第二十二話 伊東に行くなら、ふ・ふ・ふんっ 前編
受け取ったばかりの段ボールの箱を抱えながら、リビングへ。
「誰からかと思ったら、先生からだったわ」
「オバちゃんから?」
夕食後に届いた荷物の送り主は、昨日から講演に行っている先生だったの。
「わざわざ宅配便で、何を送ってきたのかしらね」
「冷蔵の宅配便だから、なまものだろ」
段ボールの箱を開けてみると、一番上には封筒があって。
「手紙まで添えてあるわ、電話で済ませればいいのに」
そう言いながら、封筒の中の手紙を読んでみると。
「講演会の主催者からもらった、うなぎですって」
「風邪が治ったばかりだから、体力が回復するように送ってよこしたんだろ」
「今回の講演先は伊東でしょ、うなぎの名産地が近いの?」
昔から地理が苦手だったあたしには、この手の問題はさっぱりです。
「うなぎが有名なのは三島だが、三島だってうなぎの産地ってわけじゃ」
確かに、うなぎの入った袋には三島って書いてあるわ。
「じゃあ、どうして有名なの?」
「富士山の伏流水で打たせるから、生臭さや泥臭さが消えるんだ」
「おいしいんでしょうね、明日の夜はうなぎにしましょ」
手紙の二枚目を読み進めると、さらに喜ばしいことが書かれていたの。
「講演先のホテルの宿泊券をもらったから、二人で泊まりに行きなさいって」
二人っきりでのお泊まり旅行のプレゼントなんて。
季節外れのサンタクロースによる大盤振る舞いですか、先生っ!
「風邪で落ちている体力を、うなぎと温泉で回復させるつもりなのよ」
「それにしても二人で旅行って、オバちゃんは何を考えているんだろうな」
決まっているじゃない、先生にはキスをしたことを報告済だから。
この旅行で、次のステージに進みなさいってことでしょ。
それより問題なのは、二人っきりのお泊まり旅行ってことよ。
ゴウさんが、すんなり同意するとは思えないし。
さて、どうしたものやら……。
「このホテルなら、テレビでCMが流れているのを見たことがあるわ」
「そりゃ、CMで有名なホテルだからな」
「お風呂の壁がガラス張りになっていて、水族館みたいに魚が泳いでいたわ」
泊まってみたいオーラを、盛大に出したところで。
「ゴウさんは、たまった振替休日を消化するように言われているのよね」
「それがどうした」
どうしたはないでしょ。
平日に休めるなら、旅行はいつにしようかとそれとなく聞いているのに。
「振替休日がたくさんあるなら、週末よりも平日の方が休みやすいんでしょ」
「まあ、システムテストや出張が入る週末よりは休みやすいかな」
「あたしだって、もうすぐ春休みだから平日でも休めるし」
「日にちだったらおまえの都合で決めて、予約をして構わないよ」
「えっ、いいの?」
予想を大幅に上回る回答に、思わず聞いちゃった。
「何を驚いているんだ、一人でやたらと気合を入れていたくせに」
「だって、二人っきりでのお泊まり旅行なのよ」
ちょっと、ここで念を押してどうするの。
行くって言ってくれているんだから、このまま穏便に……。
「あのホテルは、小さいころから泊まってみたかったんだ」
「小さいころから?」
「伊豆高原にある共済組合の提携ホテルに、毎年のように行っていたんだが」
共済組合ってことは、教師だったお母さまの関係ね。
「毎年、電車で通るたびに眺めていたからな」
ゴウさんの気が変わらないうちに、ここは一気に……。
「じゃあ、ホテルと電車の予約はあたしがしておくわ」
旅行のせいで、存在が薄れ気味になってしまったうなぎですが。
ゴウさんはかば焼きで、あたしはうなぎご飯にしていただきました。
三尾もあったので、二人なら十分に堪能できたの。
「おいしかったわね」
「三島のうなぎが名物なのにも、うなずけるな」
「どうして、さんしょがあんなにいっぱい付いていたのかしら?」
たれはきっちり三尾分だったのに、さんしょの袋は六つも。
「俺が、うなぎにはさんしょをたくさん使うのを知っているからだろ」
そういえば、一人で四袋も使っていたわ。
こんなことにまで気を使わなきゃならないなんて、先生も大変ね。
ベッドに潜り込んでから、考えていたの。
あからさまにハードルが高そうな、二人っきりでのお泊まり旅行なのに。
拍子抜けするぐらい、あっさりと快諾するんだもの。
あのホテルに泊まってみたかったって理由以外に、何か思惑があるのかな?
キスだって、あの日からは毎日のようにしているし。
慣らし運転は終わったから、次のステージへ進むつもりをしているのでは?
だって、二人で旅行をするってそういうことよね。
もしかしたら……、初エッチを?
それを飛び越して、ついにプロポーズをしてくれる気になったとか?
きっと、そうに違いないわ。
旅行に持っていくものを用意しながら、あたしの期待度はぐんぐん上昇中。
「ゴウさんはブーツでしょ、あたしもブーツにしようかな?」
「旅行なんだ、履きなれて動きやすい靴がいいんじゃないか」
「でも、ブーツにすればゴウさんとおそろいだし」
「長いこと電車に乗ったり、向こうで歩いたりするんだぞ」
「パジャマはどれがいいかしら」
「まったく、人の言うことを聞いちゃいないな」
ムードを演出する、もっとも重要なアイテムですもの。
久々に、例の悩殺ネグリジェを再登板させちゃおうかしら。
三月の終わりじゃ、まだ寒いかな?
「ホテルなんだから、浴衣ぐらい置いてあるだろ」
浴衣か、確かに浴衣の方があのときには便利かもね。
上から下から、手を入れられ放題ですもの。
下着はどうしようかな。
やっぱりいくつかの勝負下着を持っていって、その場の雰囲気で……。
そんなうきうきとした気分に酔っていられる時間が、長く続くはずもなく。
出発の前夜にはしっかりと寝られず、目覚めも今ひとつだったの。
おうちを出る段階で、うきうき気分は悲しくも緊張感に変わっているし。
「鍵は閉めたか?」
「閉めた……、かな」
ほんの十秒前のことなのに、自分が鍵を閉めたかどうかさえ記憶にない。
「うかれすぎだろ、しっかりしてくれよ」
出発時点で、このありさまですから。
東京駅に着くころには、心臓がドキドキしてきちゃって。
「ここで待っていろ、つまみと飲み物を買ってくるから」
売店に入っていくゴウさんの、革ジャンの袖をぎゅっと握ったままだから。
「どうした?」
「あの……、置いていかないで」
絞り出すような声で、お店に入ろうとするゴウさんに訴える。
「一人で待っていられないって、子供かよ」
電車の中では、シューマイとポテトサラダをおつまみにビールを。
なのに、張りつめた緊張感で味が分からなくなっているあたし。
もうそろそろ伊東に着くってころ、ぼんやりと車窓から海を眺めていると。
「あれが今日のホテルだよ、CMで見覚えがあるだろ」
海辺に建つ白くて大きいホテルを指差したゴウさんは、さらに。
「チェックインは二時だから、食事をしていくか」
二時ってことは、あと三時間もしたら。
ゴウさんとあたしは、あのホテルのお部屋に二人っきりで……。
なんて考えたら。
やっと落ち着いてきたと思っていたドキドキが、またもや。
十一時すぎに伊東駅に着いたら、駅前からタクシーに乗り込む。
「どこに行くの?」
「海沿いにある、民宿もやっている磯料理の店だ」
「磯料理?」
「家族旅行の帰りに伊東へ寄ったときに、気に入った店なんだ」
民宿のほかにも、夏は目の前の浜で海の家も営業しているんだって。
お座敷に上がり、海が見える窓辺の特等席に陣取ってから。
アジのたたきとキンメダイの煮付けに、活イカの姿造りを頼むと。
冷えたビールで、乾杯。
「伊勢エビのお刺身が名物なのに、頼まないのね」
「エビとカニは、生では食べないんだよ」
お正月に食べていたのは、ゆでた毛ガニと焼いたタラバガニか。
本当に面倒な好き嫌いだこと……。
窓から浜辺を見ながら、新鮮なお魚に冷えたビール。
しかも、向かいにはゴウさんがいるんだもの。
とってもおいしい、はずなのよね。
でも、今のあたしは何を食べても緊張とドキドキで味が分からない。
お店を出て信号を渡ると、ゴウさんは干物屋さんに入っていく。
「伊東で干物を買うのは、ここって決めているんだ」
「へえ」
「オバちゃんへの土産とおまえの朝飯用に、どれを買っていくか選んでいろ」
あたしにお土産を選ばせている間に。
お店の冷蔵ケースから取り出した、カップのお酒を買うと。
試食の干物をおつまみに、飲み始めちゃった。
日時を指定した冷蔵の宅配便で、干物を送る手配をするあたしに対して。
ゴウさんは、二本目のカップのお酒を。
余裕で旅行を満喫していますって感じで、憎たらしいったらないわね。
駅からは、三十分おきにホテルの送迎バスが出ているそうで。
のんびりと散策をしながら、駅まで戻ったあたしたちは。
ちょうど出発しようとしていたバスに乗ると、十分もせずにホテルに到着。
フロントで、宿帳に記入しているゴウさん。
いつものあたしなら、横から手元をのぞきこんでいるところ。
気になるものね、あたしの名前や続柄の欄に何て書くのかなって。
篠原敦子に妻、なんて書いてくれたら最高なんだけれど。
まあ、パパの会社のときみたいに外村敦子と婚約者でもいいか。
なんて、昨日までは楽しみにしていたのよ。
でも、一世一代の大イベントが控えている今のあたしにとっては。
ゴウさんが何て書いたのかなんて、気にしている余裕はありません。
ドアを開けお部屋に入った瞬間から、あたしを襲うのは無慈悲なドキドキ。
しかも、これまでとは比べものにならないほどのリズムと強さなんだもの。
ゴウさんにばれないようにドキドキを鎮めようと、お茶を入れていたのに。
窓際でタバコを吸っているゴウさんに呼ばれ、隣に座らされてからは。
ドキドキが止まらないどころか、一気に最高潮に達しちゃったみたい。
油断していたら、口から心臓が飛び出ちゃいそうなんだもの。
もうだめ、これが限界です。
ちょっと待って、ゴウさんが何か言っているわ。
まさか、お部屋に入ってから十分もたっていないしまだ日も高いのに。
今から、プロポーズをするつもりですか?
何はともあれ、落ち着いて対応をするのよ。
ちゃんとお返事をしなくちゃ、こんなことで後悔はしたくないものね。
「おい、聞いているのか?」
「えっ?」
「どうしてそんなに驚くんだ、CMで見た大浴場に行こうと言っただけで」
何なのよ、大浴場って。
今すぐここで、プロポーズをしてくれるんじゃないんですか?
こんな状況での高度なじらしプレーなんて、勘弁してください。
もうこれ以上、こんなドキドキの連続には耐えられそうもありませんから。
こうなったら、あたしから要請するしかないわ。
「プロポーズをするなら早くしてよ、緊張し過ぎておかしくなりそうなのよ」
ああ、ついに言っちゃった。
十七年間も夢見ていたんだから、お返事は笑顔でしなくちゃね。
今のあたしに何よりも必要なのは笑顔よ、笑顔。
かなり引きつっている笑顔を、どうにかうかべることに成功したあたし。
そんなあたしを、あきれたような顔をして見ているゴウさんが。
「プロポーズって、いきなり何を言っているんだ?」
「えっ?」
「顔は赤いしやけに上の空だし、朝からずっとおかしいぞ」
あたしは土下座でもしそうな心境で、プロポーズを要請していたんですよ。
なのに、本人にはそんな予定がまったくなかったなんて。
もしかしたら、あたしが勝手に過度な期待をしていただけなのでは?
恥ずかしくて、消えてなくなりたいっ!
消えてなくなるなんて、物理的に無理なことだと承知しておりますが。
せめて、あたしが入れる程度の穴を開けていただけませんでしょうか?
このお部屋の片隅でかまいませんから。
消えてなくなることが不可能なら、穴があったらぜひとも入りたいので。
そんな都合の良い穴が、絶好のタイミングでそうそう開くはずもなく。
ゴウさんに促され浴衣に着替えたあたしが、タオルの間に忍ばせたのは。
今となっては効果を発揮する場があるか微妙になった、勝負下着でした。
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