ACT08 綿中蔵針
異国の香辛料の香りと土埃の匂いが、周辺の空気に混ざっていた。
この通りは、バザールと呼ばれる市場のようだった。広い通りの左右に天幕を張ったおびただしい数の露店が建ち並び、様々な品物が売買されている。大荒野の真っ只中でありながら、ランカの街に流通する品物は豊富だった。
「わぁ!」
歓声をあげたレオナは、物珍しそうにバザールの中を見渡した。
バザールには、豊富な品々が並んでいる。
羊の毛で織った絨毯や、様々な色彩で輝く織物が並んでいる地区を抜けると、食料品を扱う一角に出る。
香辛料、乾物、生鮮食料品の匂い混じり合い、この地区独特の空気になっている。
店頭に並ぶ新鮮な果実や野菜は、荒涼たる大平原のどこから手に入れたのかわからないが、品物の数が多い。
レオナの生まれ育ったシドニア大陸西域とは、食文化も全く違う地域だった。果物も野菜も、故郷では見掛けぬ種類が多い。
傍の肉屋では、捌いたばかりの羊肉がぶら下がっている。
このバザールにないのは、生の魚くらいだった。
さすがに川や湖がないランカでは、隊商が運んでくる干し魚以外は手に入らない。
レオナは、バザールの露店が建ち並ぶ通りの向こう側に視線を移した。通りの彼方に旧ランカ王国の廃墟とつながる崩れかけた城門が見える。崩れかけた赤茶けた城壁が、かろうじてここがランカの城壁の一部だった事をうかがわせる。
このシドニア大陸に点在する国家の大半は、街をまるごと城壁で囲んだ城塞都市だった。外敵から身を守るために、巨大な城壁で街そのものを囲んでいる。レオナの生まれ育ったヴァンダール王国の王都レグノリアも似たようなものだった。
ストーンと名乗る商人と別れ、レオナとフォンはバザールの雑踏の中を歩いていた。
「ねぇ、フォン? ストーンって名乗った商人……本当は何者なんだろ?」
雑踏を歩きながら、レオナがフォンにささやいた。内緒話だと、異国の地でもつい声が小さくなる。異国の言葉が流れる喧噪だが、レオナが聞きなじんだシドニア大陸西域の言葉も混ざっている。誰が聞いているかわからない以上、他人に聞かれたくない内緒話は小声で会話するしかなかった。
「派手な格好はともかく、物腰は非の打ち所のない交易商人なんだけどさ……あたしには、どうしても商人には見えなかったわ」
ストーン・デオーロと名乗った商人は、とにかく奇妙な男だった。
開けっぴろげで屈託のない笑顔を絶やさないが、何かがレオナの心に引っ掛かっている。
見ず知らずのレオナ達がゾアと衝突寸前に割って入るなど、普通の神経の持ち主ならば怖くてとても出来ない真似だった。
事実、周囲の群衆はレオナとゾアの対立をおびえながら無言で見守るだけだった。ランカ自警団という名の暴力で支配しているゾアに、ランカの住民では対抗できない。そんな中、平然と喧嘩の仲裁に入るストーンの度胸は相当あるのだろう。
だが、ストーンは暴力に対抗できるような力の持ち主にも見えない。派手な姿は別として、短剣一つ持ち歩かず、ごく平凡な交易商人の姿だった。それでいて、ゾアを簡単にあしらってみせる度胸と口舌を持っている。
その落差が、レオナを戸惑わせていた。
「親切って言えば親切なんだけど……あそこで斬り合いになっちゃったら、どうするつもりだったんだろう?」
「争いを止める自信があったんだろうさ」
フォンは、そう言って肩をすくめた。
フォンは、レオナと違ってどこまでも冷静だった。
「善人すぎるのよね……普通だったら、後難を恐れて騒ぎに首を突っ込まないわ」
レオナの声が、知らないうちに大きくなってきた。
(完璧すぎるのが、逆に怪しいのよね)
とにかく、商人としての姿には不自然なほどに隙がない。
だが、その気配が違う。
商人には商人の気配がある。武人には武人特有の物腰や気配があるがそれとも違う。どんな職業にも分類できない、なんとも例えようがない人間だった。
(何か、違う)
レオナの思いを知ってか知らずか、フォンが喉を鳴らすような笑いをした。
「旅から旅への交易商にしちゃあ、商家の造りが無駄に豪勢だったからなぁ……このランカの街で、ゾアって野郎にがっちりと取り入ってやがるのかな」
「ゾアと対立するなって、暗に言ってるようなもんだったわね」
レオナは、”ゾア様”などとは口が裂けても呼ぶ気がない。
ストーンが、ゾアの手下なのかゾアに近い存在なのは間違いがない。ゾアのような気性の荒い人間を手なずけているということは、相当に人あしらいが巧みだという事だろう。言葉巧みにゾアに取り入って、商売を繁盛させている様子は一目でわかる。
暴力に物を言わせるしか能のないゾアとは、対極に位置するストーンだった。
「まぁ、ゾアって奴と衝突しないでくれって……わかりやすいっちゃわかりやすい示唆だったな。
そんな話を聞かされて……姫さんはどうする?」
フォンの問いに、レオナの答えは簡潔だった。ゾアみたいな居丈高な野郎に従う気は、レオナにはかけらもない。
「どう、って? あんな性格の悪い奴に、頭を下げるなんてまっぴらよ」
フォンが、クスッと笑った。
レオナは、ゾアを本能的に警戒している。だが、フォンはレオナと違い、レオナとゾアの対立を心底面白がっている様子が見える。
何百年と生きてきたフォンにとっては、こんな出来事は見飽きた些細なことなのかも知れない。
「姫さんは、勘働きが鋭いからな……ゾアが漂わせる血生臭さを、本能的に嫌ったのさ。
ところが、ストーンは違う。
己の利益のためなら腹の内を隠して、どんな嫌な奴とでも仲良く出来る……商人の鑑だな」
「それって……なんか、胡散臭くない?」
レオナの言葉に、フォンの含み笑いが返ってきた。
「綿中蔵針って奴だ……肝の据わり方といい、タダ者じゃないぞ」
フォンが、ストーンを評して妙な言葉をつぶやいた。
「綿中蔵針?」
聞き慣れない妙な言葉に、レオナは思わず聞き返した。
フォンが、小さくうなずいた。
「当たりは綿花のように柔らかいが、その綿の中に鋼の針が潜んでるような奴だってことさ。
見掛けは穏やかだが、その奥底にはとんでもないモノが隠されてる。商人をやらせとくにゃ、もったいない」
「なるほどね……その隠された針が怖いわね」
「毒針じゃない事を祈ってるよ」
「でも、何故あたし達を助けたのかしら? おまけに、豪華なお茶のおもてなしよ」
「試されたんだよ」
バザールの雑踏の中を歩きながら、フォンが笑った。
「世間話のふりして、しっかり姫さんの正体と旅の目的を確かめに掛かってきたのは、偶然じゃねぇぞ」
「あたしの正体と旅の目的を探る? なんで?」
フォンの言葉に、レオナの表情が厳しくなった。
もちろん、レオナとフォンの旅には秘められた目的がある。その目的がなければ、こんな灼熱の荒野を旅してくることもなかった。
レオナは、先ほどのストーンとの会話を不意に思い出した。レオナの脳裏に、ストーンとフォンの会話が蘇ってきた。
『お二人様は、どこから来てどこへ行かれるのでしょうか?』
ストーンの問いに対して、レオナが答えるより早くフォンが答えた。
『自由交易都市ボーダンからだ、長旅の疲れを癒やしたら、また次の仕事を拾ってここを出ていく』
それまで黙ってレオナとフォンの会話を聞いていたフォンが、口を挟むのは珍しい。
その時は、『余計な事をしゃべるな』と暗にフォンの態度が語っていた。
傍観者としてレオナの行動に口を挟まないフォンが、レオナを黙らせるのは珍しいことだった。
(あっ、その前もそうだ!)
フォンがレオナを制するという極めて珍しい出来事が、立て続けに二度も起きたことにレオナは気が付いた。
ゾアとレオナの衝突寸前に仲裁に割った入ったストーンの言葉に、レオナより先にフォンが同意したのもそうだった。
『ゾア様は、お役目に忠実に従っただけでございますし……お二方も、喧嘩するような理由はおありで?』
『そりゃ道理だな……こっちにも、喧嘩する理由はないな』
この時も、フォンはレオナに言葉を挟む余裕を与えなかった。
(フォンは、あたしをたしなめてるんじゃなくて……あたしの気が付かない深い何か意図を持ってる?)
我関せず、と言う態度を取りながらも、肝心なところでフォンがレオナを助けていることに、遅ればせながらレオナも気が付いた。
だが、レオナが直接聞いても、フォンのことだから笑ってごまかしてしまうことも確かだった。
「ねぇ、フォン? ストーンがあたしの正体と旅の目的を知って何か益があるの?」
だが、レオナの言葉に、フォンは直接応えなかった。
「広場に吊されてた死体を、見ただろ?」
「裏切り者のジョシュアが居たわね」
レオナの言葉に、フォンが小さくうなずいた。
ジョシュアの死体が紛れ込んでいたということは、処刑されていたのは昨夜の野盗だろう。
いずれも、レオナ達鏢師に深手を負わされた連中だった。
「死体が、鬼祟地みたいな聖域に歩いて入れるもんか」
「確かに、仕留めたの?」
「アルシアの放った矢が、しっかり急所に刺さってた‥‥あのまま百歩と歩けなかったはずだ」
◆
「おっ?」
レオナの横を歩くフォンの表情が、微かに厳しくなった。
「姫さん、振り向くんじゃない……追けられてる」
不意に、フォンの声が、レオナにだけ聞こえるような小声になった。
「いつから? 何者?」
「バザールの中に入ってから、気が付いた……さっき通り過ぎた左側の敷物屋の影にいる」
レオナの方を見るふりをしたフォンが、横目で背後を確認した。
「あの娘……さっき、ゾアと姫さんが衝突した時にも近くにいたぞ」
「あたし達が衝突、でしょ?」
「俺は衝突してないが?」
フォンの言葉に、レオナは不愉快そうに眉間にしわを寄せた。
フォンにとっては、些末な出来事の一つに過ぎないのかもしれない。数百年もの長い時間を若者の姿で生きているフォンは、常に他人事で、どこか投げやりなところがある。
その数百年の間には、こういった争いが珍しくもないほどあったのだろうか、フォンには物事を冷静に俯瞰しているようなところがある。
常に、火中の真っ只中に飛び込んでしまうレオナとは正反対だった。
「他人事じゃないんだからね」
レオナは、横を歩くフォンをにらむふりをして、背後の人混みの中に視線を走らせた。
数間先の露天商の屋台の陰に、小柄な人影があった。
褐色の布を頭から被り、砂塵よけの襟巻きで口元を隠すのはこの辺りの風習だった。レオナも馴れるまでは、道行く人々が全員同じに見えて閉口したものだが、旅を続けているうちに識別するコツがわかってきた。体格や、歩き方は人それぞれ違う。ましてや漂わせている気配は千差万別だった。
確かに、フォンが言うように若い女性のような体格と物腰をしているが、ゾアとにらみ合っていたレオナはその娘が広場の群衆の中に紛れていることには気が付かなかった。
フォンは、何も考えていない様子を見せながら、周囲に気を配っている。常に周囲を警戒しているレオナよりも、フォンの方が細部をしっかり観察していた。
「姫さんを、追けているのか?」
「あたしには、異国の街で追けられる心当たりなんてないわよ」
レオナが、不服そうに頬を膨らました。
「あの気配……どっかで出会った記憶があるんだよなぁ」
フォンが、小首を傾げた。
「さっきの、ゾアって居丈高な野郎と衝突した時に見掛けたって言ってたじゃない?」
「そんな最近の話じゃない……すっかり忘れちまったような、ずーっと昔の記憶の中に似た気配の娘がいた」
「そもそもあんな格好だと、面影も何もわかんないわよ。
どうせ他人の空似よ……そんな昔だったら、たとえ生きていたとしても今頃お婆ちゃんよ」
「違いねぇな」
謎の人物の追跡にも構わず、レオナとフォンは散歩のような雰囲気で人ごみの中をそぞろ歩きを続けていた。
「でも、用心しとかなきゃね」
レオナは、背後に神経を配りながら歩いていた。
レオナの刀術は、並々ならぬ域にある。十数人の敵に包囲されていても、単騎で血路を切り開くだけの力量を持っている。
だが、そんなレオナでさえ常に周囲への警戒を怠らない。異国のバザールの人混みなど、スリ、かっぱらいなど普通にいる。路地裏一つ奥に入れば、切り取り強盗など日常茶飯事だった。レオナの持ち物といえば、背負った大刀と頑丈な革袋一つだが、それでも狙われる。
ところが、少し先を歩くフォンと来たら、まるきりの無防備にしか見えない。酔っぱらいが、ふらふら歩いているのと大差がない。それでいて、不思議なことに隙がありそうでない。
「どうするの? とっ捕まえて問いただしてみる?」
レオナの過激な言葉に、フォンが小さく笑った。
「そうだな……」
いったん言葉を切ったフォンは、暮れ始めた西の空に視線を移した。大地の西に赤い太陽が傾き始め、焼け付くような陽光も多少和らぎ始めている。
「まずは飯だ……朝から何も食っちゃいない」
フォンのとぼけた言葉に、レオナは大きく嘆息した。
「あなたは、のんきねぇ……下手すると刺客かもしれないってのに」
「殺気は感じられないがねぇ……まずは腹ごしらえする方が先だ」
「そりゃあ……」
フォンに言われて、レオナも空腹だった事を思い出した。
昨夜の野盗騒ぎの後は第二波の襲来を夜明けまで警戒し、早朝に干し肉を少しかじっただけだった。先ほどのストーンにご馳走になった果実茶と果物も、腹の足しには程遠い。