第六章 血の夜明け
1 歪んだ忠誠
ブリュンヒルドが去った会場には薄氷のような沈黙が残った。
グズルーンは壇上で硬直し、白いグローブの下で指を震わせていた。
(……彼女が、生きていた?)
脳裏に閃くのは、あの日、ロキに見せられた銀鎖の重み。その銀鎖は鍵とともにいつの間にか消えてしまったらしいが。
「王太子のため」「王国のため」――そう思い込もうとした自分。
けれど今、黒いドレスの裾を翻し去っていった彼女の姿が、 誰よりも“正しさ”に満ちて見えた。
「……殿下」
震える声でシグルドにすがろうとする。
けれど彼の瞳は遠くを見つめたまま、グズルーンには向けられなかった。
その横顔に、少女が初めて恋をした日とは違う決して戻らぬ距離があった。
2 目覚める炎
月光の射す回廊を抜け、ブリュンヒルドは王宮の奥、北の塔を目指す。
ロキが王国の記録を改竄し、魔女狩りの命令を捏造した場所―― “王城の機密庫”がそこにある。
足元の石畳にルーンの光がかすかに揺れていた。 ファフニールとの契約が、体の奥で脈打つ。
《怒りだけで進むな。誓いを越えたとき、お前はただの火種になる》
低く重い声が心をよぎる。
でもブリュンヒルドは答えない。ただ静かに息を整える。
「もう二度と……誰かの手の中で壊されたくないの」
3 裏切りの玉座
一方、宰相ロキは会場を抜け、王の間でひとり杯を傾けていた。
消えた機密庫の鍵は気になるが、すでに記録文書も隠滅済み。
あとは政敵を粛清し、名実ともに“王の代行者”となるだけだった。
「まさか、あの娘が生きて戻ってくるとはな……」
だが、すでに策は巡っていた。
ブリュンヒルドが現れた今、再び“魔女”として断罪すればいい。
剣ではなく、言葉と法と印章で。
この国の“正義”を語るのは常に勝者なのだから。
「グンナルを呼べ」彼は側使いに命じた。
4 祈りと刃
その夜、王宮の塔の下にひとりの男が立っていた。 グンナル。かつてブリュンヒルドと剣を交え、兄のように寄り添った男。
彼の瞳には苦悩と決意が入り混じっていた。
「……お前が“火”になるなら、俺はその火を消す“刃”になるしかない」
彼の背後には密かに集められた旧騎士団の影。
彼の中で忠誠と愛と正義がゆっくりと一つの色に融けていく。
5 交錯の予兆
ブリュンヒルドが塔の扉を開いた瞬間、空気が変わった。
冷たい風が吹き込み、闇の奥で何かが呻いた。
文書を取り戻すための戦いが、
自分自身と、かつて競い合った仲間との対峙になるとは、このとき彼女はまだ知らない。
だが――
その瞳には迷いはなかった。
銀の簪の代わりに、黒いルーンが彼女の手の甲に灯っていた。