第三章 漆黒のヴァルキュリア
残虐行為があります。苦手な方はご注意を。
1 黒翼、降り立つ
春の兆しもまだ遠い、荒れた山道を歩く。
雪解けのぬかるみが脚をとらえ、冷たい風が首元を吹き抜けた。
だが、それよりも冷えているのは彼女自身の胸の内だった。
──生き返った。
でも、それはもう「人」としてではない。
鎧をまとう肌はどこか異質で、爪の先まで熱が感じられなかった。
「私はまだ“私”なの……?」
足を止め、ブリュンヒルドはひとりごちた。
答える者はいない。竜の声すら今は響かない。
けれどそのとき山の向こうから煙が立ち上った。 黒い嫌な煙。
それは彼女に焼け落ちた自分の屋敷を思い出させた。
2 村にて
そこはかつて彼女が巡察で訪れた小さな村だった。 農民たちが親切に食事を振る舞い、子供たちが無邪気に笑っていたあの場所。
だが今は様子が違った。
広場には倒れた老父。荒くれた男たちが泣き叫ぶ女性を押さえつけようとしていた。
「税を払わないからだ! お前ら田舎者に人権などない!」
「黙れ! これは王命だ!」
彼らは王国の治安兵。
宰相の圧政のもと、あちこちの村で暴政を働いているという噂は耳にしていた。
ブリュンヒルドはゆっくりと歩き出した。
黒いマントが風にひるがえり、鎧の縁がきらりと光る。
「それが……王命?」
その声はまるで鋼のように冷たさだった。
3 初めての一撃
「なんだ、あんた……傭兵か? 邪魔すんな!」
兵士が斧を振り上げた。
その瞬間だった。
ブリュンヒルドの身体が自然に動いていた。
黒槍が空を切り風を裂き、振り下ろされた斧ごと男の腕を弾き飛ばした。
「ぎゃあああああっ!」
血が飛ぶ。骨が砕ける音。
彼女は微動だにしない。
そして一歩。もう一歩。
ただ歩くだけで男たちは次々に恐怖に跪いた。
「次に誰かに手をかけたら──命はない」
言葉は冷たく揺るぎなかった。
4 孤児の少女
男たちが逃げ去ったあと村の片隅から小さな影がのぞいた。
薄汚れた毛布にくるまれた少女。髪はぼさぼさで顔に痣があった。
「ねえ、あなた、女の人?」
少女の問いにブリュンヒルドはふと動きを止めた。
「どうして、そんなに強いの?」
「……そう見えるだけよ」
少女は小さく笑った。
「でも、あなたが来たら皆逃げた。怖がってた。 ……私もちょっと怖かった。でも……ありがとう」
その言葉に何かが胸の奥で揺れた。
あの夜、誰かがほんの一言、「信じてる」と言ってくれたなら、私はまだ――。
5 名乗る
「名前を教えて」
少女にそう問われてブリュンヒルドはふと空を見上げた。
そこには雲にかかる月。
白銀の光が黒鎧に静かに反射していた。
「……私はブリュンヒルド。かつての騎士。そして今は──」
言いかけて言葉が止まる。
“ヴァルキュリア”という名をまだ自分の口から言い慣れていない。
「あなたを助けに来た者よ」
それだけを残し、彼女は再び歩き出した。
風が吹く。マントがはためき、少女はその背を見つめたまま立ち尽くす。