悪役令嬢の執事、破滅フラグを(影ながら)叩き折る
俺の主であるオリヴィア・フォン・クライフォルト令嬢は、いわゆる「悪役令嬢」だ。
そしてここは、魔法が存在する乙女ゲーム『王立マグノリア学園と七つの光』の世界である。……たぶん。
俺が、しがない一介の執事でありながらそんな大層なことに気づいたのは、今から数年前。このクライフォルト公爵家にやってきてすぐのことだった。
オリヴィアお嬢様。ゲームのメイン攻略対象である王太子の婚約者。眩しいほどの金髪縦ロールに、勝気な翠の瞳。完璧なまでの悪役令嬢のテンプレート。
俺は思い出した。ああ、この設定、知ってる。前世で妹が狂ったようにプレイしていた乙女ゲームだ、と。
このままだと、オリヴィアお嬢様は、平民から聖女として見出されたヒロインに嫉妬し、数々の嫌がらせの末、学園の卒業パーティーで王太子から婚約破棄を突きつけられ、家は没落。本人は修道院へ幽閉。通称「悪役令嬢断罪イベント」。
そんなバッドエンドが待っている。
……冗談じゃない。
俺の雇い主が没落したら、俺の職はどうなるんだ。
前世で過労死寸前まで働いた俺は、今世では公爵家の執事という安定した職を得て、給料をもらい、定年まで安穏と過ごし、退職金で穏やかな老後を送るという完璧なライフプランを立てているのだ。
それが、お嬢様の一方的な恋心と暴走のせいでパーになるとか、まっぴらごめんだ。
俺の目標はただ一つ。
オリヴィアお嬢様による破滅フラグの建設を、片っ端から未然に防ぐこと。
穏便に、地味に、誰にも気づかれず、しかし確実に。
そうして、お嬢様を無事に卒業させ、どこぞの貴族のもとへ円満に嫁がせる。それが俺の使命であり、俺の平穏な未来のための最重要タスクなのだ。
「レイド。準備はできたかしら?」
凛とした声に、俺は思考の海から引き戻される。
目の前には、真新しい王立マグノリア学園の制服に身を包んだオリヴィアお嬢様が立っていた。
今日はいよいよ、この物語の舞台である学園の入学式だ。
「はい、お嬢様。いつでも出発できます」
俺は完璧な執事スマイルを貼り付け、胸に手を当てて恭しくお辞儀をする。
お嬢様は「そう」と短く頷き、馬車へと向かう。その横顔は、緊張と期待、そして少しばかりの苛立ちで彩られていた。
わかるぞ、お嬢様。
ゲームの知識によれば、今日はお嬢様にとって最悪の一日になる。
入学式で、婚約者である王太子殿下が、特待生であるヒロインに馴れ馴れしく話しかけ、それに嫉妬したお嬢様がヒロインに突っかかり、最初の悪評をゲットする、という記念すべき破滅フラグ樹立の第一日目なのだから。
もちろん、俺がそんなことを許すはずもない。
「……レイド。今日の入学式の席次表は手に入っているの?」
「もちろんでございます」
馬車に揺られながら、お嬢様が低い声で尋ねてくる。
俺は懐から一枚の羊皮紙を取り出し、お嬢様に差し出した。
これは俺が数日前、学園の下働きの者たちにいくつか菓子折りを配って「情報交換」した成果だ。
「まあ、予想通り、わたくしの隣は殿下なのね。……それで、あの女はどこかしら」
「『あの女』……と申されますと?」
「とぼけないでちょうだい。平民の特待生よ。聖なる魔力とやらが発現したとかいう……」
お嬢様は忌々しげに呟く。
……ああ、もうすでに敵意マックスだ。先が思いやられる。
「ヒロイン……失礼いたしました。ローラ様の席は、あちら。お嬢様や殿下がいらっしゃる貴賓席からは最も遠い、特待生用の末席となっております」
「ふん、当然ね」
お嬢様は鼻を鳴らしたが、その表情は少しだけ和らいだ。
よし、まずは一つ目のガス抜き、成功。
原作では、ヒロインの席はなぜか貴賓席のすぐ後ろという謎采配で、お嬢様の嫉妬を煽る一因となっていた。そこは俺が事前に「間違いがございませんように」と、席次担当の者に「ご確認」を促しておいた。公爵家の執事からの「ご確認」は、時に命令より重い。
学園に到着し、入学式の会場となる大講堂へ向かう。
そこにはすでに多くの新入生とその保護者たちが集まっていた。お嬢様が貴賓席に着くと、やがて会場が少しざわめいた。
婚約者である、王太子アシュトン・グレイフィールド殿下のご入場だ。
アシュトン殿下は、白銀の髪に、底の知れない光を宿した藍昌石の瞳を持つ、怜悧な美貌の持ち主だ。笑顔一つ見せず、感情の読めない表情で決められた席に着く。その姿は「氷の貴公子」と囁かれるにふさわしい。
彼は、お嬢様に一瞥をくれただけで、すぐに正面を向いてしまった。
お嬢様の眉がピクリと動く。
……いかん。これは第二の不機嫌の種だ。
「お嬢様」
「なにかしら」
「殿下は、式典の警備計画の最終チェックを先ほどまで行っておられたそうです。公務でお疲れなのでしょう。決して、お嬢様をないがしろにしているわけではございません」
俺は、お嬢様の耳にだけ聞こえるようにそっと囁いた。これも、警備の騎士から仕入れた確かな情報だ。
お嬢様は「……そう。なら、仕方ないわね」と、わずかに口元を緩めた。
よし、よし。いい子だ。
やがて入学式が始まった。
問題は、式が終わった後の懇親会だ。
原作では、ここでアシュトン殿下が人混みで倒れそうになったヒロインを抱きとめる、という運命の出会いを果たす。それを見たお嬢様が、「その汚い手を殿下から離しなさい!」とやるわけだ。
だから俺は、動いた。
懇親会が始まり、皆が談笑に花を咲かせる中、俺はお嬢様の影のように付き従いながら、全神経をヒロインの動向に集中させる。
いた。会場の隅で、慣れない雰囲気に戸惑っているピンク髪の少女。あれがヒロインのローラだ。
しばらくすると彼女は、給仕係が運ぶお盆につまずいて、アシュトン殿下のいる方向へ倒れる――――まさに、その瞬間。
「危ないっ!」
俺は、たまたま近くにいた人を装い、自らの腕で彼女を支えた。
「大丈夫ですか?気をつけてくださいね」
「すみません!あ、ありがとうございます」
無駄にヒロインに関わると碌なことが起きる気がしてならないため、早歩きで颯爽とこの場を後にする。
もちろん、アシュトン殿下に抱きとめられる、なんてイベントは発生しない。
俺の心臓はバクバクだったが、顔には出さない。
我ながら完璧な仕事だった。これぞ執事の神髄。
「レイド、どこへ行っていたの?」
「申し訳ございません。提供されていた食事が気になりまして、シェフに話を聞いていました」
「そう。……なんだか、今日は退屈な日だったわね」
お嬢様はつまらなそうに言う。
結構、結構。退屈で結構。平穏万歳。
あんたの退屈は、俺の安寧なんだ。
こうして、破滅フラグ第一号は、見事に回避された。
俺は心の中でガッツポーズをする。
この調子で、卒業まで乗り切ってやる。安穏な老後のために。
満足感に浸りながら、俺はふと視線を感じた。
誰だ? 俺の完璧な仕事に気づいた奴でもいるのか?
視線の先を追うと、そこにいたのは――――アシュトン殿下だった。
彼は、誰かと話しながらも、その藍昌石の瞳で、俺の方をじっと見ていた。
気のせいだろうか。その目に、ほんのわずかな、しかし確かな興味の色が浮かんでいるように見えたのは。
……いや、まさかな。俺はただの執事だ。
きっと、婚約者の後ろに控える俺が、どんな男か値踏みしているだけだろう。
俺はそう結論づけて、意識してその視線から目をそらした。
この時の俺はまだ知らなかったのだ。
この、怜悧で、冷徹で、腹の底がまったく読めない王太子こそが、俺の安穏な執事ライフプランにおける最大の障害になるということを。
―・―・―
王立マグノリア学園での生活が始まって、一ヶ月が過ぎた。
陰ながら支えた甲斐があってか俺、、オリヴィアお嬢様の学園生活は驚くほど平穏に進んでいた。
原作知識によれば、この一ヶ月の間にお嬢様は少なくとも三回はヒロイン・ローラに嫌がらせを行い、二回は取り巻きが勝手に教科書を隠し、一回はアシュトン殿下にまとわりついて「見苦しい」と一蹴されるはずだった。
それらの破滅フラグ建設予定は、すべて俺の完璧な根回しによって未然に解体された。
ヒロインへの嫌がらせは「そんな些末なことにクライフォルト公爵家の力をお使いになるのは、お嬢様の品位を損ないます」と諌め、教科書隠しは「犯人は別にいるようです。お嬢様が濡れ衣を着せられる前に、わたくしの方で処理しておきましょう」と、俺が犯人を特定して陰で脅し……もとい、説得して解決した。
アシュトン殿下への接触も「殿下は今、次期国王としての帝王学でお忙しい時期。軽々しくお声がけするのは、かえってご迷惑になります。今はそっと見守り、お心を尽くすのが真の婚約者の務めかと」と言い含め、お嬢様を納得させた。
おかげさまで、お嬢様の評判はすこぶる良い。
「クライフォルト公爵令嬢は、高慢かと思いきや、実に思慮深いお方だ」
「決して感情的にはならず、常に冷静でいらっしゃる」
「あれぞ、未来の国母たる器だ」
……などと、もはや原作の悪評とは真逆の、完璧超人のような評価を確立しつつあった。
お嬢様自身も、周囲からの称賛に満更でもない様子だ。いい傾向である。
そう、すべては順調だった。
あの男さえいなければ。
「レイド。近々、わたくしの主催でお茶会を開こうと思うの。あなた、準備は任せられる?」
「もちろんでございます、お嬢様」
来た。来たぞ。
ゲーム中盤の大きな分岐点、「悪役令嬢主催・地獄のお茶会」イベントだ。
原作では、お嬢様がヒロインを招待し、貴族社会の常識や高級な茶葉の知識で問い詰め、無知な彼女に大恥をかかせるというもの。これにより、ヒロインは心を痛め、それを見かねた攻略対象たちの怒りを買うことになる。
なんとしても、このフラグだけはへし折らねばならない。
「招待客のリストはこちらですわ。……それと、あの女も招待するように」
お嬢様が指差したのは、リストの末尾に書き加えられた「特待生 ローラ」の名前。
……やる気満々じゃないか。
「かしこまりました。……つきましては、お嬢様に一つ、ご提案がございます」
「何かしら、言ってみなさい」
「ローラ様をお茶会にお招きになるのでしたら、いっそ『彼女にテーブルマナーを教えて差し上げる』という名目にされてはいかがでしょう」
「……はあ? わたくしが、あの女に、教える?」
お嬢様は、心底信じられないという顔で俺を見た。
無理もない。原作の彼女なら、絶対に言わないセリフだ。
だから俺は、彼女が最も喜ぶであろう「実利」を提示する。
「はい。ローラ様は平民のご出身。貴族の作法に疎いのは当然のこと。ここで彼女をやり込めても、周囲は『公爵令嬢が、無知な平民をいじめている』としか思いません。お嬢様の品位が疑われるだけで、何の得にもなりません」
俺は一呼吸置き、完璧な執事スマイルで続けた。
「ですが、もし。お嬢様が寛大なお心で、ローラ様に優しく作法を教えて差し上げたと知れたら、どうでしょう。『さすがはクライフォルト公爵令嬢。平民にも分け隔てなく、慈悲深いお方だ』……そう、噂は広まるはず。アシュトン殿下のお耳に入った場合でも、必ずや良い心証をお与えになるかと存じます」
「…………」
お嬢様は、翠の瞳でじっと俺を見つめ、思考を巡らせている。
彼女は聡明だ。どちらが自分の利益になるか、すぐにわかるはず。
「……いいでしょう。あなたの言う通りにしてみるわ。ただし、もしこれでわたくしが恥をかくようなことがあれば、わかっているわね、レイド?」
「お任せください。このレイド、万全の準備を以て、お嬢様の栄誉をお守りいたします」
こうして、地獄のお茶会は「完璧淑女による、平民への慈善マナー講座」へと姿を変えた。
俺は裏で、ローラ様がお使いになるカトラリーを少しだけ練習用の軽いものにすり替え、お嬢様がお出しになるお茶も、誰にでも飲みやすい癖のない銘柄を推薦した。
そして当日。
お茶会は、俺の筋書き通りに進んだ。
お嬢様は、あくまで少し高圧的な態度を崩さないものの、「ナイフの背に人差し指を添えるものではありませんわ」「お茶をいただく時は、カップの取っ手に指を入れないのがエレガントよ」などと、的確にローラ様へ指導してみせた。
ローラ様の方は、「わあ……! ありがとうございます、オリヴィア様! とても勉強になります!」と、素直にキラキラした瞳で感激している。
うんうん、いい子だ。ヒロインはそうでなくちゃな。ただ時折り、目が合うのだけが気になるけど。
他の令嬢たちも「まあ、オリヴィア様、なんてお優しいのかしら」「あんなに根気よく……わたくしには真似できないわ」と、感心の声を上げている。
完璧だ。計画通り。
俺は壁際に控える執事として、満足げにその光景を眺めていた。
その時だった。
ふわりと、影が差す。
俺が顔を上げると、いつの間にすぐそばに立っていたのか、アシュトン殿下が、俺の耳元にだけ聞こえる声で囁いた。
「……見事な手腕だな」
心臓が、ドクリと嫌な音を立てた。
俺は表情一つ変えず、ゆっくりと殿下の方を向いて頭を下げる。
「これは、アシュトン殿下。ご機嫌麗しゅうございます」
「ああ。……婚約者の評判が、近頃すこぶる良い。何か心境の変化でもあったのかと見に来てみれば……なるほど。こういうことだったか」
殿下の藍昌石の瞳は、お嬢様ではなく、真っ直ぐに俺を射抜いていた。
マズい。完全にバレている。いや、何がだ? 俺は何もしていない。ただ、お嬢様にお仕えしているだけだ。そうだ、そうに決まっている。
「お嬢様は、公爵令嬢として、常に最善を尽くしておられます」
「ほう。最善、か。あのオリヴィアが、自ら進んでライバルに塩を送るような真似をするとはな。……お前は、彼女の執事だったな。名は?」
「レイドと申します、殿下」
俺はあくまで、完璧な執事を演じきる。
内心では、冷や汗が滝のように流れているが。
「そうか、レイド。……お前に問おう。主のあの『慈善活動』は、お前の入れ知恵か?」
直球すぎる質問に、俺は一瞬言葉に詰まる。
だが、ここで動揺すれば負けだ。俺の平穏な未来がかかっている。
「……恐れながら、殿下。わたくしは、しがない一介の執事にございます。お嬢様のご意思を動かすなど、大層なことはできかねます。すべては、お嬢様ご自身の、深いお考えがあってのこと」
「……フッ」
アシュトン殿下は、初めて、ほんのわずかに口の端を吊り上げた。
それは、笑顔というよりは、面白い玩具を見つけた捕食者のそれに近かった。
「実に、面白い」
殿下はそれだけを呟くと、俺に背を向け、悠然と歩き去っていった。
残された俺は、背筋を冷たい汗が伝うのを感じていた。
……完全に目をつけられた。
それも、最悪の形で。
あいつは気づいている。お嬢様の変化の裏に、俺がいることに。
どうしてこうなった! 俺はただ、波風立てず、地味に、目立たず、平穏に過ごしたかっただけなのに!
俺の安穏な執事ライフプランに、暗雲が立ち込めてきたのを、俺はひしひしと感じていた。
あのお茶会の日以来、俺の平穏な日々は静かに、けれど確実に侵食され始めていた。
原因は、言うまでもなく王太子アシュトン・グレイフィールド殿下、その人である。
殿下は、何かと理由をつけてはお嬢様――そして、その背後にいる俺――に接触してくるようになったのだ。
学園の中庭を散策していれば「偶然」を装って現れ、図書室で調べ物をしていれば、これまた「偶然」隣の席に座る。
「君の父上、クライフォルト公爵。近頃、隣国との羊毛の関税率について見直しを進めているそうだな」
「はあ、父がそのように……」
「お前はどう思う、オリヴィア。関税は、上げるべきか、下げるべきか」
殿下は、お嬢様に問いかけながら、その視線は俺をちらりと見る。
やめろ。俺に振るなよ。絶対に振るな。
「それは……国の経済を鑑みれば、慎重に判断すべきことかと存じますわ」
「ふむ。具体的には?」
お嬢様が言葉に詰まる。当たり前だ。まだ学生の彼女に、いきなり国家間の経済政策について聞かれても答えられるはずがない。
そして、殿下は待ってましたとばかりに、その視線を俺へと向ける。
「……そこの執事。レイド、だったか。お前は、主が答えに窮しているのを、黙って見ているのか?」
来た。来たよ、このパターン。
俺が何か気の利いた助言でもしようものなら、「やはりお前が入れ知恵をしていたか」となるし、黙っていても「無能な執事め」と詰られる。どちらに転んでも面倒しかない、詰みの盤面だ。
だが、俺はプロの執事だ。
こういう時の答えは、たった一つしかない。
「滅相もございません、殿下。わたくしのようなしがない執事が、国家の大事を語るなど、万死に値します。お嬢様は今、最善の答えを導き出すため、深く思考を巡らせておられるのです。わたくしなどが口を挟むのは、お嬢様の思考を妨げる不忠。ただ、ひたすらにお嬢様をお信じし、お待ちするのがわたくしの務めにございます」
俺は、これ以上ないほど恭しく、深く頭を垂れた。
一言で要約するなら、「俺は無能な執事なんで、何もわかりませーん」という全力のアピールだ。
内心では、(前世の知識で言わせてもらえば、短期的な国内産業保護なら上げるべきだが、長期的な国際協調と価格安定を考えれば自由貿易協定を結んで段階的に下げるべきだろうな。だが、口が裂けても言うかよ、バーカ!)などと考えていることはおくびにも出さない。
「…………」
アシュトン殿下は、面白くなさそうに鼻を鳴らすと、「つまらん男だ」と呟いて去っていった。
……俺の胃に、また一つ、小さな穴が開いた気がした。
そんな俺の心労を知ってか知らずか、お嬢様は最近、とてもご機嫌だ。
「レイド、聞いたかしら! 近頃、殿下がわたくしにとてもお優しいのよ」
「左様でございますか。お慶び申し上げます」
「あなたのおかげね。あのお茶会以来、殿下はわたくしのことを見直してくださったに違いないわ!」
キラキラした笑顔でそう宣うお嬢様に、俺は完璧な執事スマイルを返すしかない。
……違うんです、お嬢様。
殿下が見ているのは、貴女の背後で胃を痛めている、このしがない執事なんです。貴女は、俺を探るためのダシに使われているだけなんです……!
などと真実を告げられるはずもなく、俺は「すべては、お嬢様が本来お持ちの魅力の賜物にございます」と、心にもないおべっかを使うのだった。
ああ、俺のストレスがマッハ。早く卒業して、領地に帰りたい。
そんな俺の願いを打ち砕くかのように、最大級の面倒事が、すぐそこまで迫っていた。
王立マグノリア学園の創立記念祭だ。
記念祭の目玉は、王家が秘蔵する宝玉『月の涙』の特別展示。
そして、この『月の涙』こそが、お嬢様の運命を決定づける、最大の破滅フラグなのだ。
原作では、この宝玉が何者かに盗まれる。
そして、様々な状況証拠から、ヒロインのローラが犯人だという濡れ衣を着せられるのだ。
もちろん、彼女は無実だ。
だが、ここでオリヴィアお嬢様が、「平民の分際で、不埒な心を起こすからだ!」とばかりに、公開裁判のごとくヒロインを激しく糾弾。
その後、真犯人が見つかったことで、お嬢様の立場は最悪のものとなり、アシュトン殿下からの婚約破棄へと繋がる、決定的な一打となるのである。
「……きたか」
俺は、またしてもコネと菓子折りを駆使して手に入れた記念祭の警備計画書を睨みつけ、呟いた。
警備は、一見すると厳重だ。騎士団が昼夜巡回し、宝玉の周りには魔法的な防御壁も張られるらしい。
.
だが、俺にはわかる。ゲーム知識と、前世で培った危機管理能力で。
この計画には、いくつかの「穴」がある。
警備の交代時間。魔法障壁の術者が食事で席を外すタイミング。そして何より、この計画を立てた騎士団長が、貴族間の派閥争いで、クライフォルト公爵家と敵対しているという事実。
……真犯人の目星も、ついている。
原作通りなら、犯人は、ギャンブルで多額の借金を抱えた子爵家の三男坊だ。彼は追い詰められ、宝玉を盗んで国外へ高飛びする計画を立てる。警備計画書にも、彼の名前が警備担当の一人として入っていた。ビンゴだ。
このままでは、原作通りに事が進んでしまう。
お嬢様が、断罪イベントの悲劇の(自業自得な)ヒロインになってしまう。
つまりそれは、俺の安穏な老後が木っ端微塵になることを意味する。
それだけは、絶対に阻止しなければならない。
お嬢様を、断罪劇の主役にさせてはならない。
ヒロインの濡れ衣も、晴らさねばならない。
そして何より、このとてつもなく大きな面倒事を、誰にも気づかれず、速やかに、かつ穏便に終わらせるのだ。
俺は警備計画書を丸めると、静かに立ち上がった。
俺の平穏な未来のために。
そろそろ、少しだけ「目に見えない仕事」の規模を上げる時が来たようだ。
―・―・―
創立記念祭の当日。
学園中が浮かれた空気に包まれる中、事件は、やはり起こった。
展示室から、王家の秘宝『月の涙』が消えたのだ。
会場は瞬時にパニックとなり、すぐさま騎士団による封鎖と捜査が開始される。
そして、レイドの予想通り、展示台のそばに落ちていた一枚のハンカチが「発見」された。
それは、ヒロイン・ローラが普段使っている、素朴な花の刺繍が入ったものだった。
「これは……特待生のローラが持っていたものではないか!」
クライフォルト公爵家と敵対派閥の騎士団長が、待ってましたとばかりに声を張り上げる。
すべての視線が、顔を青ざめさせて立ち尽くすローラに突き刺さった。
「わ、私ではありませ……!」
「黙れ! 平民の分際で、身に余る宝玉に目が眩んだか!」
ああ、始まった。原作通りの展開だ。
俺の隣で、オリヴィアお嬢様が「まあ……!」と息を呑み、一歩前に出ようとするのがわかった。
今、彼女が口を開けば、ゲームセットだ。「やっぱりあの女が!」なんて言った日には、もう取り返しがつかない。
俺は、彼女の腕にそっと手を触れ、動きを制した。
「お嬢様、お待ちください」
「でもレイド! あの女が……!」
「このような時こそ、冷静に。確たる証拠もなく、公爵令嬢たるお方が騒ぎ立てては、お嬢様の品位が損なわれます。それに……」
俺は、お嬢様の耳元で、確信を込めて囁いた。
「――犯人は、彼女ではございません」
「え……?」
「今は静観が最善手。クライフォルト家の者は、決して動揺などしないと、皆様にお見せするのです」
お嬢様は、俺の言葉に戸惑いながらも、その翠の瞳に理性の光を取り戻し、こくりと頷いた。
よし、第一関門、クリア。
あとは、俺が事前に仕掛けておいた「駒」が、うまく動いてくれれば……。
.
ローラが騎士団長に詰問され、追い詰められていく。
その時だった。
捜査状況を報告に来た一人の騎士が、騎士団長の耳に何事かを報告した。
「なんですって? 清掃員が、昨夜、怪しい人影を見たと……?」
騎士団長の眉がひそめられる。
……よし、第二の矢、発動。
俺が昨日、「最近、腰が痛むんだ」と嘆いていた清掃員の爺さんに、最高級の湿布薬と心付けを渡して「お願い」しておいたのだ。「もし騎士様から何か聞かれたら、そういえば昨日の夜、子爵家の三男坊様が裏口からコソコソ出ていくのを見かけたような……って、言ってみてくれませんかね?」と。
騎士団長の追及が、一瞬緩む。
その隙を突くように、別の騎士が慌てて駆け込んできた。
「た、大変です! 詰所に、こ、このようなものが!」
騎士が差し出したのは、一枚の羊皮紙。
第三の矢、匿名の手紙だ。『犯人はローラ嬢にあらず。真実は北塔の古図書室に眠る』とだけ記しておいた。もちろん、筆跡は普段とまったく変えてある。
「馬鹿馬鹿しい、悪戯だ!」
騎士団長は一蹴しようとするが、その場にいた他の貴族たちの視線がそれを許さない。
そして、その場の空気を決定づける、冷徹な声が響いた。
「……捜査してみる価値は、あるのではないか?」
アシュトン殿下だった。
彼は、いつもの無表情でそこに立ち、静かに続けた。
「万が一、それで真犯人が見つかれば、王家の面目も保たれる。見つからなければ、その時に改めて彼女を尋問すればよかろう」
王太子の言葉は、重い。
騎士団長は苦虫を噛み潰したような顔で、「……捜索隊を向かわせろ」と命令した。
俺は、アシュトン殿下にそっと視線を送る。
……第四の矢も、届いたようだな。
俺が殿下の執事に「殿下にお渡しください」と託したメモ。『ローラ嬢は無実。真犯人は別にいます。殿下の慧眼ならば、混沌の中に真実を見出せるはず』とかなんとか、それっぽいことを書いておいたのだ。プライドをくすぐれば、彼はきっと動く。
結果は、すぐに出た。
北塔の古図書室で、ボロボロになった地球儀の中から、『月の涙』が発見された。
そして、観念した子爵家の三男坊が、すべてを自白した。
事件は、あっけなく解決した。
ローラは無実が証明され、涙ながらにアシュトン殿下にお礼を言っている。
そして、オリヴィアお嬢様は……。
「さすがはオリヴィア様だ。少しも動じず、冷静に事の推移を見守っておられた」
「真犯人が見つかることを、信じておられたのだな」
などと、あらぬ方向から称賛を浴びて、戸惑いながらも満更でもない顔をしていた。
すべて、計画通り。
俺は誰にも気づかれず、壁際の影に徹し、そっと安堵の息を吐いた。
これで、最大の破滅フラグは消滅した。俺の安穏な老後は、守られたのだ。
――――そして、数年の月日が流れた。
今日は、王立マグノリア学園の卒業記念パーティー。
結局、あの日以来、大きな事件は何も起こらなかった。
お嬢様は「冷静沈着で慈悲深い、完璧な淑女」という評価を不動のものとし、先日、隣国の有望な若き公爵との婚約も決まった。万々歳だ。
もちろん、アシュトン殿下との婚約は、円満に解消されている。
俺は、壁際の定位置で、感慨にふけっていた。
長かった……。実に、長かった。
明日からは、俺も晴れてお役御免。お嬢様の嫁ぎ先にはついていかず、クライフォルト公爵家から十分すぎるほどの退職金(公爵家だから、十数年働いただけでとんでもない額だった)を貰い、田舎に小さな家を買って、悠々自適のスローライフを送るのだ。
ああ、完璧な人生設計。
「……随分と、満足そうな顔をしているな」
背後からの声に、俺の心臓が跳ねた。
この声。この、数年間、俺の胃を散々苦しめ続けた声。
振り返ると、そこには、次期国王として、ますます威厳と怜悧さに磨きのかかったアシュトン殿下が立っていた。
「これは、アシュトン殿下。ご卒業、お慶び申し上げます」
「ああ。お前も、今日で『執事』は卒業か?」
「はい。長年お仕えしたお嬢様の晴れ姿を見届け、わたくしもようやく肩の荷が下ります」
俺は完璧な笑顔で答える。もう、この男に怯える必要もないのだ。
「そうか。それは、ご苦労だったな。……ところでレイド」
殿下は、すっと目を細めた。
その藍昌石の瞳が、俺の腹の底まで見透かしているようで、嫌な予感がした。
「お前の、その類まれなる能力。このまま田舎で腐らせるのは、あまりにも惜しいと思わないか?」
「……は?」
俺は、思わず間抜けな声を漏らした。
能力? 俺の? 菓子折りと根回しと、地味な情報操作能力のことか?
「とぼけるな。私は、すべて知っている」
殿下は、面白そうに口の端を上げた。
「オリヴィアの評判を裏で操作し、学園内の情報を掌握し、ついには王家の秘宝まで取り戻してみせた。それも、自らの手は一切汚さず、最小限の動きで、だ。……見事な手腕だったぞ。一連の、お前の『裏から支える執事』とやらは」
――――こいつ、全部お見通しか!
俺は愕然として、言葉を失った。
「お前ほどの策士が、ただの執事で終わる器ではないだろう」
アシュトン殿下は、俺の肩に手を置くと、逃がさないとばかりに、こう言った。
「レイド。私の右腕になれ。そして、その知謀のすべてを、この国のために使え。お前となら、面白い国が作れそうだ」
…………はぁ~っ?
数年後。
若き国王アシュトン・グレイフィールドの傍らには、常に一人の側近の姿があった。
『影の宰相』と呼ばれ、国王の最も信頼篤い懐刀として、あらゆる政務を完璧にこなし、国を富ませる謎多き男。
それが俺であることは、甚だ不本意である。
俺の安穏なスローライフは、いったいどこへ行ってしまったのだろうか。
———どうやら俺は、自分の平穏フラグまで(余計に)叩き折ってしまったらしい
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以下、補足です!
レイド
本作の主人公。悪役令嬢オリヴィアに仕える執事。
実は20代(この世界の学校は、令嬢に対して執事がお世話できるように同じ学校に通える制度がある)
前世で過労死寸前だった記憶を持つ転生者。今世では何よりも平穏なスローライフを望んでいる。物腰は柔らかく、常に完璧な執事を演じているが、内心では辛辣なツッコミを繰り返す面倒くさがり屋。
主の破滅=自分の失業と考え、ゲーム知識と類いまれな危機管理能力を駆使して、誰にも気づかれずに破滅フラグを叩き折り続ける。その有能さゆえに、最も面倒な人物に目をつけられてしまう。
オリヴィア・フォン・クライフォルト
本作の「悪役令嬢」。クライフォルト公爵家の一人娘。
原作ゲームでは、ヒロインに嫉妬し、断罪される運命にある。プライドは高いものの根は素直で、執事レイドの的確な助言を聞き入れる聡明さも持つ。
レイドの暗躍により、本来の悪評とは真逆の「冷静沈着で慈悲深い完璧淑女」という評判を確立していく。レイドに全幅の信頼を寄せている、本作における最大の受益者。
アシュトン・グレイフィールド
王太子。オリヴィアの婚約者。
「氷の貴公子」と称される怜悧な美貌の裏に、底知れぬ腹黒さを隠し持つ策士。常に二手三手先を読み、人の本質を見抜く鋭い観察眼を持つ。
婚約者であるオリヴィアの完璧すぎる立ち回りの裏に、面白い「黒幕」(レイド)がいることに気づき、強い執着と興味を示す。主人公の能力を最大級に(勘違い)評価し、彼の平穏な未来を打ち砕く元凶となる。
ローラ(ヒロイン)
原作ゲームのヒロイン。ピンクの髪色につぶらで大きな瞳。誰にでも優しく普段はおっとりしているがやるときはやる、まさに正統派ヒロインに相応しい人物。
今回の物語では、アシュトンと結ばれなかったため誰とも結婚はしていない。懇親会の時に助けてくれた執事のことがずっと気になるようで…?