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夕暮れは野営の合図でもある。昼間にどれほど激しく戦っていても、太陽が沈めば敵も味方も寝静まる。万が一の夜戦に備えて見張りは立てるが、大多数の兵士にとって夜はひとときの憩いなのだ。
ジゼルの姿は天幕を立てる人集りに紛れ込んでいた。弓使いの彼女は、陽が傾き始める頃には前線から撤退する。闇は敵味方の判別をし辛くさせるからだ。剣士より先に退がる彼女は、いつも率先して天幕の設営や怪我人の救護に回っていた。
ところがジゼルはあまり器用ではない。弓を持たない時の彼女は、幼少の頃から変わらず鈍間なままだった。伯母には、十九を目の前にして刺繍の上達がまるで見られない事を嘆かれた。だから負傷した仲間に包帯を巻こうとしても、時間はかかる上に仕上がりは今ひとつであった。
「…上手くできなくてごめんなさい」
「副隊長直々の手当てなんて、ありがたい限りです」
「そうですよ。むしろ我々にはご褒美と言いますか…」
「ちょっと不恰好な出来栄えが逆に高得点と言いますか…いえその、副隊長はむさ苦しい中でも汚れない、清らかな白百合ですので」
「?」
「あ、お気になさらず。副隊長」
何かと敬遠されがちだったジゼルは活躍を認められ、副隊長に抜擢された。そして二年近く共に戦ってきたことで、隊員達との結束も強まっている。彼女に助けられた隊員は特に、ジゼルを支持する気持ちが強い。
戦闘中と普段の姿とでは落差の大きいジゼルだが、そういう部分も今や愛嬌として親しまれていた。おまけに彼女が清楚な美人なので、男共は鼻の下が伸びっぱなしである。
「相変わらず下手くそな巻き方だな」
ただし一人を除いて、彼女に辛辣な男がいた。
「アンタはいつになったら上達すんだよ」
「おい!副隊長に向かって何て言い草だ!」
「そうだそうだ!羨ましいからって僻むな!」
「勲章だぞこれは!」
「意味不明だわ。腕じゃなくて頭の治療がいるんじゃねぇの?」
美人贔屓の男達は、ジゼルを非難されていきり立った。だが一斉に怒られた本人は飄々として、どこ吹く風である。
この憎たらしい男はロルフと言う。歳は恐らく二十前後と思われるが、正確な年齢は彼自身も知らないようだ。夜の闇に溶け込んでしまいそうな黒髪を持ち、顔立ちも悪くない。体格もしなやかで逞しかった。ところが目つきが鋭いため、仲間からは悪役の人相だと言われていた。
ロルフはジゼル直属の盾兵である。彼女がバルビール隊に配属されてすぐ、ロルフも盾兵に転向するよう命令を受けた。フィンレーを除けば、彼女にとって一番付き合いの長い仲間はロルフだった。
「うるせぇな。オレは見たまんまを言っただけだ。上達の兆しすらねぇって」
ロルフの口の悪さは最初からだ。初対面でジゼルは「姫サマのお守りかよ。かったりぃ」なんて毒を吐かれている。彼は誰に対してもこうなのだ。横柄で喧嘩っ早く、協調性も無いつむじ曲がりだ。だが実力だけは確かであり、戦いにおいてはとても頼りになる男であった。
彼の口の悪さを発端に、軽いいざこざはしょっちゅう起きるものの、誰も本気で怒っているわけではない。とりわけジゼルは、嫌味を嫌味だとさえ捉えていなかった。
「伯母様にも似たようなことを言われてしまったわ」
男達がひとしきり言い合った後で、ジゼルはのんびりと呟いた。周りの言い合いについていけなくて、話の最後に気の抜けるような事を言う。喋り方がゆっくりなのも、鈍臭さに拍車をかけている。弓を構えていないジゼル・リドガーは、こういう娘なのだ。
「二度も言われちゃ世話ねぇな」
「もっと練習が必要ね」
「はあ?やめとけやめとけ」
ロルフは「無駄に終わるだけだ」と続けようとしたのだが、隊員達に口を塞がれた。
「俺が!練習台になりますよ!」
「俺も俺も!是非ともこの腕を使ってください!」
「足でも良いですよ!」
「馬鹿野郎!てめえの臭い足を副隊長の前に出すな!仕舞え!」
「あっ。じゃあ、しっ尻とか…」
「消えろ変態がっ!副隊長にドコを触らせる気だ!」
聞こえた単語だけを拾ったジゼルは、辛うじて会話に入るのだった。
「消えろなんて言っては可哀想だわ」
「ハッ副隊長!失礼いたしました!失せろあそばせ、で宜しいですか!」
阿保らしくなってきたロルフは口を塞ぐ手を剥がし、食事を貰いに去っていった。一方でジゼルは、目の前で交わされる早口の応酬にやはりついていけなくなり、きょとんとしていた。しかし、それから少しして控えめに笑った。よく分からないが皆が楽しそうで良かった、そう感じたからだ。
夜が明けると激しい戦いが始まる。昨夜の和気藹々とした空気はもうどこにも無い。
隊服を整え、防具を装着し、武器を持ったジゼルは、凛々しい副隊長そのものだった。馬に跨り、突撃の号令を待つ。
「今日も頼むわね」
「ああ」
ジゼルは盾兵の長を任せているロルフと、朝の挨拶を交わした。普段から特別、言葉数が多いわけではないジゼルは、戦闘になるともっと言葉少なになる。ロルフもそれを知っており、戦闘中は憎まれ口を一切捨てて、必要な報告のみを告げる。だから日が昇っている間の二人は、非常に静かであった。
「バルビール隊!突撃態勢をとれ!」
フィンレーの命令が飛ぶ。途端にジゼルの目つきが変わった。
今日も一日、フィンレーを守り通すのだ。腕の一本、指の一本すら失わせてはならない。彼を守ることが、親友の幸せに繋がる。だからジゼルはドレスを脱ぎ捨て、武器を手に戦う道を選んだ。
「突撃だ!行くぞ!」
ジゼルが親友を守りたいと願うのと同じく、敵にだって守るものがある。射殺した相手にも家族がいて、友がいて、もしかしたら婚約者がいるかもしれない。ジゼルが感じてきた恐怖や悲しみを、相手にも味わせることになるのだろう。
それでもジゼルの矢はぶれない。全部わかっていても、戦争が無くならない以上、ジゼルひとりにできることはほんの僅かだ。親友の幸せを守る力が自分にあるとわかったなら、惜しみなく使うだけ。
「敵の長は」
「まだ見えねぇ。それより正面、構えたぞ」
今日も戦場に、ジゼルの正確無比な矢が放たれる。