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第一章 炎と裏切り

1 祝宴の前夜


 雪解けの匂いをはらんだ夜風が王都ミッドガルドの尖塔を渡る。 

白漆喰の広間では百本の燭台がゆらめき、琥珀色の光が舞踏客の肩先を滑っていた。

 ブリュンヒルド・アールヴヘイムは胸元を覆う銀糸の刺繍にそっと指を添える。 

ついさっきから鼓動が速い。けれどそれは恐れではなく、ずっと夢見た“喜び”の証だった。

「似合っている」 

温かい声とともに差し出された大きな手。 

王太子シグルド・ヴォルスングの長い睫毛が瞬き、青い宝石のような瞳が真っ直ぐにブリュンヒルドを映す。

「明朝、正式に婚約を発表しよう。皆の前で君に永遠の愛を誓う」

 胸がちりりと痛むほど嬉しかった。 

亡き母が遺してくれた髪飾り──氷花をかたどった銀の簪──に指を触れ、ブリュンヒルドは小さくうなずく。

 少女の頃から槍を握り、男たちと肩を並べ槍を振るった。 

王国騎士団の“槍姫”として戦場でも王都でも彼女は強かった。 

けれど今夜だけは、ただひとりの女性として愛されることを許された気がした。

 シグルドが微笑む。 

甘い幸福が胸を満たし──その奥で微かなざわめきが芽ばえた。 

城の廊下を走り抜ける兵の気配。 

背筋を撫でる冷たい違和感にブリュンヒルドは気づかなかった。



2 血の夜明け


 夜半。王宮の一角。

ベッドの脇に置かれた腰剣に滴るほど濃密な鉄錆の匂いがまとわりついていた。

 遠くで鐘が鳴っている。──火急を知らせる鐘。 ブリュンヒルドは跳ね起き、窓を押し開けた。

 炎。 

大通りの向こう、アールヴヘイム邸が闇に浮かぶ巨躯のように燃えている。 

雪をまとう松林から立ち上る火柱。逃げ惑う使用人。 

そして黒鎧の兵……王国近衛──否、私兵だ。

 胸の奥を素手で掴まれたような痛みが走る。

「父上、義母上……!」

両親は婚約式の為に領地から王都の館に居る。騎士としての判断より早く、娘としての叫びが口を突いた。 

しかし屋敷へ駆け込むより先に背後から腕を捻り上げられる。

「伯爵令嬢ブリュンヒルド・アールヴヘイム、王命により拘束する」 

面頬の奥の瞳は憐憫も疑念も宿さない澄んだ闇。

気づけば両手は鎖で縛られ、雪のように白い寝間着は煤と血飛沫で黒ずんでいた。 

──どうして? 王命? 

理解が追いつかぬまま、彼女は王都の石畳へ引きずり出される。



3 断罪


冬枯れの星空。広場の中央に据えられた聖火台が重い樫材を軋ませて炎を上げる。十字の柱に縛りつけられたブリュンヒルドを囲む無数の目。罵声。石礫。──彼らは恐れている。早く火をつけろと叫ぶ。“魔女”という烙印ひとつで人は容易く怪物を作り出す。

それでも彼女は信じていた。──シグルドだけは必ず真実を告げてくれると。

足元の柱に火がつけられた。やがて火はうねり、ブリュンヒルドを焼こうとする。

遠くから蹄の音。月光を切り裂いて駆け来る純白の軍馬。

その馬上にいたのは、王国の未来を背負う若き王太子シグルドだった。彼は深緑の外套を身にまとい、夜の闇に映える鋭くも静かな威厳を漂わせていた。その整った顔立ちは派手ではなく、凛とした輪郭と氷のように冷たく澄んだ灰青の瞳が際立っていた。鍛え上げられた肩幅と風に揺れる金褐色の髪が月光の下で一幅の絵のように浮かび上がる。

彼の目は群衆を見渡すことなく、ただ一人、縛られたブリュンヒルドだけを見据えていた。

「王国の民よ。闇を率いし異端〈ヘルダル〉の血脈は今ここで絶たれねばならない」氷片のような言葉が巨大な静寂を落とす。ブリュンヒルドの瞳が揺れ、月光を映した涙が頬を伝う。

「……シグルド、なぜ?」

彼は答えない。唇を噛み、何かを振り切るように〈断罪の槍〉を掲げた。

「火を消せ。魔女は呪う。地下墳墓へ永久に閉じ込めろ」

そこでブリュンヒルドの意識は途切れた。



4 冥府への墜落


 朧な意識の底で雪解け水のような冷気が頬を撫でた。

 鎖を引きずられ荒涼とした地下墳墓へ──。

 灯のない石階段。

 誰かが囁く。

 ≪まだ終わらせるな。汝が炎はここで消えるものではない≫

 鼓動がひとつ重なり、重苦しい闇の向こうで銀白の影が身じろぎした。

 古より生き、世界の縫い目に棲む竜。

 ──ファフニール。

 焦げた指先が天井へ伸び、闇をかき分けるように掴む。

 愛と憎しみ、そのどちらかだけでは立ち上がれない。

 ならば両方を抱いて進むしかない。

 叩きつけるように息を吸う。

 血と灰の匂いが喉を焼くほど濃く、しかし生への渇望は更に熱かった。

 ……ブリュンヒルドは目を開く。

 指先に灯った漆黒のルーン文字が闇を裂く狼煙のごとく輝いていた。


改行が上手くいかない( ̄▽ ̄;)

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