兄の日
「今日、6月6日は家族団らんの日、そして兄の日だそうです。お兄さんがいる人は、日頃の感謝を伝えてみるのもいいかもしれませんね。それでは、今日の伝達事項を……。」
梅雨真っ盛りのこの時期、外ではしとしとと弱い雨が降っていた。朝のSHRを軽く聞き流しながら窓の外を眺めていた私は、「兄の日」という言葉聞いてぱっと顔を上げた。教壇に立つ先生は、もう既に伝達を始めている。普段はスルーしていた先生の話だけど、今日はなんだかスラスラと耳に入ってきた。
(兄の日……、兄の日か。初めて聞いたけど、そんな日があるんだなぁ……。)
いつもは聞かない伝達事項を記憶しながら、私は頭の中で海斗のことを思い浮かべた。
(ちょっと面白そうだし、今日は海斗になにかしてあげようかな?最近色んなことがあったから海斗も疲れてるだろうし……、何か出来ることがないか、考えてみよっと。)
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「ゆーいたん!今日はちゃんと先生の話聞いてたみたいではないか。偉いぞ偉いぞ!」
HRが終わった後、私の斜め後ろに座っていた沙也加が、ニコニコしながら話しかけてきた。
「な、なんか楽しそうだね……。」
いつもとキャラの違う沙也加に若干ひきながら、私はそう答える。
「いやぁ、今日は朝から外も暗くてテンション低かったんだけどね、先生が兄の日?の話をしだした時に結がピクってなったのが面白くてさ。」
「そ、そんなにわかりやすかった?」
私が聞くと、
「多分結の後ろにいる人全員気づいてたよ。」
と言われた。どうやら自分の考えていたことはバレバレだったらしい。は、恥ずかしい……。
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キーン コーン カーン コーン
時は経ち、放課後。私は沙也加と帰りながら、海斗にどんなことが出来るかを考えていた。
朝降っていた雨はすっかり止み、空はまだ明るかった。
「海斗に出来ること……。なんだろ。」
あまり普段からサプライズとか感謝を伝えるとかやったことがないからか、急に考えてもいいアイデアは何も思いつかなかった。
「うーん、そうだねぇ……。例えばだけど、お料理作ってみるとかはどう?」
沙也加が腕を組みながら、そんなことを提案してくる。
「料理?」
私が聞き返すと、沙也加は手をパチンと叩いて
「そう!結ちゃんちはいつもお兄さんがご飯を作ってくれてるんでしょ?だったら今日は結ちゃんがやってみたらどうかな?」
「なるほど……。」
私は顎に手をやり考えてみる。
料理か。あんまりやった事はないけど、たしかにいいかもしれない。海斗は毎日、美味しいご飯を作ってくれているから、今日くらいはやってみてもいいかもしれないな。
「やってみよっかな。」
「お!いいね結ちゃん!じゃあ何作るかも考えなきゃだね。」
「そうだね。ええと……。」
それから、沙也加と別れるまで色々な案を出し合って、私は家路に着いた。自分1人ではこんなにたくさんの考えを出せなかったから、やっぱり友達の存在って大切だなぁ。などと、そんなことを考えているうちに、見慣れたうちの家が見えてきた。
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「ただいまー!」
そう言って玄関の扉を開けると、ふんわりと甘い香りがキッチンの方から漂ってきた。
(これは……、なんだろ。マフィン、かな?)
引かれるようにしてリビングに入ると、そこにはエプロンを着た海斗が、せっせとマフィンに飾り付けをしている姿があった。
「あれ?結か。今日は早かったな。」
生クリームを乗せる手を止めて、海斗はこちらに振り向く。
「そうかな?今日はちょっとやりたいことがあったから、早めに帰ってきたんだ。」
私はそう答えて、荷物を近くにおろす。
「今日は気分でマフィンを作ってたんだけど、そのせいでまだご飯作れてないんだ。もうちょっとだけ待っててくれるか?」
「あ、それなんだけど……。」
私は少し躊躇ったあと、意を決して切り出した。
「わ、私が作ってもいい?」
すると海斗はあからさまにキョトンとして、その後めちゃくちゃ目を輝かせた。
「ゆ、結が手料理を作ってくれるのか!?!?」
手に持つ生クリームの袋を握りつぶす勢いで海斗はガッツポーズをした。
「ちょ、ちょっとやめてよ!それに、そんな大層なものは作れないし……。」
顔が熱くなるのを感じて、私はそっぽを向いた。
「全然構わないよ。そんなの。結が俺のために何かをしてくれるだけで、俺はめちゃめちゃ嬉しいから。」
良くもまぁそんな恥ずかしいセリフを言えるなと感心しながらも、私は嬉しくなってにっこりと微笑んだ。
よぅし、いっちょ始めますか。
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なんて、カッコつけていたのが約3時間前。
日が暮れてお星様がキラキラしだした頃の私は、それはもう傍から見てもわかるくらいにガン萎えしていた。
というのも、あの後、私は意気揚々と「カレーライス」を作り始めたのだが、気がついた時にはそれが見るも無惨な姿になっていたからである。
「こんなはずじゃ……。」
目の前に広がるおぞましい暗黒の物体から、私は思わず目を背けた。
お皿の上でよく分からない異臭を放っている「モノ」は、もはや食べられたものではなかった。
「ごめん海斗……。」
しょんぼりと肩を落としていると、海斗はおもむろにそのカレーになる予定だったものを口に入れた。
「え、えっ!?!?だだだ、大丈夫!?」
びっくりしすぎて椅子からずり落ちそうになった。
海斗はしばらくそれを咀嚼した後、何事も無かったようにそのまま飲み込んだ。
「どんな感じ……?」
じっと見つめていると、海斗はふっと真顔になった。そして……
「……意外とうまい!見た目はあれだけど、普通に美味しいぞ。」
親指を立ててにこっと笑った。
「え、本当?」
私は怪しみながらも一口食べてみることにした。
「あ、意外といける。」
グロテスクな見た目からは想像できないくらい、味は普通に美味しかった。
それから、私たちはそのカレーもどきを食べ、デザートに海斗の作ったマフィンを食べていた。
「それにしても、どうして急に料理なんて作ってくれたんだ?」
5つ目に手を伸ばそうとした時、海斗がそんなふうに話しかけてきた。
「今日の朝、先生から聞いたんだけどね。今日は兄の日らしいの。だから、いっつもご飯作ってもらってる分、恩返ししないとなぁって思って。」
「なるほどなぁ。」
海斗は頭をポリポリかきながら、そう言葉を返す。
「とは言っても、俺は現在バリバリ無職だからな。こんな感じで楽しく過ごせるのも、全部結のおかげなんだよ。」
改めて言われると、ちょっと照れるなぁと思いつつ、私は
「気にしてるなら、そろそろ新しい仕事探す?私は別に、どっちでもいいけどね。」
と言った。
「……そう、だな。」
歯切れの悪い返事から聞くに、海斗は働きたくないんだろう。いや、これは言い方が悪いかな。理由は分からないけど、海斗が仕事を辞めたのには、何が原因があるはずだし。
「まぁ、それは置いといて……。」
考えるのは1度辞めることにして、私は
「いつもありがとう、お兄ちゃん。」
普段は伝えるのことの無い感謝を伝えた。
5個目のマフィンも美味しかったし、やっぱり私には海斗しか居ないんだ。別に食べ物につられている訳では無いけど、舞の事だって、海斗がいなかったらきっと受け入れられなかった。
「って、海斗?」
しみじみとしていたら、気がついた時には既に海斗がボロ泣きしていた。
「え、ちょっとどうしたの?大丈夫?」
急いで持っていたハンカチを差し出すと
「いやぁ、だって、だってな?……結がそんなことを言ってくれるなんて……。ありがとうって、お兄ちゃんって、言ってくれて……、そんな嬉しいことがあるかぁ……????」
ずびーーーっと鼻をすすりながらそんなことを言われた。
「そ、そんな大したものじゃないし、泣かないでよ……。まぁ、普段から言わなかった私も私なんだけどね。」
少し複雑な気持ちになりながらも、私は微笑んだ。
妹が大好きすぎる兄なんて、多分なかなかいないんだろう。いや、勿論いるにはいるんだろうけど、ここまでではないんだろう。だけど……
(まぁ、私もブラコンだからなぁ。)
そうなってしまったのだからもうしょうがない。
私が海斗を好きな事実は変わらないし、海斗が私も思ってくれている事実も変わらないだろう。
でも、だからこそ
こんな毎日が、ずっと続いてくれたらいいのになぁと思ってしまう。
誰かを好きになって、結婚して、子供が出来て……みたいな、そういう幸せな人生の中で、
これから先もこんなふうに楽しく過ごせたらいいなだなんて、そんながらにもないことを考えてしまった。
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ごめんなさい より ありがとう を
さようなら より またね を
伝えられたら、どんなに良かっただろうか。
忘れていた日常を思い出していく度に、新しい幸せを求めていく度に、
全てを失う日が、怖くてたまらなくなる。
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20××年6月6日。海斗が死ぬまで、あと70日。