『私の教習車は3号車』
『私の教習車は3号車』
#偶然の出会い
春の柔らかな日差しが車内に差し込み、新品の車内装備の匂いが漂っていた。
隆介は、菜緒子の緊張した様子を見て、思わず微笑んだ。彼女の瞳には、不安と期待が交錯していた。
「では、教習簿を見せて下さい。」という決まったセリフを野村は言った。
「はい」
菜緒子は緊張した手つきで、真新しい教習簿を差し出した。
野村は丁寧にページをめくり、今日の課題を確認する。春の陽射しが、白いページに反射して眩しかった。
「今日が初めての教習ですね。では外に出て車の大きさを体感しましょう」
野村は自ら運転席に座り、車を車幅や全長がわかるラインが引いてある場所へ移動しようとした。
その時だった。普段は手慣れているはずのハンドル操作が、なぜか思うようにいかない。
何度か試みるうちに、車はラインから大きく外れていった。
「あの…」菜緒子が心配そうに声をかける。
野村は深く息を吸い、ゆっくりと口を開いた。
「申し訳ありません。実は…まだ指導員になって一人で教習するのが初めてなんです。緊張して、基本的な操作も上手くいかなくなってしまいました」
その率直な告白に、菜緒子は驚いた。
目の前の指導員は、自分の失敗を隠そうともせず、ありのままを認めている。その姿に、どこか心を打たれるものがあった。
「私も初めての教習で緊張していましたから、野村先生のお気持ち、よくわかります」
思わず口にした言葉に、二人とも微笑みを交わした。春風が車窓を叩き、桜の花びらが舞い散る。
この小さな出来事が、後に43年もの長きにわたる深い絆の始まりとなることを、その時の二人は知る由もなかった。
「もう一度、挑戦させていただいてもよろしいでしょうか」
野村の誠実な態度に、菜緒子は心から頷いた。今度は落ち着いて、野村はハンドルを握る。
目の前にいるのは、完璧な指導員ではなく、一人のただの人間だった。
二度目の試みで、車は見事にラインに収まった。しかし、菜緒子の心に残ったのは、その成功よりも、失敗を認め、誠実に向き合う野村の姿だった。
「面白い人…」
その返事には、先ほどまでの緊張感は消え、代わりに温かな信頼感が芽生えていた。
「ああ、やっぱり失敗したかもしれない…」
その日の夜、菜緒子は布団に入りながら深いため息をついた。
教習所の申し込みをした時、母から叔父の「野村」を指名しておくといいと言われていた。
叔父とはほとんど会うことがない親戚の一人だった。
叔父のベテラン指導員を想像していたのに、実際に会ってみれば新米の若手で、しかも自分と同じように緊張していた。
最近の自動車教習所の指導員は、昔ほど怖くないと聞いていたが、それでも菜緒子の周りには怖い思いをした友人が何人もいた。
だからこそ、叔父の勤める教習所を選んだのだ。せめて知り合いがいる場所なら、安心できると思って。
「でも…あの野村先生、なんだか違う」
確かに不慣れで、時々戸惑う姿を見せる。けれど、その正直さには好感が持てた。
自分の未熟さを隠そうともせず、むしろ率直に認める態度は、どこか清々しささえ感じられた。
友人との電話のやり取りで「教習、どうだった?」という問いかけに、菜緒子は少し考えてから返事をした。
「最初は不安だったけど…なんだか、安心できる先生だったけど、ちょっと変な人」
話ながら、菜緒子は今日一日を振り返る。確かに失敗も多かったし、戸惑いもあった。
でも、野村先生の「私も初めてなんです」という言葉には、不思議と救われる思いがした。
翌朝、教習所に向かう道すがら、菜緒子は昨夜の後悔が少しずつ薄れていくのを感じていた。
春の日差しは柔らかく、桜並木の下を歩くのは気持ちがよかった。
「おはようございます」
事務所で出会った叔父の野村は、温厚な笑顔で菜緒子を迎えた。
「昨日の教習は、どうだった?若い野村君は、ちゃんと教えてくれたかい?」
「ええ、とても…」と言いかけて、菜緒子は少し言葉を選んだ。「真摯に向き合ってくれました」
叔父は意味深な笑みを浮かべた。「あの人は、まだ経験は浅いけれど、誠実な指導員になると思うよ」
その言葉を聞いて、菜緒子は少し安心した。昨日感じた好感は、決して的外れではなかったのだ。
3号車に向かう途中、菜緒子は野村の姿を見つけた。教習車の点検をしている後ろ姿は、どこか一生懸命で、初々しい印象だった。
「おはようございます」
声をかけられて振り返った野村の表情には、昨日よりも少し自信が混ざっているように見えた。
「今日は、もう少しスムーズに指導できると思います」
その言葉に、菜緒子は思わず微笑んだ。二人とも、昨日の経験を糧にして、一歩前に進もうとしているのだ。
教習が始まると、野村の指示は確かに昨日より明確になっていた。それでも時折見せる戸惑いは、むしろ親近感を覚えさせた。
完璧な指導員ではないからこそ、菜緒子は素直に質問できた。
「先生は、なぜ指導員になろうと思ったんですか?」
休憩時間に、菜緒子は思い切って聞いてみた。
「実は…」野村は少し照れたように窓の外を見た。
「私の義父が本社の役員をしていて、その…つまりコネ入社というか…そして、教習所へ転勤なんです」
その言葉に、菜緒子は思わず「私も!」と叔父の野村を頼って入校したことを言おうとした。
「でも、実際に指導する立場になってみると、人になにかを指導することの難しさの現実に戸惑っています」野村は正直に続けた。
「それでも、一人一人の生徒さんと真摯に向き合っていきたいと思っています」
菜緒子は、その言葉に深く頷いた。最初に感じた後悔は、もう完全に消えていた。
代わりに、この出会いが自分にとって大切なものになるかもしれないという予感が、静かに心の中で膨らんでいった。
その日の教習は、不思議なほどスムーズに進んだ。二人の間に流れる空気は、もう初日の緊張感はなく、穏やかな信頼関係に変わっていた。
夕方、教習を終えて車から降りる時、菜緒子は野村に向かって言った。
「私、もう後悔していません」
「え?」
「実は昨日、新米の先生で大丈夫かなって、少し不安だったんです。でも今は、野村先生で良かったって思っています」
その素直な言葉に、野村は赤面しながらも嬉しそうな表情を見せた。
帰り道、菜緒子は桜並木の下で立ち止まった。花びらが風に舞う様子を見つめながら、彼女は思った。
人との出会いは、最初からすべてが完璧である必要はないのかもしれない。
むしろ、お互いの不完全さを認め合い、共に成長していける関係の方が、きっと大切なのだと。
その夜、日記を書きながら、菜緒子は小さく微笑んだ。明日も、あの3号車で野村先生と会える。
その事実が、不思議なほど心を温かくしていた。教習期間は決して長くない。
でも、この出会いは、きっと人生の大切な思い出として、心に刻まれることだろう。
春の夜風が、窓辺のカーテンを静かに揺らしていた。
春の陽気に誘われるように、菜緒子の教習所通いは毎日の日課となっていった。
3号車での教習は、彼女にとって心待ちにする時間だった。
野村は独特な指導スタイルを持っていた。「生徒さんはお客様です。楽しく運転を学んでいただけたら」というのが、彼のモットーだった。
緊張しがちな教習生の緊張をほぐすため、時には冗談を交えながら和やかな雰囲気作りを心がけた。
「ハンドルを握るときは、まるでデートの相手の手を握るような優しさで」と野村が言うと、菜緒子は思わず吹き出してしまう。
「先生、それじゃあデートの経験がないと運転できないじゃないですか」
「あ、そうですね。じゃあ...お気に入りのぬいぐるみを抱くような感じで?」
教習車の中からは、いつも二人の笑い声が漏れていた。
しかし、その和やかな空気が、思わぬ波紋を呼ぶことになる。
ある日、ベテラン指導員の田中が、事務所で声を荒げていた。
「あの3号車からは、いつも笑い声が聞こえてくる。あれは教習じゃない。遊びだ」
叔父の野村も、心配そうに若い野村を見つめていた。「確かに楽しく学ぶのは大切だが、運転は命に関わる。もう少し真剣さが必要かもしれない」
その言葉は、次第に教習所内で広がっていった。他の指導員たちの視線も、少しずつ冷たくなっていく。
菜緒子は、野村の表情が日に日に硬くなっていくのを感じていた。以前のような温かな冗談も減り、必要最小限の指示だけを出すようになっていた。
「先生、大丈夫ですか?」
休憩時間に菜緒子が尋ねると、野村は窓の外を見つめたまま答えた。
「私の指導方法は間違っていたのかもしれません。楽しさを追求するあまり、安全性や真剣さが足りなかった」
その言葉に、菜緒子は強く首を振った。
「違います。先生の指導のおかげで、私は運転が怖くなくなりました。緊張せずにハンドルを握れるようになった。それは、先生が作ってくれた雰囲気のおかげです」
野村は菜緒子の言葉に、少し驚いたような表情を見せた。
「でも、他の指導員の先生方は...」
「先生の指導は、決して間違っていません。むしろ、私たち教習生のことを本当に考えてくれている」
菜緒子は真剣な眼差しで続けた。
「確かに笑いはありますが、それは緊張を和らげるためのもの。安全確認や運転操作に関しては、先生はいつも厳しく指導してくれています」
その夜、野村は一人で教習車の点検をしていた。春の夕暮れが、静かに車体を染めていく。
自分の指導方法は、本当に正しいのだろうか。生徒との信頼関係を築きながら、安全で確実な運転技術を伝える。その両立は可能なのか。
野村は自分の机の前で深いため息をついた。
事務所の窓から差し込む春の陽光が、彼の憂いを帯びた表情を照らしていた。
「楽しく学べる教習」という自分の信念は、果たして間違っていたのだろうか。
田中先生をはじめとする他の指導員たちからの冷ややかな視線が、日に日に重くのしかかってきていた。
「野村君、ちょっといいかな」
事務所の奥から、指導部長の声が響いた。野村は一瞬身体が強張るのを感じた。案の定、この呼び出しは来るだろうと予想していた。
「失礼します」
指導部長室に入ると、春日部部長は窓際に立ち、外を眺めていた。その背中からは、これから交わされる会話の重さが感じられた。
「座りなさい」
野村が椅子に腰を下ろすと、部長はゆっくりと振り返った。その表情には、困惑と苛立ちが混在していた。
「最近、君の教習についての話をよく耳にする。特に3号車からの笑い声については、ほとんどの指導員が気にしているようだ」
野村は黙って頷いた。言い訳をする余地はないと感じていた。
「君は自分の立場をわかっているのか?」部長の声音が少し強くなる。
「義父が本社の役員だからって、いい気になるなよ。私も、他の指導員たちの手前、もうかばいきれなくなってきている」
その言葉は、野村の胸に突き刺さった。確かに義父の縁で入社したことは事実だ。
しかし、自分の指導方針は決してそれとは関係ない。純粋に、教習生のためを思って選んだ道だった。
「申し訳ありません」野村は深く頭を下げた。「ですが、部長。私の指導方法は決して手を抜いているわけではありません」
「そうじゃない」部長は机を軽く叩いた。
「問題は、教習所の雰囲気だ。他の指導員たちは何十年もこの仕事をしてきた。その経験に基づいた指導方法がある。それなのに、入ったばかりの若造が独自の路線を通そうとする。それが、面白くないんだ」
野村は黙って部長の言葉を聞いていた。しかし、その心の中では反論が渦巻いていた。
「でも、部長」ついに野村は口を開いた。
「私は、教習生一人一人の気持ちに寄り添いたいんです。緊張をほぐし、リラックスした状態で運転技術を身につけてもらいたい。それが、私なりの安全運転への近道だと信じています」
春日部部長は大きく息をついた。
「若さゆえの理想論か」
「理想論かもしれません」野村は真っ直ぐに部長を見つめた。
「でも、教習生の表情が明るくなり、積極的に質問してくれるようになった。それは、私の指導が間違っていない証だと思うんです」
部長の表情が複雑に歪んだ。若い指導員の熱意は理解できる。しかし、組織として無視できない問題でもあった。
「一週間だけ猶予をください」野村は決意を込めて言った。「私の指導方法が本当に効果があるのか、しっかりと結果でお見せします」
部長は長い沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。
「わかった。一週間だけだぞ。その間に目に見える成果が出なければ、従来の指導方法に戻ってもらう」
「はい、ありがとうございます」
部長室を出た野村は、深く息を吐いた。窓の外では、桜の花びらが春風に舞っていた。
その日の午後、3号車での教習。菜緒子は、いつもと様子の違う野村に気付いた。
「先生、何かあったんですか?」
「ああ、ちょっとね」野村は軽く笑った。「でも大丈夫。むしろ、これからが本番かもしれない」
「本番、ですか?」
「うん。私は信じているんだ。楽しく学ぶことが、上達への近道だって」野村の声には強い確信が混ざっていた。
「緊張や恐怖心があると、人は萎縮する。必要以上に力が入って、かえって危険なことだってある」
菜緒子は黙って頷いた。彼女自身、野村の指導のおかげで、最初の頃の極度の緊張から解放されていた。
「だから、これからも変わらずにいきます。もちろん、安全面での指導は今まで以上に徹底します。でも、楽しく学ぶという私の信念は、曲げるつもりはありません」
その言葉に、菜緒子は心の中で応援の気持ちを強くした。
次の日から、野村の指導はさらに進化した。笑顔と冗談は残しつつ、安全確認や運転操作の指導は一層丁寧になった。
教習生の理解度に合わせて説明を変え、時には図を描いて視覚的に理解を促した。
そんな野村の姿を、他の指導員たちも少しずつ、しかし確実に認識し始めていた。
教習生たちの上達ぶりは目を見張るものがあった。
緊張せずに運転できることで、より細かな技術の習得にも前向きに取り組めるようになっていた。
一週間後、野村は再び部長室に呼ばれた。
「君の生徒たちの成績を見た」部長は静かに言った。「確かに、従来の方法より良い結果が出ている」
野村は黙って頷いた。
「ただし」部長は続けた。「これは君の若さがあってこそだ。経験を積んだ指導員が真似できるものじゃない」
「はい、理解しています」
「今後も、君なりのやり方で構わない。ただし、安全面での妥協は絶対に許さない。それと、もう少し他の指導員への配慮も忘れないように」
「ありがとうございます」
野村は深く頭を下げた。
部長室を出た後、野村は春の空を見上げた。若さゆえの無鉄砲さかもしれない。
でも、その若さだからこそできることがある。そう信じて、これからも自分の道を歩んでいこうと決意を新たにした。
3号車に戻ると、菜緒子が待っていた。「先生、どうでしたか?」
「大丈夫」野村は笑顔で答えた。「これからも、楽しく安全に、一緒に頑張っていきましょう」
教習車のエンジンが、静かに春の午後に響いた。
#不合格
春の午後、副部長の高橋に呼び出されるのを待っていた野村が沈んだ表情で立っていた。
副部長室に入る。窓からは春の陽が差し込んでいたが、室内の空気は冷たかった。
「今日の仮免検定の件だが」副部長は厳しい表情で切り出した。
「坂道発進で逆走するなんて、前代未聞だぞ。野村君の指導に問題があったんじゃないのか」
野村は一瞬、言葉に詰まった。しかし、すぐに冷静な声で答える。
「いいえ、副部長。菜緒子さんは教習中、一度も坂道発進で失敗したことはありません。むしろ、得意な課題の一つでした」
「それなのに、なぜこんな結果になった?」
高橋の声には苛立ちが混ざっていた。
「それは...」野村は一度深く息を吐いて続けた。
「検定時の異常な緊張感が原因だと考えています」
「緊張は当たり前だろう。免許を取るんだぞ」
「しかし副部長」野村の声が強くなる。
「今日の検定員の態度は、必要以上に威圧的でした。一切の言葉を発せず、ただ冷たい視線を投げかけるだけ。それは教習生の実力を正当に測るための環境とは言えないと思います」
彼の言葉には、これまで聞いたことのない強い意志が感じられた。
「私は、教習生一人一人の成長を見てきました。菜緒子さんも、最初は緊張で固まっていた運転が、徐々に自然な動きになっていった。それは、安全な環境で練習を重ねてきた成果です」
「甘いな」高橋は椅子から立ち上がった。
「実際の道路では、もっと厳しい状況が待っているんだぞ。検定で緊張して失敗するようでは、免許を与えるわけにはいかない」
「でも副部長」野村は一歩も引かない。
「検定の目的は何でしょうか。技術を正確に測ることではないのですか?」
「もちろんだ」
「だとすれば、なぜわざと緊張感を煽るような環境を作る必要があるのでしょうか。菜緒子さんは、教習中に十分な技術を身につけていました。しかし今日は、検定員の威圧的な態度により、その実力を発揮できなかっただけです」
野村は続けた。
「私は、彼女の技術が未熟だったとは思っていません。ただ、検定員の方の沈黙が重くのしかかって...頭が真っ白になってしまったんです」
「普段の教習では、先生が適切なタイミングでアドバイスをくれる。それは単なる指示ではなく、私たち教習生の緊張をほぐし、集中力を高める効果もありました」
高橋は黙って聞いていた。その表情には、僅かな変化が見えた。
「確かに」副部長はゆっくりと椅子に座り直した。
「検定の在り方については、以前から議論があった。しかし、これは当教習所だけの問題ではない。全国の教習所が採用している方式だ」
「だからこそ」野村は真剣な眼差しで続けた。
「私たちから変えていくべきではないでしょうか。教習生の実力を正確に測れる、より適切な検定方法があるはずです」
「例えば、検定員の態度を少し和らげるだけでも違うと思います。必要以上の緊張を与えず、純粋に技術だけを見る。それが本来の検定の姿ではないでしょうか」
高橋は長い沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。
「野村君、君の考えはよくわかった。確かに、検定の方法には改善の余地があるかもしれない」
副部長室を出た後、廊下で野村は菜緒子と偶然に出会った。
「申し訳ありません。私の指導が足りなかったのかもしれません」
菜緒子は首を振った。
「違います。先生の指導は素晴らしかった。むしろ、私の心の弱さが...」
「いいえ」野村は優しく微笑んだ。
「人は誰でも緊張します。大切なのは、その緊張とどう向き合うか。次回までに、もっと実践的な練習を重ねましょう」
菜緒子は頷いた。野村の言葉には、いつもの温かさと共に、強い意志が感じられた。
その日から、野村の指導はさらに進化した。通常の教習に加えて、意図的に緊張感のある状況を作り出し、その中での運転練習を取り入れた。
しかし、それは決して威圧的なものではなく、段階的に緊張に慣れていくためのプログラムだった。
二週間後、菜緒子は再び仮免検定に挑んだ。
今回の検定員も無言を貫いていたが、彼女の心は以前ほど揺らがなかった。
緊張はあったものの、それを受け入れ、一つ一つの操作に集中することができた。
坂道発進の課題が来たとき、菜緒子は深く息を吸った。
ブレーキを踏み、サイドブレーキを引く。エンジンの音を聞きながら、クラッチをゆっくりと上げていく。
車が少し後ろに下がりかけた瞬間、アクセルを踏む。
そして、車はスムーズに前進を始めた。
検定が終わり、合格の判定を受けたとき、菜緒子の目に涙が浮かんだ。
それは単なる安堵の涙ではなく、自分の成長を実感した喜びの涙でもあった。
「おめでとう」野村は満面の笑みで彼女を迎えた。「最後まで落ち着いていましたね」
「はい。先生のおかげです」
「いいえ、これはあなたの努力の結果です」野村は真剣な表情で続けた。
「でも、この経験は私たちに大切なことを教えてくれました。検定は単なる試験ではない。それは、教習生が実力を発揮できる環境を整えることの重要性を示しているんです」
菜緒子は深く頷いた。確かに、過度の緊張は人の能力を奪う。
しかし、適切な指導と環境があれば、誰でも成長できる。
それは、運転技術に限らず、人生の多くの場面に当てはまる真理なのかもしれない。
春の陽が教習所の窓を照らす。
3号車は、また新しい教習生を待っていた。
野村は、この経験を活かして、より良い指導を目指していく決意を新たにした。
それは、一人の指導員として、そして一人の人間としての、大切な学びの始まりだった。
#エンディング
春の風が教習所の駐車場を吹き抜ける。
桜の花びらが舞い落ちる中、菜緒子は検定車の前に立っていた。
今日は卒業検定の日。ここでの学びが最後の試練を迎える。
「大丈夫ですよ。これまでの練習を思い出せば、きっと落ち着いて運転できます」
野村の言葉に、菜緒子は深く頷いた。彼の指導のもとで、運転に対する不安を乗り越えてきた。そして、今日がその集大成となる。
検定は厳格な空気の中で行われた。従来よりも検定の雰囲気は柔らかくなったものの、受験者の緊張は拭えない。菜緒子も例外ではなかった。
「深呼吸して、自分のリズムで」
心の中で野村の言葉を繰り返しながら、ハンドルを握る。
発進、速度調整、一時停止、交差点での安全確認。すべての動作を確実にこなしていく。そして最後の課題、坂道発進。
仮免検定の際に失敗した苦い思い出が脳裏をよぎる。
しかし、今の彼女は違った。クラッチを慎重に操作し、後退することなくスムーズに前進する。試験官の無言の頷きが見えた。
検定終了後、結果発表の時を迎えた。
「合格です。おめでとうございます」
試験官の言葉を聞いた瞬間、菜緒子の目に涙が浮かんだ。ここまでの道のりが走馬灯のように蘇る。
「おめでとう!」
野村が笑顔で手を差し出す。菜緒子はその手をしっかりと握り返した。
「先生のおかげです」
「いいえ、あなたの努力の成果ですよ」
***
当時の日本は『交通戦争』と呼ばれる時代があった。、1970年代は、交差点でひしめき合う車、急増する交通事故に悩まされる都市の風景が普通だった。
当時は、毎年1万人以上の人が交通事故で亡くなっていた。それで、国も真剣に取り締まりを強化した。
シートベルトの着用推奨や飲酒運転の厳罰化、交通安全教育の徹底。初心者教育の見直しも進められていた。
自動車教習所は初心者教育の中核的な施設として位置づけられていた。それは50年前の交通戦争の教訓が生んだ、新しい運転教育の形だった。
そして今、現代の道路はまるで別世界のように変わった。
***
野村は高齢者講習の受講生として、かつて勤務していた教習所を選んだ。
退職から数十年が経ち、教習所は、以前と変わらず、新たな生徒たちを迎えていた。
教習所の待合室で女性指導員が教習生と話していた。
「先生、自動運転車に乗る時代なのに、どうして今さら運転を学ぶんですか?」ある生徒が尋ねる。
「確かに、今は自動運転が普及し始めているわね。でも、自分で車を運転するということは、ただの移動手段じゃないの」
指導員は優しく微笑んだ。
「昔、車は単なる移動手段だったわけじゃない。車には、人の人生を乗せる重みがあるのよ。家族との思い出、大切な人との時間、人生の節目に関わる存在なの。だからこそ、安全運転は未来のどんな時代になっても大切なことなのよ」
教習生たちは真剣に耳を傾ける。
「それに、どんなに技術が進んでも、最終的に責任を持つのは人間なのよ。車が完全に人の命を守れる時代が来るまでは、自分自身が安全を確保できるようにしないとね」
窓の外では、最新の自動運転車が音もなく走っている。しかし、3号車は今も教習所の一角にあり、初心者たちを乗せながら時代の変化を見守っている。
すっかり、かつての教習とは異なる光景が広がっていた。
***
もうすっかりベテランの指導員となった、かつて若手の指導員と並び、3号車を見つめる。
「時代は変わりましたね」
「ええ。でも、大切なことは変わらない」
野村はゆっくりと頷いた。
「初心者教育は、時代とともに変化していくもの。でも、安全運転の本質はどんなに技術が発展しても変わらない。43年前も、今も、そして未来も」
3号車のボディをそっと撫でた。そこには、かつての自分と野村が過ごした時間が刻まれている。
「これからの運転は、自動運転が主流になるでしょう。でも、人がハンドルを握る限り、教習はなくならない。そして、この3号車も、きっとまだまだ活躍し続ける」
かつて若手の指導員がポツリと呟いた。
桜の花びらが風に舞い、教習所の駐車場を彩る。未来へと続く道の上で、3号車は今日も新しい教習生を待っていた。
それから菜緒子と野村は43年間、誕生日や還暦を祝うほど、長い付き合いをすることになった。
人間の縁とは不思議なものだ。たまたま出会った教習所の3号車が、二人の人生に深く刻まれる存在になるとは、その時は夢にも思わなかった。
だが、人との出会いは時に思いがけない形で人生を彩る。43年経った今、二人は共に歳を重ね、それぞれの人生の節目を祝い合う大切な友となっていた。