第二章 冥府の契約
1 闇の底へ
──死んだ。私は死んだのだ。
けれど何も終わっていなかった。
静寂すらない、重たく粘るような闇。
目も耳も意味をなさず、ただ意識だけが沈み続けていた。
「ブリュンヒルド」
誰かが何度も呼ぶ声がする。
それは父の声にも母の声にも似ていた。けれど違う。もっと深く、もっと愛しい人の声にも似て。
もっと古い、この世のどの言葉でもない響きもあった。
その名を繰り返し呼ばれるたびに胸の奥に火が灯るようだった。
その火は──怒り。悔しさ。悲しみ。そして、切なさだった。
2 竜の記憶
やがて彼女の前に現れたのは白銀のうねる影だった。
まるで霧が形を取ったような、巨大な竜。
鋭い双眸はまっすぐに彼女の心の底を見つめていた。
≪我はファフニール。凍土に封印されし竜。汝は何を望む?≫
深く低い声が頭の中に響く。
「……私は……死にたくなかった」
≪それだけか≫
「彼に裏切られた。……信じていた。愛していた。 でもあの人は私の言葉を聞こうともしなかった……!」
唇を噛む。指先が震える。目の奥が焼けるように熱い。
「奪われたの。私の居場所も、家族も、未来も、全部──!」
≪ならば、選べ≫
竜の瞳が静かに光った。
≪復讐の力を汝に与えよう。代償は愛だ≫
3 愛の代償
愛を代償に? 目を伏せたブリュンヒルドの脳裏に彼の声がよぎる。
──君は誰よりも誇らしい。
──明日、婚約を発表しよう、皆の前で。
あの夜のことはきっと一生忘れない。
けれど、それでも……。
(……あの人が今この瞬間、私を思い出して涙を流してくれているなら……)
少しでもそう信じたかった。
でも──。
「いいえ」
ブリュンヒルドは顔を上げた。
今の彼女の目に涙はなかった。
「たとえ、あの人が今、私を愛していたとしても……。
私の家族を、誇りを、命を捧げた騎士としての生き様を――見殺しにしたことは消えない」
≪その決意、確かに受け取った≫
竜の身体が霧のように彼女を包む。
光も熱もない。ただただ静かで、絶望と怒りだけが彼女を満たしていく。
≪契約は成った。汝は黒炎のヴァルキュリアとなる≫
4 再生
気づけば冷たい石の床に横たわっていた。
焼け爛れたはずの肌は今や白くなめらかに戻っている。
けれど鏡を見なくても分かる。あの頃のブリュンヒルドはもうどこにもいない。
彼女は立ち上がり闇の中で目を開く。
右手には黒曜石のような光を湛えた槍があった。黒檀のグリム。
──それはもう守るための武器ではない。奪い返すための武器だ。
ブリュンヒルドはゆっくりと立ち上がる。
足元に灰が舞う。かつての少女はもう二度と戻らない。