第十三章 氷の裂け目
1 アールヴヘイムの残響
秋霜の朝、王都ミッドガルドを離れた使節団が北西の領地アールヴヘイムの廃都スヴァルトアールヴヘイムへ向かっていた。
かつてブリュンヒルドの故郷であったその地には今や廃墟と氷原、わずかな村民の残骸しかない。
ブリュンヒルドは護衛も最小限に留め、自ら馬を駆った。
「墓標ではなく、記憶を建て直しに来たのよ」
彼女の背に風を切る外套がなびいた。
その夜。
かつて自邸があった場所に降り立った彼女は焼け落ちた石柱の間で膝をついた。
「……父上……」
声にならない祈りを胸に、氷の地に片手をつける。
すると、その足元で、うっすらと銀の紋が浮かび上がった。
かつて一族が秘匿していた古代ルーンの陣形―― それは死者の声を“写し取る”魔術の残滓だった。
(これは……私に見せようとしていた?)
ルーンの陣に手を添えた瞬間、氷面に微かな記憶が走る。
火の手の上がる屋敷、怯える侍女、そして――
ひとり、兵士を前に立ちはだかる若い男の姿。
「彼は……誰?」
だが、映像はそこで断ち切られた。
その背の輪郭だけが、なぜか見覚えがあるような気がした。
風が強くなり、幻影をかき消していった。
2 報せ
王都へ戻った彼女を待っていたのは思いがけぬ報せだった。
「グズルーン様が行方不明に――」
王宮の侍女が震える声で告げる。
昨夜、密かに城を出て以来、帰還の気配はなかった。
(あの女が……この時期に?)
ブリュンヒルドは眉をひそめる。
ただの外出ではないと、直感が警鐘を鳴らした。
同時に北辺から新たな報せも届く。
「ルーン峡谷にて魔物の異常出現。またファフニールの封印域が不穏です」
(ファフニール……)
ブリュンヒルドはグルム(槍)を取り、地図の上で二点を見比べた。
北へ向かう道筋が重なっていた。
3 シグルドの沈黙
執務室の扉を叩く。
なかで剣の刃鳴らしを整えていたシグルドが顔を上げた。
「……グズルーンが姿を消したわ」
彼はわずかに目を伏せ、机の上に一通の封書を置く。 淡い紫の封蝋――グズルーンの私印だ。
「今朝、寝室の卓に残っていた。君にも見せるべきだと思った」
封を切ると、短い走り書き。
《鎖は自分で解く。誰にも追わせないで》
そして、もうひと行。
《――北の眠りを揺らしたのは私たち。罪は私が連れて行く》
ブリュンヒルドは紙片を読み終え、沈黙のまま視線を上げた。
「彼女……北境へ?」
「おそらく。」
シグルドは地図を広げ、辺境と封印域を結ぶ細い山道を示す。
「昨夜、禁書庫から〈古竜封滅の儀式書〉が一冊、失われた。彼女はそれを携えた可能性が高い」
「儀式書……ファフニールの封を断ち切るための?」
「あるいは、逆に完全に鎮めるためのものだ。」 シグルドは静かに続ける。
「グズルーンは俺たち二人のことはとっくに理解していた。
だけど彼女は“王太子妃”の役目でしか自分を量れなかった。──残った最後の役目が、この封印なのかもしれない」
ブリュンヒルドは短く息を吐いた。
嫉妬でも憐憫でもない、複雑な痛みが胸を掠める。 「追うわ。彼女一人に背負わせるべきではない」
「共に行く。剣はここにある」
シグルドが鍔に手をかけると、炯々たる蒼眼が映った。
「ええ――なら、立って。王の剣よ。北へ向かうわ」
4 出立
翌日、王国北門。
選ばれた少数の騎士とともにブリュンヒルドとシグルドは馬を駆る。
ファフニール――災厄の名を持った竜は未だ完全に本来の姿を現してはいない。
だがその“目覚め”が、すでに幾つかの不自然な兆候を引き起こしていた。
「次に進むには、もう一度灼かれる覚悟が必要だ」
シグルドが呟いた言葉にブリュンヒルドは答えなかった。
ただ風を切る視線の先に北の稜線が見えていた。