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第二十三話 伊東に行くなら、ふ・ふ・ふんっ 後編

「それじゃ、そろそろ行くか」

 お部屋の鍵を手にしてそう言うと、立ち上がったゴウさん。

「行くって、もう温泉へ行くの?」

「チェックインが集中する時間だからな」

「さっき、フロントにはあたしたちだけだったのに?」

「最終の特急で来た客や、早く着いて観光を終えた客が到着するころだから」

 気持ちが落ち着くまで、もう少しインターバルが欲しかったけれど。

 せっかくの温泉ならゆっくり入りたいもの、混むのはちょっとね。




 温泉へと向かっているゴウさんとあたしは、エレベーターを二階で降りて。

 大浴場へと続く渡り廊下を通り、館内を移動しているんだけれど。

 通りがかりに、吹き抜けから一階のロビーを見下ろしてみると。

 ゴウさんが言ったとおり、チェックインをしている人がいっぱい。

 これだけの人が殺到するなら、混む前に温泉に行くのは正解ね。


 なんて考えられたのは、少し後になって気持ちに余裕ができてからのこと。

 このときのあたしは、さきほどの余韻からまだふらふらとしていたの。

 無理もないわよね、自分からプロポーズを要請したのに。

 ゴウさんにはまったくその気がなく、豪快に空振りしたんだもの。

 消えてなくなることもできず、都合のいい穴にも入れなかったあたしは。

 ゴウさんの浴衣の袖にしがみついたまま、ついていくのが精一杯だったの。


 しっかりしなさい、あたしっ!

 旅行は始まったばかりなのよ、ショックを受けたままではいられないわ。

 夜にかけてはイベントが目白押しなんだから、気持ちを切り替えなくちゃ。


 冷静に、今の状況を再確認してみましょう。

 二人きりの旅行中で、おそろいの浴衣を着てお風呂に向かっているのよね。

 バスタオルの中には、今夜のために買った勝負下着が忍ばせてあるんだし。

 そんなことを考えていたら、思わず。

「うふふ」

 にやつくあたしを見て、ゴウさんはあきれたように。

「いつものおまえに戻っているってことは、もう大丈夫だな」


 CMで見たとおり、お風呂の壁面は大きな水槽になっていて。

 水槽を泳いでいる魚の絵と説明が、何枚も貼ってあるわ。

 普段なら、ゆっくりと温泉を楽しみたいけれど。

 ゴウさんを待たせるわけにはいかないし。

 それよりも、今夜に備えていろいろと入念に体のお手入れを……。


 長風呂のあたしにしては、早めにお風呂を出ると。

 目の前の喫茶コーナーで、生ビールを飲んでいるゴウさん。

「ちょっとちょうだい」

「おまえも頼むか?」

「ううん、ひと口だけでいいの」

 とっても冷えたビールのひと口は、湯上りの火照った体に染みるわね。


 お夕食まではまだ間があるから、温泉の階下にあるお土産物センターへ。

「宿泊客だけじゃなく、外部の人も買いにくるのね」

「まんじゅうや菓子だけじゃなく、干物や瓶詰めも売っているからな」

 水槽には、生きた伊勢エビやサザエにアワビまでいるわ。

「ここで買えるのに、どうしてさっきの干物屋さんで買ったの?」

「種類もあって手軽に買えるが、やっぱり干物は専門店で買いたいし」

「ふうん」

「でも、白造りの塩辛やウニイカはここで買うんだ」

「どうして?」

「うまいからだよ」

「泊まったことがないのに、食べたことはあるの?」

「前に伊東に来たときに寄ったんだ、このお土産センターは有名だから」




 お夕食は、シアターで楽しいショーを見ながら。

 海の幸を中心としたお料理が、ずらりと並んでいるけれど。

 好き嫌いが多いゴウさんにとっては、ずらりの意味はないんでしょうね。

 まったく手を付けていないお料理も多いみたいだけれど、足りるのかしら。

「さっき部屋で見た夕焼け、海がキラキラしていて奇麗だったな」

「うん……」

 そんなことを言われても、あまり覚えていないわ。

 プロポーズされるのを、今か今かと待っていてドキドキしていたんだもの。

 あのときのあたしは、緊張やら何やらで極限状態だったのよ。

「一階のロビーの大きな窓から見える朝日は、もっと奇麗だってさ」

「ふうん、朝日ね」

「明日は早起きして、一緒に朝日を見に行こうか」

 二人で朝日を見るよりも、もっと大事なことがあるでしょ。

 夜にいろいろあって、寝坊する方がよっぽどうれしいと思いませんかっ!


 食後に、ロビーにある売店に寄ったゴウさん。

 夜のおつまみにするんだと、カニせんべいを買い足している。

 一緒に買った缶ビールは四本だから、そこまで飲むつもりじゃないみたい。


 お部屋に戻るエレベーターの中で、ゴウさんが唐突に。

「ホテルで見るからかな……」

「何が?」

「正月の着物も良かったけれど、おまえの浴衣姿ってかわいいなと思って」

 浴衣姿を気に入ってもらえたのは、うれしいな。

 夏になれば、花火大会やお祭りでお気に入りの浴衣を着てあげられるもの。

「洗い髪も、旅先で見ると風情があっていいものだな」

 そんなことまで言われたら。

 何かと不完全燃焼だったのに、いつの間にか立ち直っちゃった。

 あたしって、単純なのかしら?




 お部屋に戻りふすまを開けると、明かりは床の間のライトだけ。

 あたしたちがいない間に、仲居さんがお布団を敷いてくれたみたい。

 薄明りにぼんやりと照らされて、ほんの少しだけ離して敷いてあるお布団。

 何とも艶っぽくて、ムードも満点ね。


「まだ寝るには早いから、五階にある展望風呂へ行ってみるか?」

 確かに、まだ八時前だもの。

 本日のメインイベント、朝寝坊の原因となりうる行為にはちょっと早いか。

「さっき行った海底温泉以外にも、まだお風呂があるの?」

「海を眺めながら入れる展望風呂があるんだ、相模湾が一望できるらしいぞ」


 展望風呂から上がると、外の休憩処で休んでいるゴウさんの元へ。

「せっかく展望をうたっているのに、暗すぎて外は何も見えなかったわ」

「確かに、この時間だと展望風呂の意味はなかったな」

「きっと、日の出や日の入りを見ながら入れば最高なんでしょうね」


 少し休んだら汗もひいたので、休憩処を後にしてエレベーターに向かうと。

「へえ、こんなところにコインランドリーがあるのね」

 洗濯機と乾燥機が何台か、壁際に並んでいるわ。

「子供がいる家族連れが何泊もするなら、洗濯ができた方がいいからな」

「そうか、旅行中にお洗濯ができれば荷物が少くてすむものね」




 白造りの塩辛とカニせんべいでの、お風呂上がりの一杯も終わり。

 座卓と座椅子を片付けたゴウさんが、照明を落とすと。

 薄暗い部屋とお布団は、さっきよりずっと艶っぽくなっている感じがする。

 雰囲気はばっちり、いよいよそのときが来たのね。

 などと思いながら、ふと見ると。

 さっきまで隙間があったお布団が、ぴったりくっついているじゃないっ!

 いつの間にか、ゴウさんがお布団をくっ付けたんだわ。

 隙間がなくなったことで、艶っぽさが倍増している気がするし。

 やっぱり、夜にいろいろあって朝寝坊をしちゃうコースですかっ!

 静まっていたドキドキが、再び最高潮に。

 止まれドキドキ、静まれあたしっ!


 歯磨きを終え、先にお布団に入っているゴウさんに聞いてみる。

「どっ、どうしてお布団をくっつけたの?」

 この状況下においては、極めて正しく好ましい行いだと思いますが。

 本当に、明日の朝は起きられなくなっちゃうコースなら。

 あたしだってもう一度、気合をしっかりと入れ直す所存ですから。


 戦闘モードに入らんとするあたしに対して、冷や水を浴びせるかのように。

「寝相が悪いおまえのために、わざわざひとつにしたんだろ」

「へっ?」

「布団からはみ出して風邪をぶり返したんじゃ、台無しだからな」

 そんな理由だなんて、つまらないの。

 これだったら、いつもどおりに一緒に寝るだけじゃない。

「どうした、がっかりしたような顔をして」

「別に、何でもないわ」

 どうしたもこうしたもないわよ、これって人生で最大級のがっかりだもの。


 歯磨きを済ませてお布団に入ったあたしに、ゴウさんたらひどいのよ。

 緊張感から解放され、油断しているあたしを優しく抱きしめたと思ったら。

 いつもよりずっと長くて、ずっと熱いキスをしてくるんだもの。

 ああ言っていたのに、やっぱり……。

 慌てて、気持ちを戦闘モードへ切り替える。

 今のあたしは、それなりの行為に対しては極めて機能的な浴衣姿です。

 胸元からも裾からも、手を滑り込ませ放題ですので。

 さあ、いつでもどうぞっ!




 朝ご飯を食べながら、ちらりと文句を。

「あたしをお部屋に残して、一人でロビーへ朝日を見に行っちゃうなんて」

「俺は起こしたのに、おまえが起きなかったんだろ」

 起きられなかったあたしは、お部屋に一人で残された結果。

 一緒に見に行く予定だった、ロビーからの朝日を見逃しちゃったの。

 放置された理由、ですか?

 恥ずかしながら、がっつりと寝坊をして起こされても起きなかったから。

 寝坊ってことは、昨夜はあの流れでついにゴウさんと?


 ご期待にそえず、まことに申し訳ありませんが。

 あれ以上ないシチュエーションだったのに、キス以上のことは何もなくて。

 そう、奇麗さっぱり何もなかったんです。

 にもかかわらず、あたしは寝坊をしたと?

 おとといの夜から、精神的にいろいろありましたから。

 それは見事な、ぐっすりを通り越した爆睡っぷりだったそうで。

 十分に眠れたおかげで、今朝の目覚めは最高にすっきりしたものでした。

 期待していたのとは、まったく別の理由なのが悔しいけれど。




 気を取り直して、今日の予定を聞くと。

「十時まで部屋でごろごろして、チェックアウトを」

「その後は、どこに行くの?」

 フロントには、いろんな施設の割引パンフレットが置いてあったから。

 観光したい候補は、ピックアップ済なの。

「駅前で土産を買った後に、うまいとんかつ屋があるから昼飯を」

「お土産なら、昨日買ったじゃない」

「オバちゃんや自分たちの土産だろ、会社のみんなやおまえの同僚の分を」

「どうして、ハナマルへのお土産なんか」

「同僚は南野だけじゃないんだぞ、旅行だと伝えてあるんだから土産くらい」

 旅行だと言ってあるんだ。

 ちゃんとハナマルには伝えてくれたのかしら、あたしと二人での旅行だと。

「ご飯の後は?」

「帰りは二時過ぎの新幹線だから、昼飯を食べたら熱海へ」

 行きは、東京駅から直通の特急だったけれど。

 帰りは、熱海まで出てから新幹線に乗り換えるの。

「せっかく半日も遊べるのに、どこにも寄らないなんて」

「何が不満なんだ」

「ここは伊豆なのよ、観光名所ならいくらでもあるでしょ」

「観光旅行じゃなくて、風邪で落ちた体力を回復させるための温泉旅行だろ」

「パンフレットにあった、温泉に入るカピバラを見に行きたかったのに」

「いいじゃないか、誰にも邪魔されずに二人っきりで過ごせたんだから」

 それもそうね。

 プロポーズもされなかったし、キスより先への進展もなかったけれど。

 初めて二人でお泊まり旅行ができたんだもの、ここは良しとしますか。

「でも、せめてふた駅手前のいちご大福で有名なお店に寄りたいな……」

「しょうがないな、新幹線は予約を変更して一本遅らせるか」


 熱海へ向かう電車を途中下車して寄ったお店で、いちご大福を食べながら。

「それで、今回の旅行はどうだった?」

「良かったよ、オバちゃんに感謝しないと」

 ふうん、意外と好反応ね。

「ずっと泊まってみたかったホテルだし、あれなら自腹でも泊まりたいかな」

「ホテルの感想なんて聞いていないわ、あたしとの旅行について聞いたのよ」

「そうだな……、おまえの浴衣姿が見られたことが一番の思い出かな」

 えっ、そうなの?

「正月の晴れ着も良かったが、昨日の浴衣姿も俺は好きだな」

 気を良くしているあたしに、さらなるご褒美が。

「観光をしたいなら、また連れてきてやるからそのときにすればいいだろ」

 おおっ、次もあるんですかっ!

「次っていつ、何泊で?」

「伊豆ならやっぱり夏だろ、できれば三泊四日がいいかな」

「えっ、三泊も」

「二泊三日だと、着いた次の日には明日は帰るのかって思うから嫌なんだ」

 次があるのなら、今回はこのくらいで勘弁してあげるわ。

 その代わり、必ず連れてきてよねっ!




Copyright 2024 後落 超


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