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子供の頃のジゼルは、至って普通のお嬢様だった。深窓の令嬢という表現がぴったりで、当然弓なんか触った事もない。そもそも兵士になろうだなんて微塵も考えていなかった。
むしろジゼルは他の子達と比べて鈍くさいところがあった。何をするにしてもちょっと遅かった。例えば皆んなが一斉に笑い出したのに、ジゼルだけは一拍子遅れて微笑む。そういった具合であった。
とても兵士に向いているとは思えない、おっとりしたお嬢様だったジゼルが何故いま、弓使いとなって戦場に立っているのか。その経緯を語ると少し長くなる。
小さな転機は幾つかあった。
最初の転機は、ジゼルの両親が亡くなった事であろう。彼女は父と母を不慮の事故でいっぺんに失った。まだ四歳の時だった。それから母方の伯母夫婦の家に引き取られ、ジゼル・リドガーとしての人生が始まった。伯母夫婦にも子供が数人いたが、衝突することもなくジゼルは溶け込んだ。
そして友人にも恵まれる事になる。それが二番目の転機だった。
伯母に連れられて出席した茶会で、アリシアという令嬢と出会った。ちょうど年も近く、気が合った二人はその日のうちに友人となった。
ジゼルとは対照的に、アリシアは活発な子供だった。正反対だったからこそ、互いにしっくりきたのかもしれない。他人より遅れがちなジゼルをアリシアが引っ張って、皆んなのところへ連れて行ってくれたものだ。ジゼルが他の子から小馬鹿にされた時、飛んできて怒ってくれるのも、いつだってアリシアだった。二人が「一番の親友」と呼び合える仲になるまでに、さほど時間はかからなかった。
十年以上が経過しても、ジゼルにできた友人はアリシアひとりだけである。そして唯一の友が発した言葉により、ジゼルは戦いの道を選ぶことになるのだ。
貴族社会ではよくある話だが、アリシアには生まれた時から許嫁がいた。お相手は、フィンレー・バルビール。そう、現在ジゼルが所属する部隊の隊長だ。物心つく前からの許嫁とあって、フィンレーとアリシアはとても仲が良い。アリシアから彼を紹介してもらった際、ジゼルは「物語の王子様みたいで、優しいアリシアとお似合いだわ」と胸を踊らせた記憶がある。
そういうジゼルにも、実は婚約者がいた。養父母が縁談をまとめてくれたのだ。しかし過去の話である。三度会っただけの婚約者は、訃報と共に戦地から帰ってきた。軍に入隊していた彼は残念なことに戦死した。
戦争はジゼルが生まれる前から既にあるもので、家族や友が戦死することは、毎日国のどこかで起きている。婚約者が亡くなったのは無論、悲しかった。でも共に過ごした時間が短すぎて、薄っぺらい悲しみしか浮かばなかった事実が、ジゼルは一番辛かったように思う。
振り返れば、この一件が最大の転機であった。
ジゼルの婚約者が戦死したことは、彼女よりもアリシアに大きな動揺をもたらした。
フィンレーの実家であるバルビール伯爵家は、男児なら何かしらの軍事に関わる教育方針だった。フィンレー自身、時期が来たら入隊すると思いながら過ごしてきたし、疑問も葛藤も抱かなかった。彼が兵士になることを、アリシアもごく自然に受け入れてきた。だがそれは、今まで戦地に向かった家族が、笑顔で帰ってくるのが常だったからに過ぎない。
冷静に考えてみれば、殺し合いの地へ赴いているのだ。遺体を見ぬ日はないだろう。たまたまその遺体の中に、フィンレーがいなかっただけの話である。次はアリシアが、婚約者の遺体と対面することになるかもしれない。残酷な現実を思い知った時、アリシアは途轍もない恐怖に震えた。行軍する彼を見送る機会が、果たしてあと何回あるのか。そんな風に考えだしたら止まらなくなってしまった。
───大丈夫。大丈夫よ、アリシア。あなたの幸せを奪わせはしないわ。わたしが何とかするから、もう泣かないで。
泣き暮れるアリシアを、ジゼルはそう言って一生懸命に励ました。
鈍いジゼルに呆れることもなく、決して見捨てることもなく、いつもいつも手を引いてくれたアリシア。明るく輝く太陽のように導いてくれた親友が、背中を丸めて涙を流すのは見るに堪えなかった。
───わたしも兵士になって、戦場へ行くわ。
ずっと助けてもらってきたのだから、今こそジゼルがアリシアを助ける番だと本気で思ったのだ。
アリシアは初め、目の前の親友が何を言い出したのか理解できなかった。ようやく分かった時には既に、ジゼルは入隊の希望書を提出してしまっていた。何をするにも遅かったジゼルにしては、驚くほど素早い行動だった。
上述のような過去が積み重なり、今に至る訳である。
アリシアもフィンレーも戻れと繰り返し説得を試みたのだが、全て失敗に終わった。ジゼルは入隊試験を通過し、しかも弓を扱うことに天賦の才があることも判明した。少しでも兵力が欲しい軍にとっては、追い返す理由がなかったのだ。
ほんの少し前まで綺麗なドレスを着て楚々と歩いていた令嬢が、兵士になると宣言しておよそ一年と半年後。しれっとフィンレーの部隊に配属されていたのだから、顎が外れるどころの騒ぎではない。だというのにジゼル本人ときたら昔と変わらない、ほんわかとした面持ちでフィンレーの前にやって来た。よろしくお願いね、とのんびり言われた彼の心境は、不安そのものだった。
だが、ひとたび戦いが始まればフィンレーの懸念は吹き飛んだ。むしろ、彼女は本当に自分の知る幼馴染なのかと、陳腐な疑念が浮かぶ始末であった。
華奢な手から放たれる弓矢の正確さに戦慄し、研ぎ澄まされていく集中力には気圧された。当初は貴族のお嬢様に対し、軽蔑や難色を示す隊員もいたのだが、ジゼルは己の実力で見事に全員を黙らせていった。
そうやってジゼルが弓の才で兵士になったのは事実である。ただし一つだけ、少々ずるい手を使った。通常、新兵には配属先を指定する権利は無い。でもジゼルはフィンレーを死なせないために兵士になったので、どうしても彼と同じ隊に入らなければならなかった。
運を天に任せていては駄目だ、そう説いたのはアリシアだった。親友の決意は変わらないと観念したアリシアは、全面的に支援する方向に切り替え、有力貴族に口添えしてくれたのだ。ジゼルの味方をしてくれる親友は、昔も今もただただ頼もしかった。