8月1日
ミーンミーンと煩く響く蝉の声。
体が溶けるような暑さ。
今日は8月1日。
16回目の憂鬱な夏が、またやってきた。
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「それじゃ、私達は実家に帰ってくるから…2週間、お留守番よろしくね」
「普段のお小遣いもあるだろうけど、何かあったらこれ使ってくれよ」
そう告げると、父と母はテーブルに一枚のクレジットカードを置く。そして腕を組み、仲睦ましげに玄関を出て行った。
「はぁー、やっといなくなった…」
他の人なら親がいなくなるのは寂しいかもしれない。不安かもしれない。でも私は違う。
むしろ、"親"という呪縛から解放されてとても満足だ。
分かりやすく言うなら、君主から解放された奴隷のようなもの。
…それはいいすぎかもしれないけど。
まるで世界が灼熱の炎に包まれているような暑さに苛立ちを覚えながら、私は扇風機に手を伸ばす。
風を顔に浴び、苛立ちと汗を吹き飛ばす。
しかし、何か心に残るものがある。
私は扇風機に向かい、その残るものを吐き捨てた。
「父さんと母さんなんて、もー帰ってくるなー!!」
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気づくと、私は眠ってしまっていた。
瞼の奥に何かが見える。
見えたのは、綺麗な海だった。あたりを見ると、様々な人々が海を楽しんでいた。
一体どこの海だろう。そう言えば、生まれてこのかた海なんて行ったことないな。
ザザー、と波の音が聞こえる。
太陽に照らされた海は、まるで私に希望の光を与えてくれているかのように光を放っていた。
「綺麗だなぁ…」
そう呟いた瞬間だった。
あたりはパッと真っ暗になり、何も見えなくなった。
そして、次の瞬間新たな景色が瞼の奥に現れた。
「………」
現れた景色は、悲惨なものだった。
まるでこの世の終わりを見ているかのように。
先ほどまで輝き、希望の光を放っていた海は枯れ果て、空も曇天に包まれている。
あたりを見渡しても、誰もいない。
先ほどまで周りにいた人々は跡形もなく消えていた。
「は、はは。私ってば、夢の中でも孤独なんだなぁ…」
その時、目から何かがこぼれ落ちるのを感じた。
「…やっぱり私は一生孤独なんだろうな」
ゆっくりと起き上り、私はベランダの扉を開けた。
外へ出て、柵に手を掛けた時だった。
「ピンポーン」
インターホンが鳴った。
「…誰だろ。宅急便かな?」
私はベランダから部屋に戻り、玄関の扉を開けた。
「どなたですか…」
「やぁ、ユメちゃん」
明るく声をかけてきた男の人。
よく見ると、それは遠くの田舎に住んでいるはずのいとこだった。
「マサ兄?マサ兄なの?」
「うん、久しぶりだね。だいたい5年ぶりくらい?」
マサ兄は、ニコッと笑った。
その笑顔は、私にとって唯一の希望だった。
昔から好きだったこの笑顔。
その笑顔に癒されながらも、一つの疑問が浮かんできた。
「なんでマサ兄が東京に?」
「…実は、母親から聞いたんだ。君ん家の家庭事情。叔母さんと叔父さんと君のこと…あんまり上手く行ってないんじゃないかって。それで、心配になってね」
「………」
「あー…えっと、こんなこと、聞くべきじゃなかったよね。ごめん、君ん家の事情に勝手に首突っ込んじゃって」
「………」
気づけば、私はマサ兄のお腹に顔を埋めていた。
「ゆ、ユメちゃん?」
「グスッ…グスッ…た…けて」
「え?」
「助けて…!」
「…!」
マサ兄は私を優しく抱きしめると、私の肩を持ちこう言った。
「夏休みの間、僕の実家に来ないか?叔父さんと叔母さんには…僕がなんとか伝えるからさ」
突然の提案に驚いたが、今はどこでもいいからこの呪縛から逃げ出したい、という気持ちしか無かった。
「連れてって…」
その言葉を聞いたマサ兄はニコッと笑い、大きく頷いた。
「よし!それじゃ行こう!」
今後のことは何も考えず、私はマサ兄の後に続いた。
こんなことが起こるなんて思ってなくて、何度も夢なんじゃないかと疑った。だけど、頬をつねると痛みが走る。
私は解放されるのだ。
忌々しい、孤独と絶望の呪縛から。
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私の住むマンションの駐車場。
そこに、大きなバイクが止まっていた。
「マサ兄、これできたの?」
「あぁ。向こうは田舎で新幹線も走ってないし、空港もないからね」
マサ兄から渡されたヘルメットを被り、私はバイクの後ろにまたがった。
「二日くらいかかるから、その間にもどこかやってみるよ!」
「うん!分かった!」
ブルルル…という思いエンジン音とともに、大きな鉄の塊は動き始めた。
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1時間ほど走ると、周りの景色は徐々に自然が増えていく。
体を撫でていく風に改めて自由を感じながら、様々なことが脳裏をよぎった。
お父さんとお母さんにバレたらどうしよう。
家に帰れなくなるのではないか。
心が落ち着くのに比例して、どんどんと不安が込み上げてくる。
「大丈夫だよ!!」
「え!?」
「君は…僕が守るから!!」
そんなこと言われたの初めてだ。
私は流れ出る涙を隠すため、マサ兄の背中に顔を埋めた。
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それから数時間後、マサ兄のバイクが止まった。
「ユメちゃん、海来たことある?」
「ううん、初めて…」
私の前に広がるもの。
それはまぎれもない、"海"そのものだった。
それも、夢で見たの全く同じ海だ。
「ちょっと砂浜に降りてみようか」
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静かな海岸に、ザザーと波の音が響き渡る。
広大な海は夕陽に照らされ、紅く染まっていた。
私とマサ兄は海岸に並んで座った。
「…ねぇマサ兄、どうして私にここまでしてくれるの?」
「…何でだろう。多分、それほど君が好きなんだよ。あ、もちろんいとことしてね?」
「…そっか、ありがと」
私の顔は真っ赤に染まっていた。
それが夕陽によってなのか、緊張してなのかは分からなかった。
「…あ、そうだ。これ」
マサ兄から渡されたのは、茶色い石のようなものがついたペンダントだった。
「それはね、布袋石といって幸運を運ぶと呼ばれてるものなんだ。厳密には、イルカの耳骨らしいんだけど」
見た目はただの石のようだった。
だけど、わたしにはとても特別なものに思え、すぐに首につけた。
「似合ってるよ!」
「こんなものまで…ありがとう」
「ううん、気にしないで。さ、どこか泊まれる場所を探しに行こうか!」
私とマサ兄は立ち上がり、バイクにまたがった。
「さぁ、行くよ!」
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結局、宿泊場所は見つけられず民家に泊めてもらうことになった。
夜道を彷徨っていた私たちを、近所のおばあちゃんが見つけて声をかけてくれたのだ。
「さぁさぁ、晩御飯だよ。遠慮せずお食べ」
和室のテーブルの上に、色とりどりの料理が並べられた。
「こ、こんなに…いいんですか?」
「もちろんだよ!おかわりもあるからねぇ」
「なんか、申し訳ないことしちゃったね」
マサ兄はコソコソっと呟いた。
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ご飯を食べ終わり、お風呂も貸してもらえた。
お風呂から出た後、食料やら水やらを調達するためマサ兄はコンビニを探しに出かけた。
「いやぁ、なんだか孫が帰ってきたみたいで嬉しいねぇ」
「お孫さんは独り立ちされたんですか?」
「…孫はね、3年前の夏に川で溺れて死んじまったんだよ」
「…!」
そう語るおばあちゃんの顔は、とても悲しいものだった。
「それで、去年爺さんも死んじまって…息子とも連絡が取れない。今じゃ孤独に一人暮らしさ」
その話を聞いて、私は思い知らされた。
孤独なのは私だけじゃなかった。絶望を感じているのは私だけじゃなかったと。
「そーだったんですね…失礼なこと聞いてしまって…」
「いやいや、いいんだよ。私ももう人生終盤、いつ逝っちまうかも分からない時にまたあの頃の楽しさを思い出せたんだから…」
そう呟くおばあちゃんの手には、少し色あせた家族写真が握られていた。
「………」
なんだか自分が馬鹿みたいだ。
孤独は自分だけだと思い込んで、辛いのは私だけど思い込んで…。
周りに目を向けたことが無かった。
私よりも辛い人がここにいるじゃない。
写真を見つめるおばあちゃんを見ていると、なんだか心が廃れて行く気がした。
孤独。その一言が頭をぐるぐる巡る。
思い出したくない"記憶"が蘇ってくる。
辛い学校の日々。
愛をくれない家族との日々。
怖い。怖い。
思い出すのが怖い。
だけど、"記憶"は残酷にも私を包み込んで行くのだった。
続く。
投稿は不定期で行います。