第九章 戴冠と誓約
1 遺詔の開封
薄曇りの評議会広間。
古文書官が裂帛の声で読み上げた。
「余ノ逝去ノ後 王冠ハアールヴヘイム家ノ娘 ブリュンヒルドニ授ク」
羊皮紙に残る先王の筆跡が議場の空気を一変させた。
議席の半数が色を失い、ざわめきが渦を巻く。
壇上のシグルドは一歩下がり、誰よりも早く頭を垂れた。
「私は王位を辞す。父王の遺志と民の選択に従い、剣をもって国境を守る」
宣言は短く弁明もない。
王太子の金糸のマントが静かに外され、従者へ渡された。
2 戴冠の日
王都ミッドガルドの大広間。かつて“魔女”と罵られ火刑が執り行われたその場所で、今、無数の松明が誓いの火を灯していた。
中央に立つのは純白の礼装に身を包んだブリュンヒルド。銀の刺繍が光を受けて煌き、黒曜石の髪をまとめた氷花の簪が、かすかな風に揺れている。
「ブリュンヒルド・アールヴヘイム」
教皇の口上に続き、参列者が静まり返る。
「ここに、王国の再建を担う者として戴冠の儀を執り行う。その誓いは剣にあらず、血にあらず。民の心にあるべき“灯”とならんことを」
氷の王冠が、彼女の額に載せられる。
――凛として、眩しいほどに美しい。
その姿に、誰もがかつての“断罪”を忘れそうになるほどだった。
3 決意の眼差し
参列者の中でシグルドは静かに立っていた。騎士の礼装を纏いながらも、彼の視線はただひとつの方向にしか向いていない。
ブリュンヒルドは玉座に腰を下ろし、ゆっくりとその手を掲げた。
「私は約束します。この国を力によってではなく“選び”によって導くと。この王冠は、憎しみの果てにあるものではなく、赦しと希望の象徴として受け継ぎます」
その言葉に場内の誰かがそっと拍手を送る。やがて、それは一人、また一人と続き、やがて大きなうねりとなった。
――人々が彼女を“王”として受け入れた瞬間だった。
4 静かな告白
式典が終わり、夕暮れ色に染まる西塔の回廊。その二人は肩を並べて歩いていたが視線は交わらない。ブリュンヒルドは足元の石畳を見つめ、シグルドは遠くに沈む夕陽をじっと見据えている。
しばらくして、彼がわずかに口を開いた。
「赦すとは、まだ遠いだろうな」
彼女は立ち止まり、ゆっくりと顔を上げた。冷静な瞳が、彼の視線と短く絡む。
「ええ。けれど、ここに立つことを選んだ」
声は静かだが決意が含まれている。
彼は懐から焦げ跡の残る王命書の切れ端を取り出した。
「これが、あの日の証拠だ。ロキの私兵が“予定を早める”と記した注釈も俺は知っていた。……墳墓に閉じ込める事しか出来なかった」
紙片を握る指が震える。
「あの瞬間、世界より先に——自分が壊れた」
ブリュンヒルドは視線を落とし、紙片を受け取らずにただ見つめた。長い沈黙。
やがて彼女は腰の短剣を抜き、紙片にそっと刃先を当てた。紙は二つに裂け、風に乗って夜空へ舞う。
「過去は償いじゃない。次を選ぶ勇気よ」
刃を収めた彼女の横顔を、シグルドは言葉なく仰ぎ見た。指先よりも深い場所で、再び鼓動が始まるのを感じながら。
5 星降る夜に
夜気は澄み、庭園の噴水が月明かりを鏡のように映していた。大広間から漏れる楽の音も、ここでは遠い波のようにかすれる。
ブリュンヒルドは大理石の縁に腰掛け、甲冑の下で癒えきらぬ傷をそっと押さえた。足音――振り向かずとも誰かわかる。シグルドが黙って近づき、噴水の向こう側に立つ。正面ではなく、斜めに距離を置いたその位置取りに、彼の迷いが滲んでいた。
長い沈黙。風が薄い前髪を揺らす。
シグルドは懐から小箱を取り出し、蓋を開けた。中にあるものを確認し、ふっと息を吐くと、ゆっくりと蓋を閉じる――そして何も言わず、箱ごと水面に滑らせた。
銀の指輪が月光を受け、沈んでいくさざ波の底でかすかに光る。
ブリュンヒルドの視線が一瞬だけ追った。だが、そのまま静かに目を閉じる。
やがて、彼女は立ち上がり、距離を詰めぬまま袖を払った。ドレスの裾が石畳で擦れ、小さな星砂のような煌めきを散らす。
シグルドが一歩、彼女の横へ。肩が触れるほど近いが、手は伸ばさない。
彼女は月を見上げたまま、低く問う。
「譲れないものは?」
シグルドは答えず、代わりに胸元の紐をほどき、一本の短剣をそっと差し出す。柄の根元には彼女の故郷アールヴヘイムの紋章が彫られていた。
ブリュンヒルドは受け取らず、刃先をわずかに指で弾く
――澄んだ音が夜空に溶ける。
「遠回りね」
掠れた声に、彼はようやく薄く笑った。
今度は彼女が短剣を取り、鞘ごと腰のベルトに通す。派手さのかけらもない、無骨な所作。けれどその一瞬で、二人の距離は確かに変わった。
眼差しが交わる。そこには赦しも約束もまだ無い。あるのは、手探りのままでも踏み出す強い意志
――それだけ。
星が流れ、噴水の水面に消える。祝宴の高笑いは遠く、夜の風だけが彼らの間を通り抜けた。