はじまりはどんぶらこ
獣人の紫苑が籠を拾ったのは、全くの偶然だった。
数日続いた長雨が止んで、久しぶりに迎えた晴天。千尋の森の奥深く、獣王とその側近しか立ち入ることの許されない『千花の庭』を、紫苑はぶらぶらと歩いていた。
紫苑は寵姫だった。
狼族で最も勇敢な戦士だったがために部族の忠誠の証として獣王に献上された。獣人にとって名誉あることだ。幸いなことに獣王ゼノは獅子族の獣人ではあるが、狼族は無論、他の部族も分け隔てなく慈しんだ。強く優しい王に仕えることは紫苑にとってこの上ない喜びだった。
それだけに、ようやく授かった子を失った悲しみは大きかった。
強靭な肉体を誇る獣人といえども病には勝てなかった。流行り病で苦しむ間もなくあっさりと、少なくとも紫苑にとっては本当に瞬く間に、子どもは息を引き取った。あまりにも突然で、紫苑は子どもが亡くなったことを理解できなかった。動かなくなった我が子を、獣王ゼノが抱きしめ、弔いの咆哮をあげた。胸を刺すような慟哭を耳にしてようやく、紫苑は自分の命よりも大切にしていたものを失ったのだと気づいた。
ツィウェル川のほとりにある葡萄の木々。亡骸を埋めた木の根元で紫苑は足を止めた。人間とは違って獣人は墓標を作らない。作るという発想自体なかった。死ねばその身体も魂も大地に還る。森の神に召され、いつか再び新たな命として生まれ変わる。死は永遠の別れではない。一般的な獣人と同じく、紫苑もやがて転生する我が子を信じていたーーでも、どうしても思うのだ。
『いつか』っていつだろう。
葡萄の花が咲くまでか、実が熟すまでか、それとも芽が出てから木になり枯れるまでか。いつ会えるか、そもそも再び巡り会えるかもわからないのでは、何の慰めにもならなかった。
たわわに実った葡萄を一房もぎ取る。不揃いな粒の比較的大きなものを摘んで口に入れた。甘酸っぱい果汁が口の中に広がり、紫苑はやるせなくなった。美味しいと一緒に喜んでくれる子どもはもういない。無邪気な笑顔は戻らない。広大で豊かな森の中で、紫苑はたった一人だった。
微かな鳴き声を頭頂の耳が捉えたのは、その時だった。紫苑の尻尾までもがぴくりと反応する。空耳ではない。たしかに、誰かの声だった。
耳を立てて声をたぐる。たどり着いた先はツィウェル川。紫苑は周囲を見回し、目を見張った。
浅瀬の岩に引っかかっていたのは籠だった。棕櫚の葉で編まれた籠が浮いていた。鳴き声はその中からしていた。
「『流し子』か」
強さを重んじる獣人族特有のならわしだ。特に肉食系の獣人ではままある。多生児は生まれて間もなく選別され、劣った赤子は川に流される。流れ着いた先で子は一人育つ。過酷な環境で鍛えられ、立派な戦士となったあかつきには生まれた部族に戻ることができる。
かくいう紫苑も元は『流し子』だった。幼い自分を見限った者達を見返すべく修行に明け暮れ、気づいた時には狼族屈指の戦士になっていた。
懐かしさが手伝って、軽い気持ちで紫苑は籠の蓋を開けた。どこの部族の子かを確認したら、戻して川に流すつもりだった。しきたりに敢えて逆らう気なんて微塵もなかった。
籠の中でぴいぴい鳴く子の姿を見るまでは。
紫苑は蓋を持ったまま固まった。
予想通り、子どもは獣人の血をひいていた。尻尾がある。成人すれば自在に引っ込めたり出したりできる尻尾と獣耳や牙は、幼少期だけむき出しになる。身を守るための本能か、半獣態と呼ばれる獣に近い状態を維持するのだ。だから幼い頃は部族毎の特徴が顕著で一目でどこの部族の子か判別できる。
しかしこの子に関しては、紫苑はわからなかった。自分とよく似たふさふさの尻尾から察するに、狼族か狐族の子だろう……おそらく。自信が持てないのは子どもの耳が獣のそれとはまるで違うからだ。
紫苑は子どもが流された理由を察した。劣っているからではない。千尋の森にこの子が生きる場所がないからだ。
生まれて間もない子は、半分だけ獣だった。異種族との交わりによって生まれた混血児。呪われた忌み子。
なんということだ。
紫苑は天を仰いだ。森の神は一体何をお考えなのか。尊いその御心は一介の獣人風情では慮ることなどできやしない。
紫苑以外の獣人が拾ったのだとしたら、まず間違いなくこの赤子を殺している。悲惨な宿命を背負って生まれてしまった子に対する、せめてもの慈悲だと。しかし紫苑にはできなかった。今の紫苑には、たとえ禁忌の子であろうとも命をあきらめることができない。
結論はもう出ている。必要なのは一歩を踏み出す覚悟だ。それも時間の問題だと紫苑はわかっていた。どうあがいても、自分にはこの子の命は奪えない。そして籠に戻して川に流すこともできない。どこに流れ着こうとも、遠からずこの子は殺されると知っているからだ。
長く息を吐いた後、紫苑は籠の蓋をしめた。慎重に持ち上げて抱える。久しい重さだった。あきらめていた子を再び得たのだという実感が、喜びと共に湧いてくる。
踵を返して向かう先は獣王の城。恐る恐る踏み出した一歩は、勢いに乗って早足となる。先ほどまでの陰鬱な気分が嘘かのように心が弾んでいた。鼻歌混じりに足取りも軽く進む。
「ずいぶんとご機嫌だな」
木々の合間から城が見え始めた頃に、声を掛けられた。長身痩躯の青年。尻尾さえなければ人間と変わらない姿だった。鹿族の獣人であるファルサーミは、紫苑の抱える籠に胡乱な眼差しを注いだ。
「何だそれは。貢物か」
「拾った」
端的に答えて、紫苑は含み笑いをした。
「森の神も粋な計らいをなさる。私の願いをこんな形で叶えてくださるとは」
「棕櫚の葉ならあそこにたくさんあるぞ」
「馬鹿ねえ」
紫苑は籠の蓋を開けて見せてやった。
「娘が欲しかったの」
籠の中を覗き込んだファルサーミは、弾かれたように顔を上げた。
「正気か?」特徴的な耳を指差し「『混じりもの』だぞ」
苦み走った顔は険しさを増し、恐怖かあるいは嫌悪のためか青ざめていた。
「見ればわかるわ。それに半分は獣なのだから、立派な同胞よ」
「このことが王に知れたら」
「さぞかしお喜びになるでしょう。一刻も早くお見せしたいわ」
城に向かおうとするのを引き止められる。ファルサーミは恫喝した。
「生まれてはならない忌み子だぞ!」
訴える様には確信があった。使命感さえ覚えているのかもしれない。おぞましい命だと断じて疑っていない表情だった。
心情は理解できなくもない。紫苑とてつい数刻前まで『混じりもの』は嫌悪の対象だった。本来なら交わるはずのない異種族間の交配によって生み出された怪物ーー世界の理に反する生き物だと。
「滅びるために生まれる命なんて、この世界にはないわ」
生まれて間もなく失った子。その命にだって意味はあったはず。おぞましい怪物だろうと禁忌の子だろうと、存在を否定される理由にはならない。与えられた命に罪はないのだから。
「名前をつけなくては」
爪で傷つけないよう、紫苑は慎重に子どもの頬を撫でた。
「お前は棕櫚に包まれて生まれ、私が引き上げた。棕櫚は王に捧げられる勝利の葉。故に、お前を『棕櫚』と名づけよう」
小さな手が紫苑の指を掴んだ。何も知らない子どもは、新しい玩具を見つけたかのように無邪気に笑っていた。