あるべき姿へ
静寂が、二人の間を支配する。
人も車も通らない寂しい急カーブの道で、この季節に合わないような冷たい風が、音を立てながら俺らの周りで吹き荒れていた。
全てを語り終えたあと、俺は色々と思うところがあり、しばらくはどちらも動かなかったが……ようやく心が落ち着いた頃、俺は冷たいコンクリートから視線を外して、彼女の……結の顔を見た。
“相当ショックな出来事があったのかもしれません。無理に思い出そうとしてしまったら、最悪の場合彼女の精神が崩壊する可能性も……”
結が目を覚ましたあの日、医者に言われたこの一言。これは、俺が過去を伝える上で、ずっとずっと懸念していたことだ。これを伝えることによって、もしも結が絶望して心を閉ざしてしまったら……。そんなことを考えると、鳥肌が立ってしょうがなかった。
心臓が大きく跳ねているのが感じとれる。1秒1秒が長く感じられ、どうにも落ち着かない気分だった。
そうして顔を上げたとき、彼女のポニーテールの髪が、風にのせられてなびいている姿が目に入った。
薄暗い中に月明かりで照らされ、僅かな光に包まれた彼女の瞳からは…………
一筋の涙が、こぼれ落ちていた。
無意識のうちなのだろうか。彼女は涙を拭うことも無く、何かを思い出しているかのように、ただただ静かに俯いていた。
「……結。」
辛い。苦しい。悲しい。そんなたくさんの感情が、やりきれないという思いが、俺の元に伝わってくる。
それが、昔の俺の……何も出来なかった頃の自分の姿と重なって、凄く胸が痛くなった。
俺は、彼女の元へゆっくりと歩いていって、そっとその涙を拭う。そして、彼女の頭を撫でると、
「……頼むから、泣かないでくれ……。お前が泣いたら、舞が悲しむんだ……。」
静かに、そう声をかけた。
舞は、結のことが大好きだった。
そして、結の元気な笑顔が、大好きだった。
普段あまり話さない舞が、1度だけ教えてくれたことがある。それは舞が7歳の時のことだった。俺が舞が持って帰ってきた小学校の学年通信を見ていると、そっと
「結ちゃんの笑顔はひまわりみたいに素敵なんだよ」
って、そういったんだ。そして、その通信にのっていたひとつの写真を指さすと、俺の目を見て、
「ほら!」
と言った。そこには、小さく写る笑った結の姿があった。
それを、滅多に笑わない彼女が優しく微笑みながら、とても嬉しそうに話していた。
だから……
「悲しいかもしれないし、辛いかもしれないけど……。空から見守っている舞のためにも、笑ってやって欲しい。」
そう言って、俺は結を優しく抱きしめた。
********
あれは、いつの事だったのだろうか。
遠い遠い、昔の事だった気もする。けど、ついこの間の事だった気もする。
元々私は、こんな性格じゃなかった。
本当の私は、気が弱くて、自分ひとりじゃ何も出来なくて、頭もそんなに良くなくて……。
今の私とは全然違う、そんな性格だった。
そう。
私は、ずっとずっと、“誰か”に憧れてた。
今の私なんかよりも、強くて優しくてかっこよくて、私を守り続けてくれた人。
天崎舞という……私の双子のお姉ちゃんに。
********
「結。私ね、大きくなったら、小学校の先生になりたいんだ。」
私達が小学五年生だった時のことだ。
海斗もお母さんもお父さんも寝ちゃって、私達だけが起きていたあの日、布団の中で、舞は私にそう言った。
「先生?なんで?」
私がそう聞いたら、舞は優しくくすっと笑って
「小学生ってさ、凄く大変な時期だと思うんだ。まだ自分のことを知らなくて、しんどいことも分からなくて、乱暴になったり、喋れなくなっちゃったりすることがあると思うの。」
そして舞は、私の目を見て、にっこりと歯を見せて笑った。
「先生になったら、私たちみたいに悩んでる子のこと、救えるかもしれないでしょ?」
その笑顔が、すっごく眩しく感じたのを覚えている。
私にだけ見せてくれた、あの優しい笑顔。
彼女は、双子の私にだけ、たくさんの姿を見せてくれた。
ちょっぴり泣き虫なところ。海斗のことが大好きなところ。しっかりしてるように見えて、実はちょっぴりドジなところ。
私と似てるようで似てない、そんな色んなところをたくさん教えてくれた。
そうだ。
どうして、忘れてしまっていたんだろう。
こんなにも、大切な人がいたのに。
こんなにも、大好きな人がいたのに。
あれだけ沢山助けてもらったのに、私は全部を忘れて、1人だけで楽になろうとしていた。たった、たった1度の出来事だけで、すべてをなかったことにしようとしていたんだ。
いつからか、胸にぽっかりと穴が空いているように感じていた。正体も分からない、謎の黒いもやが、自分の心の中で渦巻いているように。
それはきっと、すべてをわすれたいと願った自分が、消しきれずに蓋をした、思い出の数々だったのだろう。
今でも、舞の笑顔が鮮明に思い出せる。私が大好きだった、少ない彼女の笑顔が……。
「泣かないでくれ……。」
静かな、けれど優しい誰かの声が聞こえた。
暗かった視界が急に開けて、綺麗な星空が見える。
そして……
(温かい……。)
人の温もりを感じた。私の心を包み込んでくれるような、そんな温かさが私にしっかりと伝わってくる。
その人の優しさが、温もりが、彼女の……舞の生きていた頃と重なって、私は堪えきれなくなって、嗚咽をこぼして泣いた。
「お兄ちゃんだって泣いてるじゃんか……。」
泣きながらもそんなことを言ったら、久しぶりに聞く“お兄ちゃん”という言葉に感動したのか、海斗がもっと泣いてしまって、それからはもうずっと2人で泣き続けた。
涙はいつしか止まっていたけれど、その時にはもう、私達の顔には笑顔が浮かんでいた。
泊まる予定の旅館に向かいながら、私は空を見上げる。そして、最高の笑顔で、彼女に想いを伝えた。
“大好きだよ。ありがとう”
と──────
********
「終わったか……。」
冥界の書斎で2人のことを見守っていたハデスは、泣きじゃくる彼らの様子を見て、一息つき、背もたれに身体をあずけた。
海斗を人間の世界に戻してから、短いようで、とても長い月日だった気がする。
俺自身、何千年という時を過ごしてきたものの、ここまで自分がのめり込んだ出来事は、これが初めてかもしれないくらいだ。
たった2ヶ月の間に、海斗はとても強くなった。
仲間と再開し、妹と沢山話して、抱えていた心の闇を打ち明け、結果このような結末にことを運んだ。
それには見ているだけの俺では計り知れない程の、多くの苦労があったことだろう……。
「……ハデス様?」
その時、ちょうど部屋に入ってきたルーガンが、心底驚いたように目を見開いた。
「どうなさったのですか。真面目に涙なんかこぼして……。泣きたくなることでもあったんですか?」
そう言いながら彼女は手元にあった書類を傍に置き、俺にハンカチを手渡した。
「泣いている……か。」
目元に手をやると、そこには生暖かい水滴が付着していて……
それが涙だということに気がついた。
(そうか。俺は泣いているのか。)
不思議な気分だった。2人のことで過去に号泣したことはあったが、こんなに自然に涙が出てくるとは……。
「ルーガン。」
俺は貰ったハンカチで涙を拭うと、空を見上げながら、呟く。
「家族って、最高だと思わないか?」
それに対してルーガンは、顎に手をやりながら少し考えたあと、僅かに微笑みながら
「まぁ、そうですね。」
と言った。
********
20××年5月20日。海斗が死ぬまで、あと87日。




