第九十六話「強き決意と」
叩きつけられた杯は無惨に砕け、酒が地面の上に敷かれたカーペットを濡らした。
「くそっ! カールの奴め、相変わらずの汚い戦だ!」
ゼファー陣営の幕舎、アレキサンダーは何杯も飲んだ酒に満足できずに荒れていた。
その酒の肴はありがたくもない負け戦。
出撃した一万五千の手勢によるフェルノール陣営に対する突撃は落し穴という罠にかかってしまう、一騎討ちをさせておいて肩透かしを喰らわせたのも陣の目の前に作られた落し穴に誘い込み撃破する為の誘いだったのだ。
激怒したアレキサンダーはそれに見事に引っ掛かり、フェルノール陣営からの弓矢の嵐とそれに続く執拗な追撃に会い、穴に落ちた味方を引き上げて撤退した時には実に四千を越える兵を喪っていたのである。
「次はこうはいかぬ、俺の前に引きずり出してやる!」
悔しさに震えるアレキサンダー。
酒癖が悪い訳では無いが、荒れる酒だ、そんな物に部下を無理矢理に付き合わせる程に彼は幼稚ではなく、酒の世話をする従卒だけを付けて飲んでいたのだが、そこに腹心のマック少将が緊急の面会を求めてきたので取り敢えず杯を置く。
「どうした? 奴等が調子に乗って出てきたか?」
「いえ、そうではありませんが」
「ならなんだ?」
「ゼファーからの緊急の報告です、南部諸州連合に居られますセフィーナ皇女殿下が会見をし、我々の陣営を皇帝陛下への赦せぬ反乱勢力とみなすという見解を公表したそうです」
老将マック少将の報告の声には緊張感があった。
アレキサンダーがどのような反応を示すか検討がつかず、手が付けられない激怒も予想できたからだ。
だがアレキサンダーの反応は案外だった。
「ほう、それはゼファーから報せてきたのだな?」
「はい……」
「なら構わん、その辺りの対処は戦をやっていない奴等に任せるとしよう、ハナから俺はセフィーナを当てにしていない」
そう言うと再びアレキサンダーは、
「それにゼファーに残したアルフレートが素直にそれを俺に伝えて来たのなら、今更俺を裏切るつもりはないという事だろう、ひとまず後方を任せておけるという事だ」
と、置いていた杯をあおる。
「なるほど」
少将は頷く。
セフィーナの判断。
それが今回の内戦の中でも国民の関心事であった、英雄姫と呼ばれて危機迫る帝国救国の英雄と見られるセフィーナが味方になった陣営が国民や他の貴族からも圧倒的な支持をされるという事は確実であるからだ。
戦略的にはサラセナやアルフレートの助力を得たといってもゼファー陣営はとても五分では無い。
贔屓目に見ても勝率は三割五分あれば上々であり、それこそセフィーナの助力を得たかったのだが……それを得ることは出来なかった。
だが帝国の誇る武勇の持ち主であるアレキサンダーは初めからその少ない勝算を承知で、逆転の一手を他力本願に賭けるという戦いを望んでいないのだ。
部下としてはセフィーナの決別に狼狽えられるよりも、初めから頼りにしていなかったと本気で言えるアレキサンダーが頼もしく思えてくる。
『緒戦はしてやられたが……アレキサンダー皇子も戦場に自らを輝かせる英雄なのだ、簡単には負けない筈だ、どにしろ私は老い先短い老将だ、そういう英雄の下で戦えるのは勝ち負け無しに軍人としての運はそう悪くはない』
マック少将はそう確信して、アレキサンダーに頭を下げて踵を返す。
アレキサンダーは少将の後ろ姿に、ご苦労とだけ声をかけ、幕舎から出ていくのを確認すると、
「しかし、あれほどの美姫で才も心もあるのだからな、居ても居なくても事の中心はいつもセフィーナだ、そうだとしたら俺達は一体何をやっているのだろうか」
そう呟き、傍らに居た従卒にお前も呑まんか? たまには良かろうよ、と杯を差し出した。
***
一方、緒戦に勝利を獲たフェルノール陣営は大いに士気が上がり、更にセフィーナが立場をハッキリさせ改めて自分達の味方になってくれる事に兵達は歓喜に沸き返った。
小さな砦まで作り、長期戦の構えすら辞さない陣内、カールの幕舎に夕食を兼ねた先の話し合いに訪れていた。
「やっとセフィーナが決意してくれたね?」
「決意?」
クラウスが上機嫌に声を弾ませると、カールはそれが気に入らないと言った風に端正な眉を歪ませる。
「そうじゃないかい? セフィーナだってまさかアルフレート兄さんが向こうに付くという読みは出来なかったらしく、ショックで倒れて暫く閉じ籠ったらしいよ」
「ふん……セフィーナはそういう所がまだ子供だ」
気の効いた事を言う訳でもなく、カールはただ不機嫌な態度を隠さない。
セフィーナの事となると、冷徹な戦略家の顔を持つカールも年少のサーディア相手にもむきになる所があった。
「でも、これで態度が曖昧だった貴族や軍関係者、そして国民達の支持は大きくこっちに向くよ、セフィーナはよくやってくれたと言うべきじゃないかい? やはりセフィーナの影響は何事にも大きいんだよ」
「それはそうだな」
不機嫌ながらも頷いてワインを一口飲むカール、クラウスはやや身をテーブルから乗り出し気味に話を切り出す。
「そこでだ、まだそれでもアレキサンダー兄さんやアルフレート兄さんに肩入れしている貴族がいるんだ、そいつらも二人を見限る切っ掛けを与えればいい、戦わずしてゼファー派を一掃できる策を考えたんだ」
「却下だ」
「……なっ!?」
カールの冷たい返答にクラウスは拍子抜けする、何も聞かずに却下では無理もない。
そんなクラウスにカールは容赦のない睨みを叩きつける。
「お前の事だ、セフィーナを利用した策だろう?」
「……解るかい? でも中身までは解らないだろ? これでゼファー派は国民から総スカンに出来るんだよ」
「自作自演のセフィーナに対する暗殺未遂を起こす」
「……」
「そんな所だろう?」
図星だ。
押し黙ってしまうクラウス、カールは拳で頬杖をついて嘲笑に近い表情を向けた。
「流石はカール兄さんだね、どうだい? もちろんセフィーナを本気で暗殺するつもりはない、それを起こすだけで相手が否定しようとも犯人は自動的にアレキサンダー兄さんやアルフレート兄さんになるよ、そうなれば……」
「却下だ」
カールは強い口調で再び告げた。
その顔にはもう嘲笑は無い。
「俺はこの戦いにセフィーナを直接関わらせるつもりは初めから無かった、それがあったからこそ南部にセフィーナをやるのを最終的には認めたのだ」
「どういう事だい?」
「俺はアレキサンダーやアルフレートを倒すのにセフィーナの力を借りるつもりはない、己の力で奴等は倒す」
「効率的じゃないと思うけどね」
「効率云々では無い、俺達に限らず帝国はセフィーナに頼りすぎたのだ」
「このままじゃセフィーナを皇帝にでもしなくちゃいけなくなっちゃうよね?」
肩をすくめるクラウスにカールの鋭い瞳が向けられる。
言葉は無いがその瞳には殺気すらも含まれていた。
クラウスは悟る。
この戦いはカールが最高権力である皇帝の座に就く為の戦いなのだ。
そしてカールが皇帝の座に拘るのは……セフィーナを名実ともに自らの物にする為であり、その戦いにセフィーナの力を借りる事を良しとしないというのがカールのプライドなのだ。
「セフィーナは皇帝にはならない、セフィーナは将来の后妃になるのだ」
カールはそう言ってクラウスを見据える。
それを邪魔するならば誰が障害でも構わない、誰であっても排除するだけ。
例えそれが今の味方であろうとも構わない。
お前はそれを邪魔するつもりか?
言葉にしていないがカールにそう問われているかのような気がしたクラウスは、
「セフィーナがそれで良ければ僕は構わないさ」
と、だけ答えるのがやっとであった。
続く




