第十四章 ファフニールの封印
1 灰の森
北方の風が冷たく吹きすさぶ山間、騎馬の一行が灰に覆われた針葉樹の森へと踏み入った。
空は低く、夜明け前にも関わらず昼のように白んでいる。
ブリュンヒルドは馬上で短く息を吐いた。
「ここが……“灰の眠り”の境界線」
ファフニール封印域の周辺に広がるこの森では生気を失ったように植物が枯れ、動物の気配すら消えていた。
騎士たちの馬も怯え、蹄を何度も固い地に打ち鳴らす。
「進め」
シグルドが小さく声をかけた。
言葉は短くとも、その背に揺るぎはなかった。
やがて森の中に黒ずんだ塔の影が見え始めた。
かつて封印の監視所として建てられ、竜信徒によって襲撃・破壊されたという場所――
そこに今、人の灯が揺らいでいる。
2 囁くもの
塔の廃墟に近づくと、寒気とともに空気が淀んでいった。
灰色の土に踏み入った瞬間、ブリュンヒルドは不意に足を止めた。
(……今、誰かの声が)
空耳ではない。
それは懐かしくも恐ろしい、“血の夜明け”の記憶を囁くような声。
(ファフニール?)
《お前はまだ燃え尽きていない。赦しも、忘却もないままに立っている》
彼女は頭を振った。
「違う。私は――」
すると彼女の前に幻のような姿が立った。
それは処刑台に立つ自分。
焼け落ちた髪、黒く煤けた肌、槍も王冠も持たぬ“かつての自分”。
「本当に立ち直ったと言えるの?」
シグルドがブリュンヒルドの肩に手をかけたそのとき、幻影はふっと霧散した。
彼は彼女の額に流れる汗をそっと拭い、低く呟いた。
「ここは竜の記憶域だ。心の闇を映す鏡でもある。気を強く持て」
3 失われた印
塔の最上階――そこに、旅支度の痕跡があった。
干し肉、割られた灯籠、そして血の付いた封印具。
「……グズルーンだ」
ブリュンヒルドがそっと拾い上げた封印具には、彼女の指紋が微かに残っていた。
そして塔の石壁には、ひとつの言葉が爪で引っかいたように彫られていた。
《裂け目は開いた》
「間に合わなかった……」
ブリュンヒルドの指が震えた。
「これが彼女の最後の痕跡?」
「……まだだ」
シグルドが階下の空間を指差す。
塔の地下。
そこには、いまだ“眠るもの”の気配が残っていた。
4 竜の影
地下階へ降りると、結界の痕跡が微かに残っていた。
しかし、その中心にあるべき“封”が、切り裂かれたように崩れている。
「……これが、ファフニールの封印」
ルーンの紋章が砕け、闇がじわじわと広がっていた。
「誰かが呼び覚ましたのか。あるいは……目覚めたのか」
シグルドの剣に淡い光が宿る。
ブリュンヒルドは崩れた紋章の中心で、微かに輝く水晶片を拾った。
それはグズルーンの魔力の欠片だった。
5 夜明けの誓い
塔の外に出ると朝日がうっすらと空を染めていた。 灰の森にも淡く朱が差している。
「これはもう、個人の罪では済まない」
ブリュンヒルドが呟く。
「竜が動くなら王国全体を――いいえ、この世界を巻き込む」
「だとしても、止めるのは俺たちだ」
シグルドが剣を鞘に戻す。
「君が“王”なら、俺は“剣”であり続ける」
彼女は短く頷いた。
「始めましょう。全ての“焼け跡”に、名を与えるために」
彼らは再び馬を駆り、灰の森を抜けていった。
その背に、地の底から微かに響く――獣の唸りが忍び寄っていた。