信用
…………
「ハックションッッッ!!」
ズビビビーーーーッッ、と鼻をかみながら俺はぼーっとする意識を何とか持ちこたえさせた。
今日は3月27日。つまるところ、水族館に行った次の日である。
現在俺は、まぁ見たら分かることなのだが、普通に風邪をひいている。多分だが、昨日水を被ったまましばらく過ごしていたせいだと思う。3月終盤とはいえ、その暖かさにも限度はある。そりゃあ、風邪もひいてしまうだろう。だが……
「クッソあのスキルつかえねぇ……。」
こちらに戻ってきた時ハデスから貰ったはずのスキル【健康体】。あれは確か、病にかからなくする効果もあるはずなのだが……風邪は含まれないとかか?
「ああああああああぁぁぁだるいだるいだるい。」
スキルへの恨みもこめた声を上げながらバタンッと後ろに倒れ込む。少し固めの布団が体にしがみついた。
ちなみに、結は今この家にいない。そりゃ当たり前だ。今日は平日の月曜日。俺には学校とか仕事とかはないが、結はちゃんと高校がある。思い出のために戻ってきたとはいえ、自分のために休ませるのはさすがに申し訳ないと思い、ごねる結を説得してちゃんと学校に言ってもらった。
もちろんのごとく律儀な結は、お粥や氷枕などの準備をしてから行ってくれたわけなのだが。近くにスマホまで置いてくれるという優しさ。ほんと神。
そんな優しすぎる自分の妹のことを思い出してニヤニヤする。エプロンつけてキッチンにたつ姿は本当に輝いていた。
なんてことを考えていた時
ピンポーン
とガンガンする頭にはキツい無表情の機械音が家の中で反響した。
(誰だ?もしかして結か?それかまさかの早坂さんとか……。そんなわけないか。)
などと思いつつ、俺はふらつく体を手すりをもって支えながら玄関へ向かう。最中、周囲がぐるぐると回って見え、クマのぬいぐるみはダブって見えた。
「……さて、誰だ?」
黒く重々しく見える(実際はそんなことは無い)扉のノブに手をかけ、ガチャりと前に押し出す。そして俺は外に1歩足を踏み出した。
開かれた扉の先。そこに居たのは……
「やぁやぁ!元気にしてたか海斗。ハデス様が来てやったぞ。」
俺が知ってるハデスではないハデスだった。
いやほんとに……誰だコイツ?俺が知ってるハデスはもっと品格があって重厚な雰囲気を漂わせる男だったはずだが……。
とまぁ、それはさておいて
バタン。
俺は風邪をひいていることも忘れ、勢いよく扉を閉めた。理由は簡単。こいつを部屋に入れては行けないと思ったからだ。なんか普通に面倒くさそう。
しかし、扉を閉めた反動によって足元がふらつき、俺は後ろにぐらりと倒れてしまった。
(やべっ)
背後には艶やかに光る硬いフローリングがある。おそらく倒れたら相当やばいだろう。死にはしないが、痛い。
(うへぇ。詰んだ。)
止めることもできず、頭を打ちかける。と、
「あっぶねっ。ふぅ。ギリギリセーフ。」
扉をすり抜けてきたであろうハデスが俺の体を間一髪支えた。急にスピードが止まり、俺の脳は情報を処理しきれずに限界を迎える。
ハデスはそんなボロボロの体を容易く担ぎあげ、天崎家の中を歩き出した。
熱で意識が薄れる中、俺はふとこう思った。
(扉すり抜けられるんならわざわざインターホン鳴らさなくてよかったんじゃね?)
********
リビングにあったソファに海斗を寝かせ、俺はその隣に座る。軽く沈みこんだそのやわらかな感触に思わず顔をほころばた。
眠ってしまった彼は小さく呻き声を上げながら荒く息を吐く。俺はゆっくりと、彼の頭を撫でた。サラリとした、艶のある黒髪。触れた額から伝わる体温は、とてつもないほどに高かった。
(……これは、代償だ。)
彼に渡したスキル【健康体】が作用しなかったのには、もちろん理由がある。
実は、あのスキルには海斗に伝えていないもう1つの効力がある。それは、「ストッパー」。
海斗のように、こうやって過去に人間を戻すことはわりとよくあることだ。その場合、ハデスはその者たちを見極め、それに合格できたものだけを過去に戻している。だが稀に、その機会を使って復讐を目論みたり、巻き添えにしようと無差別殺人を試みたりする者がいる。
そういった事態を防ぐため、このスキルは「過去を変えよう」という思いが強くなるにつれ、保持者の容態を悪化させるようになっている。
つまり、彼の今の状況は、スキルが発動しなかったのではなく、正常に発動したからこそ起きたことだった。
現在、俺がすべき決断の選択肢は、2つ。
1つは、このまま放っておくこと。
もう1つは、このスキルの効力を調整し、ストッパーを解除すること。
ストッパーを解除するということは、何があっても彼の行動を止めることができないということだ。基本的に、神は下界に関与してはならないとされている。こうして人間と関わることでさえ異常だと言うのに、起きようとしている出来事を勝手に防ぐなど、下手すれば自分の消滅にさえ関わってくるレベルのことだ。
だが……
(今日までの数日間で、海斗の人柄は十分に理解した。)
彼は、人を思いやれる。人を大切にできる。
決して、自分の利益のために人を犠牲にしたりしない奴だ。
だから……
「信じるぞ。お前を。これからは俺がお前達に関与することは無いだろう。全て自分で選んで、行動しろ。俺はお前が死ぬまで、ちゃんと見守っておくから。」
本来の自分に戻って、俺は寝ている彼にそう告げた。そして手に神力を込める。その途端、海斗はやわらかな淡い光に包まれた。神経を研ぎ澄まして彼の心臓付近を探る。左胸より少し右の辺りで、僅かな反応を感じた。
「見つけた。」
体の上からでもわかる。そこには、彼を苦しめている原因である、スキルの源が眠っていた。
俺は慎重にそれに神力を馴染ませていく。もし失敗すれば彼の未来はここで潰える。
(集中しろ……)
それから……約5分後
「ふぅ……。」
ようやく作業が終わった。冥王とはいえ、海斗に与えた命を自らが握るというのは緊張するものだ。
俺はそんなことを考えながら、隣でスヤスヤと眠る海斗を見る。先程まであった高熱は引き、疲労も全開していることだろう。僅かに微笑む彼の顔は、余命を知っているとは思えない程に幸せそうだった。
「ハデス様。」
ふと、そんな声が聞こえた。俺が後ろを振り向くと、そこには秘書であるルーガンがいた。
「休暇中のところ申し訳ありませんが、至急の用事が入りました。今すぐ冥界にお戻りください。」
彼女はいつものように淡々とした口調で、しかしほんの少しだけ声のトーンを下げて俺にそう言った。
(邪魔しないと言った手前、それに反した行動をとることを申し訳ないと感じているのだろう。)
ならば自分がやることは、
「了解。ちょうどこちらも仕事が終わったんだ。お遊びもここまでとして、そろそろ戻ることにしよう。」
ルーガンにそう返すと、彼女は若干目を見開いて
「ありがとうございます。」
と小さく呟いた。俺はそれに反応せず、ひとつのメモと飴玉を取り出し、ソファの近くのテーブルに置いて、海斗の頭を再度撫でた。
そして
「行くか。ルーガン。今日は仕事が捗る気がするぞ。」
と言いながら冥界へと転移した。
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「かいとー。起きれそう?」
優しさに満ち溢れた声で目が覚めた後、俺は辺りを見渡した。
窓の外はすっかり暗くなっており、くっきりと縁取られた月が静かな街並みを明るく照らしていた。
「ん。目が覚めたか。お粥食べれそう?」
キッチンから歩いてきたエプロン姿の結がそう聞いてくる。その問いに俺は
「全然食べれる。ってか全くしんどくないんだけど……。」
と返した。その言葉を聞いた結はさっと俺の額に手を当てる。
「んん。確かに熱くないね。熱引いたんかな?ちょっと計るか。」
体温計を手渡されたので大人しく脇に挟む。
金属部分がとてつもなく冷たかった。
ピピピピッ
「36度3、か。平熱じゃん!良かったね!」
歯をにっと出して結は笑った。
「あぁ。」
俺も笑顔でそう返した。
何が原因だったのかは分からないが、きっとハデスがなにかしてくれたのだろう。
(ありがとな。ハデス。)
心の中で、俺は密かにそう呟いた。
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20××年3月27日。海斗が死ぬまで、あと141日。