。
「ここ。……ここに、私の家」
「いい場所だ。風が通る」
「風が通ると、灰は舞うわ」
「灰は、いずれ落ちる」
彼女は静かに笑った。
「ねえ、ルーク。あなたは父を赦した?」
「赦していない。——俺は、俺を赦す日を待っている」
「それでも、磨くのね」
「磨かないと、錆びる。錆びると、鎖が切れる。鎖が切れると、俺は戦の夜に戻る」
「なら、磨き続けて。私も、火のない夜を磨くから」
夕風が三人の間を抜けた。ユナが笑い、俺は肩の包帯を指で押さえ、セラは地図を丁寧に折った。
痛みは境界を教え、地図は帰り道を教える。
均衡は支払われた。けれど物語は、支払いの先で始まる。
城門が閉じる前に、俺たちは立ち上がった。
扉は重いが、蝶番に油を差せば、静かに開く。
壁は、扉にもなれる。
風が通るかぎり、灰の街は呼吸を続ける。
——了——




