あの日の出来事
それは、真夏の蒸し暑い夜の事だった。
その日僕達は、家で両親の夕食の準備をしていた。
僕の母さんは料理ができるけど、しない。全部僕らに押し付けて、自分はお酒を飲みながら父さんとひたすら誰かの悪口を言ってる。
それを見るのはあまり気分が良くないけど、最早当たり前だから気にすることも無くなった。
トントントンッと手際よく野菜を刻んでいく。この単純作業も、既に慣れてしまったと言ってもいいくらいだ。
料理をする最中にも、酒を浴びるように飲んだ2人は、どんどんと過激な口調に変化していく。時折、机を強く叩く音も聞こえた。
(……うるさいなぁ。)
などと思いながらも口に出すことはできず、僕は手を動かすことに集中した。
最後は妹にも手伝ってもらい、料理の支度を終わらせた。
そこまでは、いつもと変わらなかった。
……そう。
──事件は、この後に起こってしまった。
「結、舞。食器の準備をしてくれ。」
僕は2人にそう声をかける。2人は可愛らしくコクりと頷いたあと、セッセと動き始めた。
結は健気に5人分のコップを運び出し、舞は当然のように2人分のお皿を運ぶ。
その姿に虚しさを覚えていると……
結の目の前に、母がさっきまで飲んでいたビールの瓶が転がっていた。
そしてそれが見れていなかった彼女は……
そう。思い切りバランスを崩し、盛大にこけてしまった。
ガッシャーンッッッ!!!
同時に鳴り響く、コップの割れる音。それは、僕らの母親にも聞こえていた。
「ちょっと!!!一体なんの音よ!!!」
母さんが鋭い目付きで後ろを振り返った。そして、壊れたコップを目撃してしまう。
「あんた……これ……。」
母さんが絶句して固まる。
結が壊したのは、母が気に入って大切にしていた高級なコップだった。昔、彼女が一目惚れをして買ったという、何十万もするもの。
普段はどんなものも使い捨てにしようとする母が、唯一ずっと使い続けていたもの。
「ふざけないでっっ!!!!」
そして、彼女は激怒した。
きっと、普通の親ならそんなことでは怒らないのだろう。けど、母さんは普通じゃないし、あの時の状況も、普通じゃなかった。
アル中の父さんはお酒を飲みすぎて爆睡してしまい、愚痴を吐き出す相手がいなくなった母は、苛立ちを募らせていた。
「お、おかあさん……、ごめんなさっ」
結は涙ながらに謝るも、母さんは聞く耳を持たない。許さない……許さない……と言いながら、ひたすらに頭を掻きむしっている。
そして
彼女はゆっくりと、立ち上がった。目を赤く充血させていて、ギリギリと歯ぎしりをする音も聞こえる。
そして彼女の手には……
──ビール瓶が握られていた。
「っな!!」
「あんたなんか……殺してやる。」
「母さんっ!!待って!!」
僕はそう叫んで助けに行こうとするも、間に合いそうにない。
待て、待ってくれ……。
結は足がすくんでいるのか、一切動こうとしない。
母さんは歩いていって、遂に結の前で止まった。
そして……
勢いよく、ビール瓶を頭目掛けて振り下ろした。
その瞬間、僕の世界はまるで時が遅くなったのかと思うほどにスローモーションになり……
悲痛な呻き声と、鈍い音が響き渡った。
グラりっ、と体が傾く。
「……え?」
それは、その倒れた少女は…………結、ではなかった。
ふわりと、黒色の髪が宙を舞う。彼女のつけていた梅の花のピンが、静かに床に落ちた。
「……っ!!!ま、舞っっ!!!」
結が、目の前に倒れた舞を見て、叫んだ。
「舞!!しっかりしろ!!しっかりするんだ!!」
ようやくその場に辿り着いた僕は、舞の身体を抱き抱えて必死に声をかけ続ける。
そばで立ち尽くしていた母さんはやっと正気に戻ったのか、急いで父さんを起こしに行った。
「舞……ま、い……。なんで、なんでこんなことになったの……。」
結ががくりと膝をついて涙を流す。
この時点で僕にも結にも、わかってしまっていた。舞が、もう助からないこと。
辺りに広がる真っ赤な血の海。虚ろな目に、痙攣する手。
荒々しい呼吸音は、聞いているだけで心が痛くなった。
「僕は……。」
守れなかった。ずっと昔、2人にした約束を。お兄ちゃんが絶対に守るって、そう、言ったのに。
「ごめん……ごめんなぁ。舞、本当に……。」
涙で舞の顔が見れない。今、舞がどんな顔をしているのかが、わからない。
「かい、と……。」
舞は震える手で、僕の溢れた涙を優しく拭って
「謝らないで……」
と言った。
「海斗は、悪くない。私は、結を守りたいと思った。そしたら勝手に体が動いてただけなの。つまり、自業自得……だね。」
ツーっと一筋の涙が、舞の頬を伝う。
でも。彼女は笑っていた。
誰よりも辛いはずなのに。死にたくないって叫びたいはずなのに。……誰かを攻めようともせず、静かに僕を慰めてくれた。
舞は、優しく微笑みながら、僕に言葉を紡ぐ。
「海斗。……私は、いっつも素直になれなくて、……海斗のこと、冷たくあしらうことが多かったけど……。」
一息の間をついて、彼女は告げる。
「海斗のこと……。ううん。お兄ちゃんの、こと……。大好き、だよ。」
それは、今まで言ってもらったことの無い、大切な一言だった。
「なんで……、なんで今なんだ!!こんな時じゃ……もう……。」
舞はもうすぐ死ぬ。もっと早くに知っていたら……僕は舞に、たくさんのことが出来たかもしれないのに……。
でも、その言葉に舞は ふふっと笑って
「今、だから……だよ。これはきっと、最後にこそ……相応しいんだ……。って、なんか私、小学生だとは思えない、ね。」
力なく笑った彼女の瞳が、少しずつ、閉じていく。
「っ!舞!!」
正真正銘、最後の瞬間に、彼女は言った。
“結を、大切にしてあげてね”
だらんと垂れ下がった腕が、僕の脚に触れる。
……冷たい。先程までの温もりが嘘のように、生きているとは、思えないように。
「あ、あぁ……。」
舞が、死んだ。死んで、しまった。
僕はぎゅっとその小さな身体を抱きしめて、泣く。嗚咽をもらしながら、ただ、ひたすらに。
「ちょっとどきなさい!!」
その時、誰かが、僕から彼女を奪い取った。
腕の中の感覚がなくなり、唐突な虚無感を覚える。そして僕は……、舞を無造作に掴む、父さんの姿を見た。そして、その横で不敵に笑う母さんの姿も。
「…………父、さん?母さんも……。何して……」
僕が声をかけると、
「チッ。うるせぇなぁ。」
父さんは僕のお腹を勢いよく蹴っ飛ばした。
「ガハッッ!!」
お腹を抱えて蹲る。父さんはそれを冷たい目で見ながら、
「捨てに行くんだよ。コイツをな。」
と言い放った。
捨てに……、行く?今、そういったのか?
「だっダメ!!父さん!それだけは!!」
必死に彼の脚にしがみつくも、容易く振りほどかれ、今度は体を強く踏みつけられる。フローリングの感触が、頬にひしひしと伝わった。
僕には、止めることが、出来なかった。
やがて、両親は家の中の掃除を終え、車で遠くのどこかに行った。
残された僕は、しばらく呆然としていたが、結の存在を忘れていたことに気がつきバッと後ろを振り返る。
……そこには
倒れている、結がいた。
「結?……っ!結!!返事してくれ!!」
急いで近寄ると、息はしていた。どうやら気絶しているみたいだ。
でも、なんで……なんで結まで……?
と思っていると
「……ごめんね……。」
と、か細い声が聞こえてきた。
「私の、せいで……。死んじゃった……。」
続けて言った、その一言。
それで、僕は理解した。結は、自分のせいで舞が死んだのだと思っている。確かに言ってしまえば、最初の原因は、結がコップを落としてしまったことだった。
でも……
僕は、グッと涙をこらえて
「お前のせいじゃない……。悪いのは、全部……」
──僕だ。
そう語りかけ、意識の無い彼女を、静かに抱きしめた。




