第十五章 竜の囁き
1 黒き眠りの主
北の断崖ヘイズフォールを越えた先、かつて“世界の裂け目”と呼ばれた峡谷の底ギンヌンガガプ。
そこにファフニールの封印域の最深部があった。
霧と氷の残骸に覆われた広間。
古の神代文字が苔と血に染まっている。
「ここに、グズルーンは……」
ブリュンヒルドが立ち止まり、懐から水晶片を取り出す。
水晶は淡く脈動していた。
(彼女は生きている――)
しかし同時に、それは“何か”と繋がっている証でもあった。
石床に触れた瞬間、地の底から低いうねりが響いた。
瘴気が這い上がり、巨大な影が――形を成しはじめる。
「ヒ、リュ……ン……ヒ、ル……ド」
音ではない。魂に直接訴えかける声。
それは、災厄の竜と化した「ファフニール」がブリュンヒルドの名を呼んだのだった。
2 裂けゆく境界
「下がれ!」
シグルドが叫び、剣を抜く。
だが瘴気の波はブリュンヒルドだけを囲むように迫ってくる。
まるで彼女を“選び取る”ように――
「やめなさい……私は、お前の同類ではない!」
ファフニールの気配は揺らぎ、次の瞬間、視界が一変する。
見渡せば――かつてのアールヴヘイム。
穏やかだった日々、家族の声、暖かな部屋、甘い蜂蜜菓子の香り。
(……違う、これは幻。戻らなきゃ)
だが足が動かない。
幻影の中にグズルーンの姿が現れた。
「ここは痛みのない場所。あなたも赦されたいのでしょう?」
「……私が欲しいのは赦しじゃない。未来よ」
その瞬間、幻は破れ、闇の中にブリュンヒルドは膝をついた。
胸元のルーンが灼けるように光り、瘴気を押し返す。
3 目覚めの兆し
シグルドが彼女のもとへ駆け寄ると、彼女は荒く息を吐いていた。
「大丈夫か――!」
「……ええ。でも確信した。グズルーンはあの竜に触れてしまった」
地の底から微かな鼓動のような震えが続いている。
「このままでは彼女は“器”にされてしまう」
「なら止めよう。まだ間に合うなら」
ブリュンヒルドは頷き、立ち上がる。
「彼女を助けるためでも、竜を倒すためでもない。 これは……私自身が、“焼け跡”から進むための戦いよ」
4 風の中の声
一行が退避を始めたとき、谷の上空に一羽の白鴉が舞い降りた。
その足に巻かれた布には見慣れた筆跡でこう記されていた。
《西の古城にて、真実を綴る。ブリュンヒルドへ。――グズルーン》
「……彼女はまだ、自我を保っている」
ブリュンヒルドは布を握りしめると、視線を遠くの地平へ投げた。
「西へ向かうわ。終わらせるために」
夜の帳が降りかかる中、隊列が再び進みはじめる。 その背に、瘴気の底でうごめく竜の影が、微かに形を成し始めていた。