夕焼けの瞳
それから私は毎晩病院に通うようになった。初めのうちは彼の寝顔を眺めるだけだったが、少しでも彼を喜ばせたくて贈り物を運ぶようになった。
満開のひまわり、綺麗な貝殻、庭に生った木の実。そういった美しいものを病室の窓を開けて框にそっと置いていった。
病院通いを始めてひと月。またいつものように窓から野花を差し入れると、ベッドから突然声がして、私は足を踏み外しそうになった。
「鳥が毎日ガラクタを捨てにくるのかと思えば、何の嫌がらせだ」
ガラクタという単語に恥ずかしくなって窓硝子の下に顔を隠せば、「ちゃんと 顔を見せろ」と急かされ観念する。窓から病室に滑り込むと、青年の不機嫌な双眸に睨まれ、私はパーカーの袖を握り込んだ。
「あんた誰?」
「……千紘」
「その目、どうなってんの。赤く光って」
「私、吸血鬼なの」
沈黙が痛い。彼は盛大に顔を顰め、そして「変なの」と噴き出した。
「はあ、何、俺のこと襲おうとしていたわけ?」
「違うわ。見ているだけでよかったんだけど、迷惑をかけたしもう来ない……ごめんなさい」
踵を返して窓から出ていこうとすると、背後から声をかけられる。
「ガラクタはいらないけど、喋りに来てよ。退屈なんだ」
「本当? ……ねえ、名前を訊いてもいいかしら?」
「恭介」
ベッドの上からひらりと手を振って、恭介は目を細めた。
「ばいばい、千紘。またね」
病室から出ても、逸る鼓動が鳴り止まない。寝顔を眺めることしかできなかったのに、起きた顔を見て話せた。また来てもいいって言ってくれた。嬉しい、嬉しい。
翌日から、私は病院を訪れると窓をノックするようになった。恭介は吸血鬼の生活に興味があり、私は彼と言葉を交わしているだけで心が満たされた。
けれど恭介はある日、点滴の刺さった手で自分の首筋を指差して言った。
「飲みたい? 血が好きなんでしょ」
私は必死に首を振るが、恭介は「嘘つかないでよ」と機嫌を悪くする。仕方なく私は「本当にいいのなら……」と頷いた。
恭介が入院着の首元をくつろげる。如月と似て、ほとんど日焼けを知らない肌に牙を立てた。恭介の体が僅かに強張る。傷口から溢れ出た血は、やっぱり如月と同じ甘い味だった。血が止まるまで味わい、傷を舐め、私は口を離した。
「痛かったでしょう」
「思ったより」
恭介の腕には、点滴の針を刺した痕がいくつも痣になっていた。きっと、衣服で隠れているところにも傷がある。だから濃く、血の匂いを帯びていた。
「痛い思いさせたくなかったのに、ごめん」
彼の手が私の頬に触れる。彼の指は私の口をこじ開け、人差し指と親指で牙を擦った。
「先が少し丸いんだ」
恭介は如月と全然違う。性格も、面立ちも、体つきも、声も、何もかも。──それなのに。
「あなたを傷つけたくない。……優しくさせてよ」
言葉が震え視界が滲んだ私に、恭介は「ごめん」と謝った。彼の指が、私の手に絡まる。
「ねえ、何で俺に構うの」
私は答えに窮した。適当に取り繕ってしまおうかと思ったが、彼に嘘は吐きたくなかった。意を決して口を開く。
「私の知っているひとと血の匂いが似ていて……」
「じゃあ俺はそいつの代わりってわけ?」
確かに最初は、如月を探していた。けれど、如月はどこにもいなかった。当然だ。如月が灰になるのをこの目で見た。ここにいるのは、少し捻くれて、きっと寂しがりで、けれど心根の優しい青年だ。
「最初は代わりにしようとしていたのかもしれない。でも今は、似てるところも違うところも、恭介の全部に惹かれているわ」
しばらくの間逡巡し、恭介は絡めた指に力を込めた。簡単に折れてしまいそうなほど薄い肩を見つめ、私は尋ねた。
「恭介はどうして私と一緒にいてくれるの? 得体の知れない吸血鬼なんて、恐ろしいでしょう」
恭介の双眸が真っ直ぐに私を射抜く。眼光にたじろいだ私をよそに、彼は満面の笑みを浮かべた。
「夕焼けのような目が美しかったから」
一瞬、私は息を止めた。お日様のように笑う祖母。私のために陽光を浴びた如月。私は、永遠に夜から出られないのだと思っていた。けれど、恭介は私の中に太陽を見つけてくれた。
「ありがとう」と微笑むと、恭介は照れてそっぽを向いてしまった。それから私たちは黎明が迫るまで、他愛ない話をしてじゃれあった。