如月とひまわり
ある夏の晩、部屋着でソファーに寝転がりながら、ふと如月に尋ねてみた。
「如月はずっと一人で暮らしてるの?」
テーブルを挟んだ向かいで本を読んでいた如月が、顔をあげる。
「そうだね、吸血鬼になってからはずっと一人だ」
「寂しくなかった?」
「昔は寂しかったこともあるかもしれないけれど、もう慣れてしまったよ」
如月は小さく首を傾げ、思案して言った。
「でもきっと、千紘がいなくなったら寂しくなると思う」
「いなくならないわよ。不老不死の吸血鬼なんだから」
私は如月の杞憂を笑い飛ばしたけれど、如月は顔を伏せて本を閉じ、「少し外を歩こうか」と誘った。
手を繋いで丘を下り、夜の町を歩く。どちらともなく、自然と足は海岸へ向かった。
潮風が頬を撫で、生ぬるい匂いを運んでくる。雲が星も月も隠し、墨汁で塗り潰したように暗い空と海が広がっている。
「昼の海は波がきらきらしていて綺麗なのに、夜になると真っ暗闇で陰気臭いわ」
繋いだ手に力が込められる。赤い双眸がこちらを見た。
「昼の海なんて、もうどんなだったか忘れてしまっていた」
吸血鬼は夜目が利くし、顔に出づらい如月の思いにも気付けるようになった。けれど今、彼の表情は酷く曖昧で、そこから何の感情も読み取ることはできない。
「日光を反射させて光る海も、太陽に向かって咲く花も、千紘がいたから思い出せた」
岬からの灯台の明かりだけが、夜の漆黒を追い払っていた。
「僕は好きだよ。夜の海。千紘に会えた場所だからね」
その声があまりにも優しかったから、私は切ない心地になって、里心がついてしまった。
「ねえ、昔の家に寄ってもいい?」
私の願いに、如月は静かに頷いた。
吸血鬼になってから、家に戻るのは初めてだった。もう手の届かない思い出ばかりが溢れた家に、胸が痛んで帰る気が起きなかった。
しかし実家のあった場所に辿り着くと、そこに建っていたのは、新しい別の家だった。
視覚と心の齟齬に、ただただ放心する。予想できたはずなのに、欠片も想像していなかった。私が不老不死を享受している間に、それだけの年月が過ぎたのだ。
「千紘……」
いたわしげに声をかけられ、私は唇を引き結んだ。
覚悟していたはずだった。吸血鬼になれば、人の生活を手放さなければならない。それでも、永遠の命を望んだのだ。
自分に言い聞かせるように、強い口調で言う。
「こんなの、なんてことないわ。自分で選んだことだもの」
丘の上の洋館へ帰ると、花壇のひまわりが目に入った。
曇天の夜に咲く花は、その明るい色を失って、花弁さえも精気を失っているように見えた。そのとき、祖母と育てたお日様の花が胸をよぎった。満開の太陽の色。そして、私の中の何かが切れた。
「太陽に向かって咲き誇るひまわりも、晴れた日の煌めく青い海も、もう見ることはできないのね」
凍りついていた悲しみが融け出したように、涙が溢れ止められなかった。
如月に抱えられて家に入った私は、食事もとらず泣き続けた。朝を迎えても涙は止まず、いつの間にか泣き疲れて気を失ってしまっていた。
「千紘」
階下から呼ぶ声が聞こえ、私は重い瞼を開けた。まだ昼間だ。閉め切ったカーテンの裏側から、日射しの気配を感じる。
怠い体を引き摺って一階へ下り、如月を探す。
「如月? どこ……?」
「千紘」
玄関の方から声がする。不安に足が急いだ。
薄暗い玄関のドアが開け放たれている。ポーチの先に、如月が立っていた。彼は一輪のひまわりを抱え、燦々と降り注ぐ陽光を一身に受けていた。彼の赤い瞳が、光を浴びた満開の花を、愛おしげに見つめる。
「これが、千紘の好きな花。やっと見せてあげられた」
陽だまりのような笑みが、私に向けられる。そして如月は、灰になって崩れ落ちた。
ひまわりも地に落ち、灰の上を転がった。私は日向へ手を伸ばすこともできず、引き裂かれる痛みに蹲る。血を吐くように慟哭する。
──如月は馬鹿だ。大馬鹿者だ。
私から太陽を奪ったことなど、気に病む必要はなかったのだ。永遠の夜に閉じ込められようと、如月がいてくれればそれでよかったのだ。
海風に吹かれ、夜までに灰の大半は散ってしまった。暗闇の中、タイルの隙間に入り込んだ灰を素手で掻き集める。固いタイルを指が擦る度、指先に血が滲んだ。痛みをこらえながら、骨壺の破片を拾い集めてくれた如月の手を思い浮かべた。
ようやく集まった灰と萎びたひまわりを握り締め、私は海辺に向かった。
柔い砂に足を取られて何度も転びそうになりながら、渚に立つ。一握りの灰とひまわりを海に流し、私は波の中に膝をついた。絶望が足を濡らす。
如月なしでどうやって、夜闇に息を継げばいいのか。
「大嫌い」
私は呟き、顔を覆った。海鳴りが嗚咽を掻き消した。