第七十六話「新たなる戦いと」
停戦条約の条件面では完全に足元を見られた感のある帝国であったが、完全な外交的敗北という訳ではなかった。
何よりも軍事的には不利な時期に停戦条約を成立させた自体が外交的な成功であると言えるし、その期間についても最低一年間、その後についてはセフィーナが南部諸州連合に留まり続ける事を条件に両軍が協議して期間を更新するという内容は好都合であった。
言い換えれば帝国からすれば、セフィーナを人質同然に取られてしまっているというデメリットがあっても、どうにかしてセフィーナを帝国に引き揚げさせてしまえば、停戦は自動的に更新されないので、停戦の終了時期を選べるというメリットがあるのである、どにしろ再び開戦となればセフィーナの能力無しに乗り切れる自信は軍事再建途中の帝国にはなく、どうにかしてもセフィーナを帝国内に戻って来させなければ話にならない、その際に起こる悶着は今は気にしている場合では無いという何ともあやふやなメリットに過ぎなかったが......
セフィーナ旅立ちの日。
フェルノールの皇帝居城の前には数週間の謁見式にも劣らない人々が詰めかけていた。
停戦条約の締結、セフィーナの平和大使としての派遣は両政府から発表され、南部諸州連合の人々にはある程度の満足、帝国人民には大きな不満を与えていた。
帝国人民としては停戦条約に不満があるわけではない、人質同然に南部にセフィーナが連れていかれるのが納得いかないのである、彼らは歓声ではなく不平等な交渉結果への罵声を皇帝居城に浴びせていたのである。
「まるで地響きだな」
旅立ちの支度を終え、自室を出ながらセフィーナは外から聞こえてくる人民の声に感想を述べた。
「みんなセフィーナに行ってもらいたくないんだよ、セフィーナはそれくらい皆に慕われてるんだ」
メイヤが後ろに続く。
平和大使には多数の護衛を連れていく訳にはいかない、セフィーナが連れていくのはメイヤを始めとする六人の護衛と外務省の随員だけである。
「セフィーナ様、カール様が出立の前に少しだけ時間を頂きたいとの事です」
廊下を歩いていると、カールの長年付いている執事であるベルナウゼンという初老の男が恭しく頭を下げてきた。
「わかった、メイヤは先に行って厩舎で待っていろ」
馬車の待つ厩舎に先に向かう様にメイヤに告げ、セフィーナはベルナウゼンの後に付いてカールの私室の前にやって来た。
自分が不在中の政治的、軍事的な打ち合わせは既にカール、アルフレート、クラウスと済ましている、出立の前に私的な用事が兄にはあるのだろう、とセフィーナは考えながら部屋のドアをノックして、部屋に入る。
「出立の前の呼び立て、済まなかったな」
そこには軍服に身を包んだカールがいた。
上級大将の金の勲章に、黒を基調とした帝国軍の制服に身を包む兄はまるで少年少女の読む読み物に出てくる王子その物だ。
だがその顔は何処か影がある。
「いえ、構いませんが、私に用事がありましょうか?」
「私はお前に謝らなければいけない」
「兄上!?」
カールはセフィーナに正対する。
その顔は真面目その物だ。
「お前を南部に人質に出すような事態になったのは俺の無能がいけないのだ、無能なだけでなく愛する女を敵に差し出す卑劣漢にも成り下がったんだ、俺は!」
自分より頭ひとつは大きいカールが肩を震わせていた、もちろんその事については、アルフレート、クラウス、そしてこの国の至高の座にある皇帝パウルにも謝罪をされ、その度に自ら望んだ事だと言ってきたのだが、カールのそれは他の家族達とは何かが違って見えた。
「俺がただお前を愛する一人の男だったら、お前を拐って誰もいない場所に逃げるだけでいい、だがそれは出来ない、俺はお前に相応しい男でいなければいけない、それなのに今回の体たらくだ!」
「兄上、私は兄上や皆を責めるつもりは......」
「お前に責められなくとも、俺がした事は愛する女に対する裏切りに他ならない」
カールはセフィーナの言葉を遮った、赦しの言葉を貰おうとなどは思っていない様だった。
「お前の作ってくれた時間で帝国内の問題を片付け、必ずやお前を帝国に帰還させる......そして、至高の座に登り、お前を私の妻に迎えるつもりだ」
「......!!」
包み隠さない決意の表明にセフィーナは無言で頬を赤らめた、もちろんカールが本気なのは解るが、こうまで言われてしまうと兄とはいえ無視できない。
「......そ、それはともかく、父上とこの帝国の事、しばらくお願いします」
「それはわかっている、で? 俺の決意に対する返事は?」
大胆すぎる告白にようやく絞り出したセフィーナだったが、カールは真面目に問いを求めてくる。
「そ、それは......」
「俺はもう決めたのだ、俺には女子はお前がいればいい、嘘はつかない、もし嘘をついたなら俺はお前を手離す」
カールはセフィーナの腰に手を回して、引き寄せた。
外見は優男にも見えるカールだが、その力は正真正銘の男子のそれであった。
「......」
「俺にはお前だけだ、待っていろ」
近づく唇に、セフィーナは眼を見開き息を呑んだ。
***
「もうそろそろの筈です」
「わかったわ、全員に失礼の無いように!」
ヴァイオレット州の最北端、寒空の下にある国境地点の平原にその師団は展開していた。
南部諸州連合軍第十七師団。
参謀の報告に改めて注意を促したのはアリス中将。
軍事作戦ではない、どちらかと言えば政治的な面のある行動である。
第十七師団は約数十に過ぎない集団で平和大使とて南部諸州連合にやって来るセフィーナをアルファンス州のエリーゼまで無事に連れていくという任務を与えられていた。
「でも何で私達なんですか? 私達はセフィーナ皇女の親衛遊撃軍と戦闘したんですよ? 失礼じゃありませんかね?」
使節団を迎え入れる隊列指揮をしながら副師団長のリキュエール少将が首を傾げる。
「外務事務次官の部下の知り合いによると、その皇女殿下のお望みらしいわ、護衛に一個師団を向かわせると言ったら、それなら第十七師団に来てもらいたい、って」
「そうなんですか?」
隊列指揮を任せきり、地面に置いた椅子に座り込むアリスの答えにリキュエールは驚いて、緑色のサイドテールを揺らしながら振り返った。
「ええ、向こうからしたらこの間、一杯食わされた相手を見てみたい程度なんだろうけどね、まったく迷惑な話ね」
迷惑だと言いながらもアリスの表情はそうは悪くない様子なのにリキュエールは気づく。
どんな形であれ功績を称えられるのは軍人として名誉な事なのであり、飄々と任務をこなすアリスにしてもそれは同じなのである。
そうですね、とリキュエールが相づちを打つと、国境線の丘から僅かな護衛を引き連れた馬車が二台走ってくるのが見え、兵士達が数秒間ざわつく。
周囲は前日から交通が規制されており、偶然警戒網を潜り抜けてしまった旅のキャラバンでは無いだろう。
第十七師団の騎馬が何騎か近づき、確認をすると、騎馬隊長がこちらに大きく手を上げ、馬車は再び走り出し、隊列の間を抜けて師団本部に近づく。
「どうやら来たわね」
「はい......」
アリスもリキュエールの横で腰を上げる。
意識はしていなかったが、帝国皇女の来訪に二人の間にはいつの間に一定の緊張感が生まれていた。
師団の兵士達の注目を浴びながら、皇女一行は師団本部の天蓋のある数十メートル先に停まる。
護衛の一人の軍服の少女が師団本部の前まで全力疾走してきて、アリス達に向けてビシッと敬礼した。
「アイオリア帝国第一皇女にして、帝国軍大将で在られますセフィーナ・ゼライハ・アイオリア殿下がお越しになられます、どうか礼を失する事ありませんようにお願い致します!」
アリスもリキュエールも何の返答も無しに敬礼を返す。
アイオリア帝国はあらゆる国家の上に存在する帝国なのだ、その第一皇女たるセフィーナに礼を尽くすのが大陸の人間の義務なのであると言わんばかりだ。
予想外の言葉ではない。
『平和大使に来といて態度がでかいわね』
と、素直に口にしてしまう程にアリスは子供ではない。
優等生なリキュエールも大人しくしている。
そして馬車のドアが護衛の少女の手で開かれ......そこからは冬の寒風に白のドレスの裾をなびかせ、銀髪の美少女が降りてきたのである。
連合軍兵士達は思わず声を上げた。
その少女の絶世の美しさと格好に。
アリスを始めとする連合軍兵士達は、セフィーナは見慣れた黒の帝国軍の軍服に身を包んで現れると勝手に想像していたのだ。
セフィーナは万を越える瞳に注視されながら、堂々と馬車から師団本部までドレス姿で歩き、敬礼したままのアリスとリキュエールに向かって裾を両手で少しだけ上げ、舞踏会のお姫様宜しく礼をした。
「アリス中将、リキュエール少将、出迎えご苦労様です、私はアイオリア帝国第一皇女セフィーナ・ゼライハ・アイオリアです、先程の部下の挨拶が不躾で申し訳ありません、私は平和大使として南部の皆様の土地にやって参りました、帝国軍大将としての役割は一切帯びておりません、どうかそこをお見知り置き頂きたいのです」
セフィーナの申し出に対してアリスは気の効いた返答をした訳ではない。
「名前を知っていただけているとは光栄です、私はアリス・グリタニア中将です、皇女殿下の言われる事は了解しました、遠路お疲れでしょう、ここからは殿下をこの南部諸州連合第十七師団がエリーゼまでお護りします、幕舎を用意しておりますのでひとまず休まれてはいかがでしょうか?」
と、型通りの対応をしてセフィーナと随員を迎える準備をさせたのであるが......
「ありがたく」
丁重に招待を受けつつもセフィーナの瞳には、戦場でも本国での駆け引きの際にも見せない何かが宿っていた。
まるで後にセフィーナの幾多の戦の中で特別な戦いと言われる事となる南部諸州連合での大使としての戦が幕を開けるのをまるで知っていたかの様に......
続く




