第九十話「苦難の先の絶望」
泣いていた。
訳も解らず、それを解ろうともせずに、ただただ起きてしまった事態に泣いていた。
これからもずっと親しい人で居てくれる筈の者がまさかの一面を見せた時、少女は例外無く涙を流すのだろう。
この一年、ガイアヴァーナ大陸を西に東に駆け回り、英雄姫とまで呼ばれた少女もその定めからは逃げられなかった。
アルザード州の高級ホテル。
演説中、アルフレートがゼファー派に加わった事を知って卒倒したセフィーナは連合軍兵士まで使った厳重な警備の敷かれたホテルの一室に引き込もっていた。
食事はメイヤが部屋に差し入れるが、本人は顔を見せたくないとドアを少しだけ開けて受け取り、返されるトレイにはそれが殆ど残して帰ってくる。
メイヤは部屋の前にずっと詰めていたが、部屋から漏れて耳に入ってくる嗚咽は一生忘れられなかった。
二日目の夜は部屋からは物音一つしなかった、食事の差し入れにも反応しなかったので、嫌な想像を掻き立てられたメイヤの部下である護衛の少女がドアを蹴破ってでも、と申し出るがメイヤはセフィーナはそんな事しない、とそれを了承しなかった。
そして……今日が三日目の夜である。
「替わります」
「平気」
部下の少女とメイヤでこの三日の間に何度も交わされたやり取り。
得物のアックスを持ったメイヤはセフィーナと同じくロクな食事も摂らず、部屋の前の廊下に詰めたままになっている。
場を離れるのはトイレの時だけ、風呂にすら彼女は入っていなかった。
「じゃあお風呂に入ってください」
「部屋にはトイレはあるけどお風呂はない、セフィーナも入ってない」
「……でも」
メイヤにとっての絶対的主従であるセフィーナの名前を出されてしまうと周囲も強くは言えない。
護衛の少女達は困り果ててしまう。
結局、ドアが開いたのは三日目の夜、虚ろな眼をした一人の傷ついた銀髪の少女はメイヤに風呂に入りたいとだけ告げた。
アルフレート・ゼイン・アイオリアのゼファー派への参加はセフィーナだけなく南部諸州連合にも大きな衝撃を与えた。
マスコミはセフィーナがアルフレートを兄として慕っていたのを報じ、彼がゼファー派に参加したとなればセフィーナの動向は変わる可能性があると書き立てる。
様々な政治的な予定がセフィーナにはあったが、とてもそれをこなせる状況では無くなっており、連合の外務省の協力を得てそれらは先送りかキャンセルされた。
全く無言で時間を過ごす訳ではないが、活気はほぼ無く風呂と食事以外はメイヤすらも部屋には入れずに籠ってしまう。
もちろん様子はホテルを張る記者達の知るよしになり、新聞報道は対象のそれと反比例し活気を増す。
人々の関心が寄せられたのは英雄姫セフィーナが今までの発言通りフェルノール派を支持するのか、慕っている兄アルフレートの属するゼファー派に支持を変えてしまうのかという点。
それを調べなくてはいけない記者達の悩みの種はセフィーナがホテルに引き籠った状態である事だ。
南部の国民が自国の政治家よりも興味があるセフィーナの情報は常に何か流し続けなければ新聞の売上に直結してしまう、引き籠っていますでは話にならず、何とか新聞が売れる見出しを書かなくてはならない。
各新聞社の記者達はどうにかしてセフィーナの情報を得ようとするが、警備が厳しいので上手くいかず、乏しく出所のハッキリとしない情報でインパクトのある見出しを各新聞は争う様に書き始めたのである。
***
国境の街という物は独特の雰囲気がある。
両国の情報収集の目が光り、両国を相手に商売する者が命を賭けた儲け話を酒場で低い声で話し合う。
それは帝国と南部諸州連合が歴史上初めての停戦条約が成り立っても同じあり、また帝国での最大規模の内戦の幕が開いたともなれば楽観的な空気はそこには無かった。
南部諸州連合リオレタ州デイルザイア。
そこは中部国境のハッファ山地を連合側に降りた先にある山の麓の街である。
反対の帝国側に山地を降りるとヴァルタ平原。
セフィーナが大規模作戦に置いて初めて名を広めた第四次ヴァルタ平原会戦の舞台である。
国境のハッファ山地は連合の支配地域であり、連合軍は山地の各所に砦を張り巡らせて山地全体を要塞化していて、まだこの方面から帝国軍の大規模侵入を赦した事は無い。
軍事戦略上はハッファ山地の要塞化は連合軍にして功績と言えるのだが、山地の各所に築かれた砦はもちろん自給が出来る筈もなく、十分な補給を山地全体にしなければいけないという制約も産んでしまった。
路などを造って補給輸送を潤滑にしようとすれば、攻撃してきた帝国軍にも路を利用されてしまい折角の自然を利用した山地防御に影を差してしまう。
結局、連合軍がした対策は補給休養地点を山麓に作り、なるべく兵站の負担を減らすという物で、その拠点に選ばれたハッファ山地の連合側の麓にあった小さなデイルザイア村はたったの十数年で中規模と言っても差し支えがないデイルザイアの街に生まれ変わったのであった。
その街の大食堂の隅のテーブルにシアとルフィナは座り、食事をしていた。
「シア様、上手く越えられましたね」
越えられた、というのは国境のハッファ山地の事だ。
連合軍の支配地域のハッファ山地を見つからずに踏破出来たというのは、帝国軍が研究してきた機密扱いの幾つかの密偵潜入のルートをシアが知っていた事と、山中で遭遇した計四人の連合軍兵士哨戒兵をルフィナが十五とは思えない戦闘能力で倒したからである。
二人は山中で帝国軍の軍服を脱ぎ捨て、倒した兵士の服を着てデイルザイアの街に入ると、哨戒兵士の持っていた連合紙幣ですぐに適当な私服を手に入れた。
デイルザイアの街はハッファ山地の補給基地であるから軍服を着ている女性兵士は別に不自然では無かったが、シアはともかく十五歳で身体も小さいルフィナには哨戒兵士から奪い取った軍服は大きくどうにも不自然に見えたからである。
私服に着替えた二人はデイルザイアの街に仕事を探しに来た近隣の村の者という口裏合わせをして、とりあえずは街で食事と情報収集しながら疲れた身体を休める事にしたのだった。
「本当に助かったわ、私やヨヘンも士官学校の格闘戦術の評価は悪くなかったけど、流石にあなたには勝てないわね」
「あはは……メイヤさんの訓練は凄くキツかったですから、出来ない娘は容赦なく任務を外されましたし」
「なるほどね、メイヤならね」
セフィーナの護衛の訓練をメイヤが手を緩める訳が無いというのは納得出来たメイヤはそう答えてテープルの上のピザを口に入れた。
山中で倒した四人の兵士達は各々が幾らかの現金を所持していた、前線の砦や陣地では暇な時には賭け事に興じたり、慰労の娘などにも金を渡したりもあるので、幾らかの現金を持っているのは当たり前だ、そして何よりも信頼できるのがそれを常に身に付けて置く事である。
四人の合計を合わせるとそれなりの金額になり、停戦中にそんな事をしてしまうのは気が引けるが、シアも聖人君子ではないので利用できる物は利用させてもらっている。
「上手く隠したつもりですけど、捜索が始まりませんか?」
「多分平気、もちろん居なくなった事はすぐにバレるだろうけど、まずは山中を捜索してからだろうから、それに私達は姿を見られた訳でも手配された訳でもないから、堂々としていた方が疑われないわ、あなたも食べなさいな」
周囲を気にして声を潜めるルフィナにシアは笑いかけ、ベーコンのピザを勧める。
倒した兵士の死体は埋めるまでの時間は無かったが、伐採などの手が入っていない樹木や背より遥かに高いブッシュに二人で隠したので暫くは見つからないだろう。
それに見つかったとしても帝国軍の密偵が入り込んだとはなるだろうが、目撃もされていない自分達に捜索が行き着く可能性は限りなく低いとシアは結論付けていた。
今は何よりも不審がられない方が大切である。
「頂きます」
安堵した様子でピザを食べ始めるルフィナ。
その様子はとても格闘術を徹底的に仕込まれ、山中で自分の出る幕も無く四人の兵士を惨殺した少女にはとても見えない。
仕事を探しに田舎から出てきた垢抜けない少女そのものだ、シアには一言も言わずにいたが空腹だったのだろう、ピザを美味しそうに食べるルフィナが微笑ましくなり口元を緩めるシア。
そして何気に周囲を一瞥する。
客層はそう悪くない食堂だが、大きいだけあって雑踏のような賑わいは仕方がない。
特に自分達に注視している視線も感じず、とりあえずは安心して水の入ったカップを口に運ぼうとしたが、ふと近くのテーブルで一人で食事する老人が眼に入り手が止まる。
いや、眼に入ったのは老人ではなく、彼が酒と鶏の揚げ物を食べながら、広げている新聞の見出しである。
「……そんな」
シアは震え出した手でどうにか落とさず、カップをテーブルの上に戻す。
「シア様?」
異変に気がついたルフィナを無視して、シアは老人に歩み寄ると、その手から新聞をサッと奪い取る。
「なっ!? ど、どうしたんだ? なんだ!?」
「シア様っ!!」
そのいきなりの行動に立ち上がるルフィナ。
今は小さないざこざも命取りだ、それは十分に解っている筈のシアが何故そんな事をしたのか?
ピザをテーブルの上に放り投げシアに駆け寄る。
「こ、こらっ、新聞を返せ! 読みたきゃ自分で買えっ!」
「すいませんっ、買います、買います! すいませんでした、これで私たちに譲ってください! こちらの方は少し疲れているんです、すいません!」
驚きながら当然怒り出した老人にルフィナはペコペコと頭を下げて、新聞の相場の十倍の銅貨をテーブルに置くと、老人はまぁ良いだろうと怪訝な眼でシアを見ながらも引き下がる。
そのやり取りの間もシアはプルプルと震えながら、新聞を広げて記事を睨み付けていた。
「シア様っ! とりあえず席へ!」
幸い老人が引き下がってくれたので大した騒ぎにもならず、周囲の雑音にシアの奇行は掻き消された。
ルフィナはシアの手を強く引き、元のテーブルに戻らせる。
「何で……」
「これを見なさい!」
問いよりも早くシアが新聞をテーブルに叩きつけたので、ルフィナはそれを数秒見たが……
「ウソ……」
あまりに強い衝撃に声を上げてしまう。
そこには……
「アルフレート・アイオリア皇子、ゼファー派に呼応し北部にて兵を挙げる、これによりセフィーナ皇女がゼファー派支持の可能性大との事」
と、いう一面見出しが踊っていた。
何も聞かず付いてきたルフィナだったが、帝国内に居場所が無くなったシアが誰を頼りに危険を犯して南部諸州連合にやって来ていたのか、唇を噛み締め額に汗を流し始めた彼女から十二分に理解できた。
「ルフィナ……」
「嫌です、戻りませんし離れません、何があっても!」
絞り出す様に切り出すシアにルフィナは強く首を振って彼女を睨み付けたのだった。
続く




