水族館へ
「海斗。水族館行かない? 」
突然、結がそう話しかけてきた。
今日は3月25日。花見に行ったあの日からはちょうど1週間が経過したのだが……
あれから数日間、結は何故だか機嫌が悪かった。しかし、こちらから話しかけようにも、常々無視されるため何かアクションをとることも出来ず、しばらくの間俺たちは一言も交わさずに過ごしていた。
そんな何とも言えない気まずい雰囲気の中、結が突然そんな提案をしてきたため、俺は少々戸惑う。
「あ……え?」
思考停止すること約5秒。頭にたんぽぽの花が咲きかけたところで何とかこちらの世界に戻ってきた俺は、前のめりになりながら結の手を握る。
「い、行こうっっ!!水族館!!!」
「え、ちょっ、ちょっと!!!」
バッと勢いよく手を振り払った結はぷいっと顔を背ける。表情はよく見えないが耳が真っ赤になっているからきっと照れているのだろう。
……流石に、やりすぎたかな?
だが、今まで避けられてた結から、こんな魅力的な提案をされたのだ。感動しないはずがない。
まぁ、若干の後悔は抱いている。俺が謝ろうかと思い立ち声をかけようとすると、それよりも先に結がこちらを向いて目を合わせてきた。
グフッ。可愛ええ…。
「べっ、別に海斗と行きたいから行くんじゃないんだからね! わたしがイルカを見たいから行くの!わかった!?」
……うん。ツンデレ。可愛い。
まぁけどそんな事を口走ったら再び避けられること間違いなしなのでそれは口には出さずに俺は慎重に返答する。
「はいはい。りょーかい。わかったよー」
「なっ!?く、屈辱っ……」
慎重にからかった結果がこれである。すこし子供扱いしてみると、結は悔しそうに顔を歪めた。うんヤバい。面白いし可愛い。しかし残念ながら、しばらく経つと自分の中でなにか吹っ切れたのか、結は通常に戻って俺の隣に座った。
「さ!行くなら早く日程決めよ!明日でいいよね?」
「明日!? 」
「けってーいっ! 」
仕返しかのごとく超スピードで解決した事案によって、俺達は明日水族館に行くことが決定した。
……まぁ、いいんだけどね。
********
キラキラと、光を反射して。暗い通路は僅かな輝きに照らされていた。
幻想を体現したかのような小さな水槽では、可愛らしい熱帯魚達が水草を弄ぶかのように猛スピードで泳ぎ回っている。
……そんな光景を、結は食い入るようにして見入っていた。
(普通、熱帯魚ってゆっくりと泳ぐものなんじゃないのか?)
と、少々疑問を抱いたが、結が楽しそうなのでそれは一旦置いておくことにする。
日曜日になり、俺たち2人は家から電車で1時間ほどの場所にある水族館にやってきていた。
ここは県内随一の水族館で、日本の中でもTOP10には入るほどの有名な所だ。
見ることが出来る生き物の種類が多い事も勿論人気の理由の一つだが、一番の理由はやはり……
「ねね、海斗!イルカって背中がスベスベしてる! 初めて知った!!しかもめっちゃ温かい!」
今結がやっているような、体験型のイベントが沢山あるからだろう。
もちろんのこと見学出来る施設やショーも充実してはいる。しかし、ここではそれを上回るようなハイクオリティなイベントを体験することができるのだ。
イベントは、イルカに触れたりだとか、ペンギンを抱っこできたりだとかがある。さらに、それらは月ごとによって変更されるため、何度来ても楽しむことができ、結果的に人気に拍車をかけることとなったのだ。
「海斗も触ってみなよ!」
と、この水族館について語っていると、イルカのお触り体験を存分に楽しんでいた結が手招きしているのがわかった。
相当にご満悦な様子なので、きっとこの体験ができて嬉しかったのだろう。
「ふぅ。今行くー 」
と俺は返事をし、結の方へ向かう。
その後俺たちは数人の列に並び直し、五分ほどまって先頭になった。
「さて、じゃあ……」
さわるか、と言おうとした時、事件は起きた。
バッシャァァァァァンッッ
イルカが大きく体を波打たせ、水しぶきを飛ばした。勢いを持ったその水は、弧を描きながら空を舞い……そして
ベシャ………
見事に俺の体を濡らしてきた。
俺のストレートの黒髪から、ポタッポタッと雫が落ちてゆく。服は色が濃く変化し、ズボンは重さが倍以上にも増した。
一応、水も滴るいい男……として捉えることも出来なくはないが、何せ状況が状況だ。周囲から見たら今の俺はとてつもないほどにカッコ悪いのだろう。
「ブッッ……!アハハハハッ!なにやってんの!」
結がそんな俺の姿を見ながらお腹を抱えて大爆笑する。
飼育員さんが急いで裏からタオルを持ってきて、俺に手渡した。そして申し訳ございませんっと言いながら必死に頭を下げている。
「あ……まぁ、別に大丈夫ですよ。わざとな訳では無いんだし。」
流石にそこまでされると罪悪感が湧いてきたので、おれはイルカの近くに行って触ろうと試みる。さっきのは偶然だと示すために。だが……
バッシャァァァァァンッッ
再びイルカは大きく動き、派手に水しぶきを散らした。ビッシャビシャになる自分の体。
周囲の人からはあわわわわ……と焦る声が聞こえ、結からは先程の倍はでかい笑い声が聞こえてきた。
……なんか、ついてないなぁ。
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流石に濡れた体でそのままいる訳にもいかず、俺たちはその後すぐ家に帰ることにした。
まぁすぐとは言っても、結の笑いが収まったあとだから10分程はたっていた訳だが。
近くの店で適当に服を買ってきてもらった俺は、トイレで周りを濡らさないよう気をつけながら着替え、結と合流した。
「いやぁ。災難だったねぇー。」
脱いだ服を入れた袋を見ながらそう話しかけてきたので、俺は
「でも面白がってただろ。」
と返答した。
今、俺は若干だが拗ねている。まぁ、流石にあそこまで笑われたら誰でもそうなるだろう。
「アハハ!ごめんって。」
あまり悪びれていないかのような返ってきた言葉に少々納得がいかないが、いつまでも引っ張ることは出来ないので、そこは保留にする。
「はぁ。もういいや。ところで結。今日は楽しかったか?」
少し強引な感じもするが、気になったので聞いてみると、結は満面の笑みで
「もちろん!」
と言った。ポニーテールにした髪が揺れ、夕暮れの空をバックにキラキラと輝いて見える。
あぁ。こんな姿を見る度に思う。
本当に、本当に。
またこうして生き返ることが出来て、良かった。
結を笑顔にすることが出来て、良かった、と。
********
書類の山積みになった部屋で。
彼は1人、号泣していた。
「ハデス様。どうなさったのですか。」
秘書のルーガンが、心配そうに声をかける。
ハデス様と呼ばれた彼は、手に出現させたティッシュで鼻をかみながら、
「ルーガァン!海斗が幸せそうなんだよぉ!もぅ送り出したかいがあるって言うかぁ!本当にもう、嬉しくて嬉しくて……。」
と言った。
「……母親ですか。」
ルーガンは冷静にツッコミを入れた。
(キャラ変はもう気にしたら負けなのよね。全く……1人の人間に入れ込むのはいいことではあるのだけど。ハデス様の神力が上がるし。でも仕事しなくなるのよねぇ。どうにかならないかしら……。)
頭を悩ませる。と、その時、彼女は素晴らしい名案を思いついた。
「ハデス様。」
「何?」
ズビーッと鼻をかんだ彼に対し、彼女はこう告げた。
「今日中にその書類全部片付けれたら、明日はお仕事無しでいいです。ここで過ごそうとも、下界に降りようとも、構いません。」
「!!!!!」
ハデス様の目がクワッと開かれた。
それを見て、彼女はニヤリと笑う。
……効果あり。
「ま、マジで?遊びに行って、OK?」
「はい。今日頑張ってくれさえしましたら。明日は何をしてもお咎め無しです。」
と言うと、ハデスは目を輝かせながら
「よっしゃ!やるぞ!」
と、意気揚々とペンを握り、書類を整理し始めた。
そんな姿を見ながら、ルーガンは思った。
……私、案外天才なのかもしれない。
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20××年3月26日。海斗が死ぬまで、あと142日。