ACT01 大荒野
荒涼とした大地に、乾いた風が吹いていた。
それは、荒れ果てた岩砂漠にふさわしく、灼熱の熱風だった。
シドニア大陸中央南部のランカ大平原の真っ只中は、見渡す限り茶色の岩だらけのひび割れた荒野が拡がっている。
眼前に拡がる大荒野が、かつては肥沃な緑地地帯だったと聞いても、この枯れ果てた現実を見ればにわかには信じ難い。
乾燥した赤茶けた大地を見渡すと、ゴツゴツとした岩塊があちこちに露出している。
この地に生える植物といえば、乾燥と酷暑に強いわずかばかりの背の低い灌木がまばらに生えているばかりだった。その小さな灌木が、強い陽射しに小さな影を落としている。
来る日も来る日も、荒れ果てた大荒野の旅だった。だが、その風景が昨日あたりから大きく変わり始めた。
数丈の高さの切り立った岩の柱が林立し、その巨岩の影を縫うようにして、大規模な隊商が進んできた。その足下は砂漠ではなく、岩だらけの硬い荒地だった。
レオナの視界に、何日かぶりに鮮やかな緑色が飛び込んできた。
大荒野の真っ只中に、奇妙なぐらい緑の生い茂った場所がある。
緑地を抱える小さな高台に、石組の建物がぽつんと残されている。
これは、かつて隆盛を誇ったランカ王国の遺構だった。
三百年も繁栄が続いたランカ王国が滅びたのは、もう二百年も前の話だという。
遙か太古に失われた文明の片鱗を残していたと言われるランカ王国も、今では荒れ果てた大荒野と化している。
だがここには、地下水をくみ上げる井戸が残り、枯れ果てた大地のわずかな部分を潤している。破壊されずに残った石畳と井戸に、かろうじて高度な文明の痕跡が残されている。
今でこそランカ大平原は荒地だが、地下深くに潜った水脈が地表に近く現れる部分には所々に緑地が点在する。地下に流れる水源に根を伸ばしたナツメヤシが強い陽光を遮り、大きな日陰を造り出している。
その日陰に、百数十騎の荷駄の群れがたむろしていた。
それは、この大荒野を旅する隊商の一群だった。
「あっつぅ!」
熱風と強烈な陽射しを嘆いているものの、レオナの口調は朗らかだった。あまり、この厳しい気候が身体に応えているようには見えない。
レオナの鮮やかな金髪と小麦色の肌は、シドニア大陸西域特有のものだった。
大きな日陰を作ったナツメヤシの樹の下で、レオナは頭から被ったフードを脱いだ。口元を覆った砂塵よけの布を下げ、レオナが素顔をあらわにした。その素顔も、長旅で陽に焼けている。
金髪を肩口で切りそろえたレオナは、一見すると少年のようにも見える細身の体格をしている。特に、動きやすいゆったりとした服装を身にまとっている今は、十七歳の娘の姿には見えない。
猫を思わせる大きな青い瞳の輝きは、強い生命力にあふれている。
レオナの瞳の色は、少し変わっている。海を思わせるような緑色がかかった青い眼は、リシャムード家の血を引く者の特徴だった。
レオナは、水筒の水を一口だけ口に含んだ。
一気に飲み干したい衝動をこらえ、ゆっくりと口をすすぐ。渇ききった今の身体には、清水が一番のご馳走だった。
この灼熱の世界では、水は貴重品だった。たとえ万金を持っていても、水がなければ生き長らえない。
革の水筒を腰へ戻し、レオナは満足そうに大きく息を吐き出した。
レオナのいでたちは、隊商を護衛する鏢師姿だった。鏢師と呼ばれる一団は、野盗の襲撃から隊商を守る職業だった。
灼熱の陽光から身を守るため、フードの付いた旅行者用の厚手のマントは必需品だった。強烈な陽光を遮るフードのついた旅行者用のマントの下は、麻のシャツと鎧代わりの革の袖なし短衣という実用本位の質素な姿だった。
乗馬用のズボンと革の履物も、土埃に薄汚れている。
「ランカまで、もうちょっと……ね」
砂塵で煙る東の地平線を眺めながら、レオナが小さくつぶやいた。
ランカ王国が栄えていた頃の道は荒れ果て、大地に残る轍と蹄の跡がかろうじて街道だった事を示している。だが、シドニア大陸の東西南北を結ぶ交易の要衝に位置するため、ランカ王国が滅亡して二百年も経った今でさえ、ランカは交易の中継点として存在している。
かろうじて大地に残る石畳の街道の痕跡をたどりながらの旅も終わりに近いのか、人馬の足跡と馬車の轍が明瞭な道を形作っている。
石畳の街道には亀裂が入り、人の手が加わらなくなって久しい事を意味している。
汗も乾ききり、レオナの額にまで乾いた塩が浮いている。十七歳の娘の姿ではない。この過酷な土地では生き抜くことが優先され、色気も何もあったものではない。
「このランカで、最後に雨が降ったのはいつなんだろう?」
わずかばかりの水を節約し、水源と水源を伝うようにしてここまでたどり着いた。
数ヶ月前には厳寒の山岳地帯にいた事が自分でも信じられないような気候の変化だった。灼熱の大荒野での過酷な生活にも、すっかり馴れた。
先ほど、深い井戸からくみ上げたばかりの清水が、傍の大きな水盤に溜まっている。だが、百人を超える隊商の全員が好きなだけ飲んだら、この程度の水はあっという間に枯れてしまう。
「水の割り当ては、一人水筒二つまでだ。
ここから目的地のランカまで、わずか二日だ! 三日目以降の水不足は心配はするな!」
隊商の指揮を執るナギドの声が、井戸の近くから響いた。レオナが視線を回すと、井戸のある場所に隊商の御者達が並んでいる姿が見える。
我先に井戸に殺到したいのをこらえ、列を作って水の配給を受けるために並んでいる。
「水くみも、皆が交代で手伝え!」
ナギドが率いる隊商の統制は取れている。
これが無統制の隊商だと、水を巡って内輪揉め一つ起きてもおかしくない。一人二人くらいは、監視の目を盗んで水を勝手に飲むとかあるが、ナギドが指揮する隊商は違った。
「他の隊商の分を残してやらなきゃ、この世界で生きる資格はない」
口調は乱暴だが、ナギドの言い分は正論だった。
荒れ果てた大地で暮らす人々には、暗黙の掟がある。僅かばかりの水源を皆が守るのは、旅人達の自衛手段の一つだった。水があるから、隊商が交易品を運ぶことができる。
レオナは、隊商の人々の列から視線を外し、傍に視線を移した。
ナツメヤシの樹につないだ馬が、木桶に頭を突っ込んで水を飲んでいる。
隊商の大切な荷物を運ぶ馬の方が、人より優遇されている。
「まぁ、水にあり付けただけでも幸運な方だ」
近くから、のんきな声が聞こえた。
レオナは、傍らに立つ相棒のフォンに視線を移した。
こういう過酷な旅に慣れているのか、フォンは不平不満を見せない。疲れの色も見せず、常に人懐っこい微笑みを浮かべている。
フォンの背丈は、六尺を少し超える程度か。鍛え抜かれた細身の身体は、レオナ以上のしなやかさを秘めている。
肩まで届く黒髪とやや褐色が掛かった肌は、東方系騎馬民族の血筋を示しているが、その瞳だけは西方諸国にありがちな青灰色という不思議な色をしている。
フォンも、隊商護衛に携わる鏢師姿だった。フォンの服装も、レオナ同様の長旅にくたびれたものだった。
フォンだけではない。
隊商を護衛する他の鏢師達も、レオナと似たり寄ったりの実用本位の姿をしている。
ゆったりとした褐色のズボンとシャツ、なめし革の袖無し短衣、フードの付いた旅行用マントという姿が、鏢師達の普通の姿だった。
だが、その鏢師の中で一際目立つのは、レオナが背負った大刀だった。刃渡り三尺、柄の長さを含めると四尺を超える巨大な湾刀だった。
一方、フォンは鏢師姿でありながら、奇妙な事に無腰だった。野盗の襲撃から隊商を護る仕事に必要な、肝心の商売道具の刀剣を身につけていない。
無防備に見えるが、フォンはそういう男だった。一緒に旅に出た最初の頃はその無謀さに心底から驚いたが、今ではレオナも違和感を感じなくなっている。
そのフォンとレオナが旅に出て、もう四月以上になる。
頭上を振り仰げば、雲一つない鮮やかな蒼空が広がっている。
嫌になるほど深い蒼空を見つめていると、この大空の奥に吸い込まれそうな錯覚を覚える。
レオナが、視線を地平線の彼方へと向けた。井戸のあるオアシスは、少し高台にある。周囲を観察するには最適な場所だった。
灼熱の熱風が、レオナの頬を打った。
地平線の向こうに陽炎が揺らぎ、熱風の吹き付ける荒涼とした大地が続いている。
地平線の東の彼方に、ランカの尖塔が微かに小さく見える。かつて、ランカ王国がこの地に君臨していたころには、夜通し篝火が焚かれ、夜道をランカへと急ぐ旅人の道しるべになっていたというが、その灯火が消えて久しいという。
◆
レオナとフォンは、先に水くみをしていた鏢師仲間と交代した。
井戸には、釣瓶が何組も横に並んでいる。井戸といっても、かなり大きな規模を持った深い井戸だった。
「ハンさん! 交代するわ!」
「おう! 結構な重労働だぜ……気合い入れて引っ張りな」
レオナに釣瓶の鎖を渡しながら、汗だくになった鏢師仲間のハンが笑った。雄牛を想わせるような肩幅を持ち、頑丈なハンでさえ汗だくになるのだから、その重労働の程度はレオナでも予想がつく。
「飲んだ分だけ、汗かくくらいだぜ」
「ありがとう、気を引き締めて掛かるわ」
レオナは、井戸から水をくみ上げる釣瓶の鎖を引いた。
確かに、鎖を引けども引けども釣瓶があがってこない。
「本当に、ずいぶん深い井戸ね」
レオナは、釣瓶を結んだ鎖を引き上げながら足下の空間を見下ろした。石組みの井戸の上からのぞいても、水面が見えないほど深い。
「だから、水脈が枯れてないんだ……地表は枯れ果てた荒地になっちまったが、元々のランカは緑豊かな大平原だったのさ」
隣の釣瓶にとりついたフォンが笑う。
この男は、重労働を重労働と思わぬところがある。気晴らしの遊びか何かのような調子で、軽やかに鎖を引いている。フォンの見かけは細身だが、その膂力は驚くべきほどのものだった。
暗闇の奥から、やっと釣瓶が見えてきた。滑車を利用した釣瓶でなければ、水くみはもっと重労働だっただろう。
「河が枯れちゃったのね」
「ああ……ここに来る途中に、案内人のジョシュアが選んだ道は、大昔の河底だったあたりだからな……」
このランカ大平原は、そのシドニア大陸の中央南部に位置する広大な平原だった。かつては緑豊かな大平原だったというが、今は荒涼とした岩だらけの荒野が拡がる荒れ果てた荒野だった。
かつてこの地帯は、大河の肥沃な三角州だったが、大河が枯れ果てた今は、干上がった河床がかろうじて緑の大地だった痕跡を残している。
干上がった河床は、そこがかつて大河だっただけに幅広く平坦で、昔の街道の細い轍をたどるよりは遙かに通りやすかった。
「じゃあ、この地下水脈から水をくみ上げられれば、元の緑豊かなランカに戻せるのかしらね」
やっと手元に引き寄せた釣瓶から、水盤に水を注ぎながらレオナがフォンを見上げた。
「地下水をくみ上げて、ランカの大荒野を灌漑する……面白い事を考えるなぁ……」
フォンが微笑んだ。
肩まで届く黒髪を微かに振って、少しばかり考える素振りを見せた。フォンの青灰色の瞳が、考え深い輝きを浮かべた。
「地下水脈の水量にもよるが、このランカはまだ死にきっちゃいないかもな」
それを聞いて、レオナは素朴な疑問を口にした。
「ねぇ、フォン? あなたでも、この荒れ果てた大荒野に雨を降らせる事は出来ない?」
「無茶を言う……俺にゃ、そんな真似は無理だ」
フォンが笑った。
レオナが知る限り、フォンよりも強大な霊力を持った者はいない。
だが、フォンは神官でも魔道士でもない。
いろいろな事情があって、訳ありのレオナの旅に付き合ってくれている相棒だった。
「野営地に行くぞ!」
水くみが終わったとたん、ナギドの号令がかかった。
「休みなしかぁ」
レオナが顔をしかめ、ナツメヤシの木につないだ馬へと急ぐ。
レオナの細い肢体は強靱さを秘め、その動きは猫族を思わせるしなやかなものだった。
「あれ?」
だが、隊商の先頭に立つナギド達が動こうとしない。最後尾を守るレオナとフォンは、ひたすら待たされる。
「なんか、ナギドとジョシュアがもめてない?」
隊商の先頭で隊長のナギドと案内人のジョシュアが言い合っているのに、レオナは気が付いた。
ジョシュアは、隊商の出発地の自由交易都市ボーダンで雇った道案内役だった。普段のナギドの隊商に付いている案内人が、出立直前に急な病に倒れたため急遽雇った男だが、目端が利き何かと重宝されている。元々はボーダンとランカを往復する隊商で使う荷車の御者として活躍していたが、足を痛めてからは案内人に商売替えをしたという。ランカの大荒野の道も熟知しており、百騎を超える隊商が安全に通れるような道の選択も巧みだった。
「どこで野営するかで、もめてるんだ」
フォンが、訳知り顔でささやいた。
「ボーダンを出てから、ずっとそうだ……ジョシュアは、開けた場所を野営地にした方が襲撃された時に逃げやすいって意見だが、ナギドは真逆の意見で、野営地を巡って毎日のように口論してる」
「フォンは、どっちが正しいと思うの?」
「状況によるな……ナギドは、極端なほどに夜襲を警戒してる。
おそらく、ナギドが野営地に選んだのは……このオアシスから東に一里も行った所だろう。あそこなら、隊商の荷駄が野営するのに適した平らな土地がある」
フォンは、この辺りの地形に土地勘がある様子だった。だが、下手に口を挟まず、ジョシュアの道案内に従っている。
水の補給の容易なオアシスで野営したいところだが、起伏の大きな岩棚にひっそりと緑を茂らすオアシスは、隊商がまとめて野営する広い空間がない。
野営地が決まったのか、隊商の荷駄が順次動き出した。
百騎以上もの隊商ともなると、最初の荷駄が動き出してから、末尾の荷駄が動き出すまでに半刻はかかる。
「ああ、じれてくるわねぇ」
イライラを隠さず、レオナがフォンに愚痴を言った。フォンの前だけでは、レオナも本音で話せる。
もともと、レオナは気が短い方だった。
最後尾の荷駄が動き出すまで、警護を務めるレオナとフォンはひたすら待機だった。
レオナの愚痴には答えず、フォンは自分の馬の鞍に縛り付けていた旗竿を立てた。
まるで、それを待っていたかのように一陣の風が吹いた。濃紺に白地で染め抜かれた隊商旗が、風をはらんで音を立てて大きくはためき、強烈な陽光をさえぎった。
「あっ、日陰を作ってくれてありがとう」
その日陰の下に、レオナは移動した。陽射しさえさえぎれば、乾いた空気のため多少なりとも過ごしやすい。
「これが、数万騎の軍勢だったら、先頭の連中が次の野営地に着いた頃に、しんがりの俺達が出発だぞ」
フォンが、そう言ってクスクス笑った。
この男は、隊商ののろのろとした動きに対しても、大して気に掛けていない。
一番襲撃を受けやすい隊商の最後尾の護衛を任かされても、フォンは不平も言わない。
もっとも、最後尾を守るフォンを襲撃する野盗がいたとしたら、それは無謀な真似だった。もし不幸なことにそんな状況になったら、レオナには想像したくないほどの、とんでもない結果が待っている。
「こんな一列縦隊で、百騎も動くと蛇みたいに長い行列になっちまうからな……そりゃ、野盗も襲撃したくなるさ」