第二十一話 幸せを運ぶ風邪になりたい
六時間目が終わり職員室に戻るなり、同僚がにやにやしながら。
「お安くないわね、外村先生も」
そして、にやにやの原因は。
「若い男性から電話よ、転送するから」
それを聞いていた周りの先生たちも、あたしを見てにやにや。
学校に電話をかけてくる男の人って、誰かしら。
ゴウさんが、職場に電話をしてくるとは思えないし。
若いって言われたから、パパからの国際電話でもないわよね。
二人以外には、心当たりがないけれど……。
転送された電話は、なんとゴウさんから。
「どうしたの、男性からの電話だからひやかされちゃった」
「悪いな、今夜は実家に泊まるように言っておこうと思って」
「実家へ?」
「風邪をひいたみたいなんだ、これから早退するから」
そう言われてみれば、電話の向こうからの声もつらそうね。
「うつしたらまずいだろ、だから今夜は実家へ」
何を、とんちんかんなことを言っているのかしら。
風邪で弱っているゴウさんを楽しむ、もとい。
看病してあげられる、夢のようなシチュエーションだというのに。
「ちゃんと看病してあげるから、どこにも寄らずにおうちに帰ってきてね」
学校から戻り、リビングでゴウさんが帰ってくるのを待っていると。
玄関から入ってきたゴウさんを見て、びっくり!
顔は赤いし、歩くのは壁伝いにすごくゆっくりなんだもの。
「そんな状態で、よく駅から歩いて帰ってこられたわね」
「歩くのもおぼつかないんだぞ、会社からタクシーに乗ってきたよ」
朝はぴんぴんしていたのに、たったの半日でこんなになるなんて。
「お医者さんに行くでしょ?」
「医者か……、ここからだと一番近いのはじいさん先生の診療所だろ」
「ええ」
「やぶへびの元凶だぞ、あそこは病気のときに行くところじゃないよ」
確かに、本当の病気のときにあの先生のところに行くのは遠慮したいわね。
「第一、医者に行くんだったら会社の近くの病院に行っているよ」
それもそうね。
「症状はどうなの、熱は?」
「会社で計ったら、三十九度だった」
「三十九度!」
「そんな顔をしなくても、俺の風邪については心配をする必要がないんだよ」
「三十九度もあったら、誰だって心配するわよ」
「いきなり四十度近くまで上がるけれど、次の日の朝には一気に下がるから」
「やめてよ、簡単に四十度なんて言わないで」
成人男性の高熱って、赤ちゃんができなくなる可能性があるんでしょ。
これからあなたと結婚しようというあたしにとっては、大問題ですよ。
「お薬と体温計、どこにあるの?」
「体温計なら、そこの引き出しに入っているよ」
例のビターチョコと同じ引き出しに体温計が入れてあるのって、どうなの?
「お薬はないわね、下に先生の薬箱があるかしら?」
「特効薬を買ってきたよ、それがあれば明日には治るから」
先生は今朝から講演で、あさっての夜までいないの。
二日の間、この家にはあたしと動けないゴウさんの二人っきり。
思う存分、弱っているゴウさんを看病してあげられるんだもの。
想像しただけで興奮して、あたしまで体が震えちゃう。
パジャマに着替えているゴウさんを、かいがいしく手伝っていると。
新婚さんみたいで、早くもプチ天国モードに。
「うつしたらまずいから、おまえは自分の部屋で寝るんだぞ」
「昨日の夜も一緒に寝ているのよ、うつるならとっくにうつっているでしょ」
「ふっ、おまえでもたまにはまともなことを言うんだな」
いつもと違って、力なく笑っているのがかわいいわね。
「その袋を取ってくれないか」
手渡した、帰りに買ってきたコンビニエンスストアの袋を開けると。
お気に入りのジュースが、三本入っているのはともかくとして。
ひと口大で袋入りのフルーツアイスが、五袋も入っているじゃない。
「何なのよこのアイスは、ひと袋に七個入りだから全部で三十五個も」
「俺にとっては、これが特効薬なんだ」
「さっき言っていた特効薬って、アイスなの?」
「なめていると喉が楽になるし体温も下がるから、薬よりも効くんだよ」
そう言いながら、ひとつ目の袋を開けるとアイスを口に。
「残りのアイスは、部屋の冷蔵庫に入れておいてくれ」
「夕ご飯、何がいい?」
そう聞くのも新婚さんみたいで、二度目のプチ天国モード。
なのに、つれないゴウさんは。
「偉そうに聞いているが、何かを頼んでもおまえは料理ができないだろ」
うう……。
やっぱり失敗しちゃったな、料理ができないなんて。
「でも、何か食べておかないと」
「俺はこれだけでいいから、放っておいてくれ」
そう言ってジュースを飲み二つ目のアイスを口に入れると、ベッドに。
しばらく寝ていたゴウさんが、目を覚ましたと思ったら。
「俺のことは気にしないでいいから、おまえも寝ろよ」
「こんな時間に寝られないわよ、まだ十時前だもの」
ゴウさんこそ、気にしなくてもよろしくてよ。
元気のない寝顔を見ながら、三度目のプチ天国モードだったんだから。
ゆっくりと、起き上がろうとしているゴウさん。
冷蔵庫まで、アイスを取りに行くつもりなのかしら。
「言ってくれれば、あたしが取ってあげるわよ」
冷蔵庫から取り出したアイスを渡したら、作戦の開始ね。
「そのアイスを食べ終わったら、着替えましょ」
「どうして?」
「寝汗がすごいから着替えなくちゃだめよ、ついでに体を拭いてあげるわ」
「いいよ、面倒くさい」
「汗をかいているんだから、ちゃんと拭かないと」
そう言って、有無を言わさずにパジャマのボタンを外し始める。
「いいって言っているだろ、拭くなら自分で拭けるから」
「病人なんだから、おとなしく人の言うことを聞きなさい」
無理やりにパジャマを脱がせて、乾いたタオルで汗を拭きながら。
「あっ、ごめんなさい」
ミスをしたふりをしていろいろと、ね。
「やけにうれしそうに見えるけれど、わざとやっているんじゃないか」
あいかわらず、鋭いわね。
いいもん、あなたが眠ればふたつ目の作戦で本格的な天国モードだから。
耳を澄まして、ゴウさんの寝息を確認。
大丈夫、ぐっすり寝ているみたいだから作戦開始よ。
顔を近づけて、さあ!
「何をしようとしているんだ、こっちは具合が悪くて寝ているのに」
あと少しなのに、ゴウさんが目を開けちゃった。
「ええっ、どうして気づいちゃったのよ」
「目が覚めたんだよ、おまえの大きな鼻息で」
何たる不覚。
せっかくの天国モードを目前にして、興奮し過ぎちゃうなんて。
翌朝になると。
ゴウさんが言っていたとおり、熱は平熱近くまで下がっていたの。
赤ちゃんができなくなるという、最悪のケースは回避できたことに。
何はともあれ、ほっとしたわ。
などと、ひと安心していたら。
これもゴウさんが言っていたとおり、あたしは見事に風邪をひいていたの。
ベッドの中で、二つ目のアイスをなめているあたしが。
期待に満ちた顔をしているのには、ちゃんとした理由があるの。
もちろん、昨夜とは役割が交代した逆天国モードを期待しているからよ。
風邪だっていうのにほっこり幸せっ、コホコホ……。
「熱、何度だった?」
「ちょっと前に測ったら三十七度ちょっとだったわ、微熱ってところね」
「風邪をうつされたのに、やけにうれしそうだな」
「そりゃ、早く寝汗をかかないかなと思って」
「何を期待しているんだ、体は自分で拭けよ」
「ずるいわ、あたしは拭いてあげたのに」
「そもそも、三十七度ちょっとなら寝汗はかかないだろ」
自分でもうすうす気づいていたけれど、がっかりだわ。
「一日ゆっくり寝ていれば、すぐに治るさ」
「けち」
「子供みたいなことを言っていないで、早く着替えて洗濯物をよこせ」
「お洗濯を始めたら、その後は遊んでくれるの?」
「遊べるかよ、おまえは風邪だし俺は仕事をするんだから」
洗濯機を回して帰ってきたから、ちょっと愚痴っちゃお。
「新婚さんはいいな、いつもこうしていられるんだもの」
「どんな不健全なイメージを持っているんだよ、新婚さんに対しておまえは」
あたしを見もしないでそう言うと、本当にお仕事を始めちゃった。
「せっかく二人っきりでいるのに、ささやかなおねだりをするのは不健全?」
「風邪をひいているんだから、不健全だろ」
「不健康、では?」
「どうでもいいから、仕事のじゃまにならないように静かに寝ていろ」
少しどころか、ぐっすり寝ちゃったみたいね。
熱がそれほど上がらなかったのは、本当にアイスが効いたのかな。
七つ目を食べるころには、すっかり元気になっちゃった。
ちえっ。
「見せてみろ」
あたしから体温計を取り上げたゴウさんは。
「熱も下がったな、おとなしくしていれば明日は学校に行けるだろ」
本気で、ちえっ。
「そういえば、久しぶりに寝言を言っていたぞ」
「何て?」
「前と一緒だ、ごめんなさいゴウさんって」
熱のせいで久しぶりの寝言か、危ない危ない……。
「うなされていたんでしょ、いつもあなたに怒られているから」
「俺に謝ることなら、山ほどあるからな」
ちょっと、簡単に納得しないで。
「家には何もないから食材を買ってくるが、食べたいものはあるか?」
「そうね……、うなぎが食べたいな」
「風邪で胃腸が弱っているから、脂っこいものや消化に悪いものはだめだ」
「食材を買いにいくぐらいなら、とん起に行きましょ」
「おまえは熱が下がったばかりなんだぞ、外出するなんて論外だ」
買ってきた材料でゴウさんが作ってくれたのは、タラちり。
これはこれで、おいしかったけれど。
「もう少ししっかりしたものが食べたかったな、せめておでんとか」
「がまんしておけ、これから雑炊を作ってやるから」
「タラちりの後に雑炊なんて、まるで病人食ね」
「何を言っているんだ、二人とも立派な病人だったんだぞ」
早めにベッドへ入り、ゴウさんに身を寄せながら。
「ねえ、明日のホワイトデーには何をくれるの?」
「決めてはいるが、買ってはいないよ」
「どうして、もう明日なのに」
「昨日買う予定だったのに、おまえがまっすぐ帰れと言ったから」
あたしが言わなくても、あの状態じゃ買い物なんてできなかったでしょ。
「まだ買っていないなら、朝には風邪が全快するおまじないをちょうだい」
「何だその、まじないってのは」
「だから、その……」
あたしはキスって言おうとしたのよ、だめでもともとってつもりでね。
なのに、ゴウさんったら急にあたしの肩を抱いて。
「どっ、どうしたの?」
「自分でちょうだいって言ったんだろ、目ぐらい閉じろよ」
あわてて目を閉じたあたしに。
「えっ、ん……」
ち、ちょっとお。
もしかして今、あたしってキスされちゃっているんですか?
いいえ、これは間違いなくキスされているでしょ。
「ふう……」
びっくりを通り越しているあたしが、まん丸な目をしたままでいると。
「何だよ、あんまりうれしそうじゃないな」
「あのねえ、あたしにとっては大切なファーストキスなのよ」
「なのに、うれしくないと?」
「十七年間も思い続けていた、初恋の彼とのファーストキスなんだってば」
「だったら、もっと喜んでも」
うれしさの上限を、はるかに突破していて。
とても現実とは思えない状況に、対応できていないだけです。
「うれし過ぎて、感動する以上にぼうぜんとしているのよ」
もしもおかわりをいただけるなら、次こそは堪能させてもらいます。
キスの先はなかったけれど、おまじないとしての効果は抜群だったようで。
翌朝になると、あたしの風邪はどこへやら。
代わりに、夜中に目が覚めるたびにつねっていたふとももには青あざが。
そうそう、バレンタインデーのお返しはキスだけじゃなかったの。
銀座の靴屋さんでゴウさんが買ってくれたのは、オーダーメイドの靴。
足を測って、デザインや生地を自分で選ぶの。
それに、二人のルールの第五条を改正してくれたのよ。
一緒に寝てもスキンシップは禁止、って項目には。
軽度なものは除く、って文言が追加されたの。
あたしとしては、もう少しぜいたくな期待をしていたのに。
何せ、あのキスの後だもの。
カーテンレールの指輪を、参加賞から婚約指輪にしてくれるんじゃないか。
もしくは初めてのエッチを……、なんてね。
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