第九十四話「暗き部屋からの帰還」
アンデレルタ丘陵地帯の東に陣を構えたカール率いるフェルノール軍の陣地は偵察部隊からの報せに震えた。
山脈を後背に陣を構えていたゼファー軍が遂に動き出し、その先頭にはアレキサンダーが立っていると言うのだ。
「ゼファー軍の軍勢は約一万五千から八千、おそらくアレキサンダー皇子の直轄軍! 真っ直ぐに我らの陣に迫る模様です」
幕舎の中、情報参謀が緊張気味に報告書を読み上げると、幕僚達からは様々な意味での息が漏れる。
やはり出てきたか。
どう対処すれば良いのだ? 相手はアイオリア随一と言っても過言ではない武勇の持ち主だぞ?
守りを固めて迎撃しない方が無難だろう。
幕僚達の思いは様々であるが、共通している認識としては初めから怪物が現れたという事である。
「カール兄さん、ここは守りを固めているんだから様子を観てみるべきじゃないか? 相手は一万五千だ、如何にあのアレキサンダー兄さんでも陣を打ち破るのは難しいのは解っている筈だから無理攻めはしてこないだろう、いわゆる何も起きないさ」
クラウスが意見を述べる、この席でカールに一番忌憚なく発言出来るであろうクラウスの意見は多くの幕僚達が賛成できる案であった。
クラウスに同意する意見が幾つか上がるが、それでは消極的過ぎて相手は調子づき、こちらは意気消沈してしまわないかという反対意見も何人かの者が述べた。
カールはそれらの論争を暫く黙って聞いていたが、ゆっくり顔を上げると、注視を命じるようにテーブルを人さし指でトントンと叩く。
予め決めた訳ではないが、幕僚達は論争をピタリと止めてカールに注目した。
「どちらの意見も最もだ、そこで策と言うほど高度な物ではないが悪戯が思い付いた……アレキサンダーと直接戦いたいという腕に自信のある者を佐官以上の者に限って召集しろ、もしアレキサンダーに勝利するか、取り逃がしても一騎討ちを優勢に終えられる者がいたら二階級特進の上、アイオリアの分家筋に婚姻か養子の口を私が保証してやる、全軍陣地防衛の準備をせよ、私は兵二千を率いて出撃する!」
口元をやや緩めた言葉通りの悪戯っぽい笑みを見せたカールの言葉に一同がざわめき立つ。
二階級特進もそうだが、分家とは言えアイオリアとの婚姻を世話すると第一皇子に保証されたのだ。
帝国においてアイオリアの存在は絶対。
先天的にアイオリアに生まれた者とそうでない者は天地の違いがあり、アイオリアに生まれなかった者がアイオリアとなるには養子縁組をされるか、アイオリアの家の娘と婚姻し、婿として家に入る位しか道がなく、どんなに戦場で功績を上げてもそんな事が褒美として成った者はこれまでの歴史でも滅多にいないのだ。
カールの意図が何処にあるかは解らないが、この宣言が嘘である訳がない。
戦闘準備が慌ただしく始まった中で佐官以上の希望者が募られたが、怪物との戦いに勝利した勇者にはファンタジー小説で魔王を倒した勇者の様な栄光と富貴が約束されていると、選抜する方が困る位に希望者が殺到したが、その中でも武勇名高い二人が選ばれたのであった。
「何を思い付いたか知らないけど、兄さんもアレキサンダー兄さんの出鱈目な強さはわかっているだろ?」
「ああ……だからこそ、あんな怪物と一対一で闘うのを部下だというだけで自分がする気も無いのに強制できない、リスクとリターンを明示して自らのやると決めた人間でないとな」
陣地守備隊形を整え、様々な準備にかかる陣中を見据えながらクラウスにカールは答えた。
「それにカール兄さんは二千だけを率いて、一万五千の前に出ていくつもりなのかい?」
「ああ……そうだ、お前も来るか? 少しは面白い見世物を見せてやる自信があるのだが?」
「遠慮するよ、僕はまだ死にたくないからね、母さんに親不孝者扱いされる」
カールの誘いにクラウスはとんでもないと両手を振る。
クラウスの母親は現皇帝の寵愛を受けるデオドラート妃であり、彼女はクラウスをとても可愛がっている事でも有名だ。
「そうだな……お前に何かあったらデオドラート后妃が心配すると出発前に父上も言っていた、仕方ないな陣で待っていろ」
「大丈夫かい? アレキサンダー兄さんは同じ戦力で正面から戦うならセフィーナだって敵わないんだよ?」
一見無謀とも思えるカールの行動を心配するクラウスにカールはいつもの不敵な笑みを浮かべ……
「全く問題ないな、俺はアレキサンダーと戦などするつもりは全く無いのだからな」
と、自信満々に答えたのだった。
***
「出てくるまで声をかけるな、来客も全て断れ、本国からの連絡も全部だ、必ずだぞ、いいな!?」
リンデマンが帰ってから数時間後、セフィーナは周囲にそう告げるとホテルの一室に籠った。
リンデマンとの会見の様子はメイヤしか知らない、シアと取り戻せぬ擦れ違いを泣きはらした彼女は誰にも会わずに居たからである。
しかしシアの亡命の情報は外務省から緊急伝が本国にも、セフィーナ達の使節団にも届いており……
「セフィーナ様が可哀想、慕っていたアルフレート様にも、頼っていたバイエルライン中将にも離れられてしまったのだから、心身ともに疲れきってしまわれたに違いないわ、連合政府に許可を取りゼライハに戻らせて貰えないでしょうか?」
護衛の少女の一人がポツリと呟く。
この度の護衛の少女達は普段のセフィーナの護衛隊の中でも更にメイヤが選んだ精鋭で、戦闘力はさりながらセフィーナへの忠誠心も強く、何よりもセフィーナの事を、という少女達ばかりである。
彼女達に国家間の取り決めなど意味がない。
「余計な事はしなくていいよ、とにかく皇女殿下の言う通りにする事だよ」
メイヤがやってくる、そして……
「ともかく……私はセフィーナが閉じ籠るなら出てくるまで待つだけ、部屋にはトイレもあるし、何時まで閉じ籠るかはわからないけど待つだけ」
そう言うとドスンと座り込む。
それからセフィーナが部屋から出てくるのに六十二時間。
メイヤは数回のトイレ以外は全くドアの前を動かずに居たのだった。
***
六十二時間ぶりに姿を現したセフィーナは始め何も言わず、切れ長の瞳でメイヤや交替でその場に居た警護の少女達をジッと見据えた。
「セフィーナ様っ!」
「……」
少女達がセフィーナに駆け寄るが、セフィーナは黙ったままで視線をメイヤに止めた。
瞳を交わすメイヤとセフィーナ。
「セフィーナ……」
セフィーナのまるで殺意を持っているかの冷たい切れ長の瞳にメイヤは思わず眼を見開いて呟いてしまう。
この瞳が悲しみに暮れ、涙を流した瞳なのだろうか?
そう思う程にセフィーナの瞳には薄ら寒さすら感じさせる何かが宿っていた。
「メイヤ」
「なに?」
「お前もどうせ入ってないんだろう? ここのホテルの風呂は広かったな? 一緒に風呂に入ろう、あと……この部屋はもう使わぬ、風呂に入っている間に別の部屋を用意させよ、私の滞在中はもうこの部屋は誰にも使わせるな」
セフィーナはメイヤを風呂に誘うと、傍らの少女にそう告げて廊下を歩き始める。
「メイヤ様……」
「セフィーナの言う通りに、私は一緒に行く」
セフィーナの様子が予想していたのと違っていた事を心配した部下にメイヤはそう答えて、セフィーナが出てきた部屋を見つめた。
木戸もカーテンも下ろされ真っ暗の部屋。
開け閉めする音は聞こえなかったので、昼間も真っ暗して過ごしていた事が予想できる。
セフィーナはその間に、ここで何かを振り切り、暗闇に置いて出てきたのではないだろうか?
十数年見てきたセフィーナ・ゼライハ・アイオリアという少女とは別の存在に成り変わり、外に出てきたのではないだろうか?
そんな事を感じながらメイヤは静かにドアを閉めた。
風呂に入るセフィーナは先程までの様子は失せて、表面上はいつもの通りだった。
「ここのホテルの風呂は湯が良いな、ここに比べたら皇帝居城の地下浴場は熱いだけのお湯だ」
「仕方がないよ、ここは高級ホテルだし、温泉の質は南部の方が良いって聞くし」
「帝国も温泉の質では敵わんな」
もちろん貸し切りの大浴場でセフィーナとメイヤはいつもの様に会話をする。
「メイヤ、私は何日部屋に籠っていた?」
「今日で三日目の夜」
「そうか、どうりで湯が恋しいわけだ」
湯船で両手をグッと伸ばすセフィーナ。
大陸にその軍功と同じくらいに語られる美貌を持つセフィーナの肌は瑞々しく湯の玉を弾く。
「明日からはキチンと予定をこなすからな」
「わかった、外務省の人に伝えておく」
コクリと頷くメイヤ。
セフィーナのこれまでの予定は全て白紙になった状態だ。
連合側も事情が事情だけにそれにはとやかく言っては来ないが、迷惑をかけた相手がいるのは確かである。
でもメイヤにはそんな事は関係が無かった。
目の前にいる大切な幼馴染みが護れさえすれば、それは全てに優先される事柄であるのだ。
「そろそろ出るか?」
「うん」
特にそれからは何を話す事もなく、しばらく湯船に浸かってから風呂を出た。
脱衣場には既に一人の護衛の少女がいて、もちろん廊下にも他の者が詰めている。
「風呂の次は食事だ、肉料理が食べたい」
「引き籠って出てきたら風呂だの肉だのと、迷惑な姫様だなぁ」
タオルで濡れた髪を拭きながらいつもの調子が戻ってきたセフィーナに、メイヤもお馴染みの抑揚もない口調での歯に衣着せぬ物言い。
「そうだ、私はワガママ姫だからな……だから」
ガウンを纏ったセフィーナは両手を上げて身体を伸ばしてからメイヤに振り返る。
「これからは少しは自分の好きにさせてもらうさ、無論結果は自分の責任だがな」
そんな事を言い出した幼馴染みにメイヤはコクリと頷くのであった。
続く




