第七話「少女の使命と復帰条件」
変わる。
人生は変わる。
夢は変わる。
運命は変わる。
世界は変わる。
たった一つの出来事で。
ほんの少しの違いで。
一人の人間の思いだけで。
ヴェロニカテローゼ。
物心ついた少女が持っていたの唯一の物が、その名前。
着ていた服だって、履いていた靴だって、何も自分の物では無かった。
少女の身体……いや、その存在すら全てが売り物であった。
経緯は覚えていなかった。
とにかく少女は売り物であったが、扱いは悪くなかった。
その大きな要因は容姿。
それを扱う商人に一流という表現を使うのが適切かはどうかして、高額な奴隷を扱う者は光りそうな原石は徹底的に磨き、対価を払える者に高値で売る。
磨いている最中はどんな衝動にかられても、原石を傷つけて価値を下げるようにはしない、むしろ付加価値をつける為に様々な習い事すらさせる者も多く、彼女も幾つかの習い事や礼儀作法を仕込まれた。
しかし、それらを教えられても所詮は奴隷。
暴力を振るわれる事は無かったが、売り物という扱いは物心がついた時から何も変わらなかった。
少女は十二歳の夏、当時、唯一奴隷売買が認められていたラーシャンタ州で男に買われる。
一般市民ならば一生に一度くらいの高額を支払い、彼女の主人となった男の名はゴッドハルト・リンデマン。
南部諸州連合軍少将の肩書を持つ、やや暗い金色の髪をバックに撫で付けた中肉中背の青年将官。
彼はヴェロニカテローゼを見ると、ふぅむと顎に手を当て言った。
「ヴェロニカテローゼ……少し長いな、ヴェロニカでいいか?」
断るつもりはない。
既に自分の運命は目の前の軍人に委ねられたのだ、逃げたりしても徹底的に捜される。
高額な奴隷ほど売り手のアフターケアがしっかりしている物なのだ。
「はい、御主人様」
二人の初めてのやり取りは実に味気なかった。
アルファンス州。
南部諸州で最も面積の小さな州であるが、ちょうど諸州の真ん中に位置し、平地に望まれているので、必然的に通信、運搬の拠点となり、連合議会や軍中央本部もある事実上の拠点と言っても良い。
その州都エリーゼの中心街近くにゴッドハルト・リンデマンの家はあった。
リンデマン家は代々の軍人家系で現当主のゴッドハルトの祖父は、まだ南部諸州連合参加州が四州だった頃に大将として総参謀長まで出した家系。
ゴッドハルトの父も祖父までは栄達はしなかったが、手堅いキャリアで少将という地位で退役、息子が准将の地位に登った年に肺炎で亡くなっている。
当主となったゴッドハルトは祖父の代から住んでいた大きな屋敷を躊躇なく売り払う。
祖母も母も各々の伴侶よりも早く先立ち、兄弟も居なかった彼は家族としては一人になってしまったので大きな屋敷は必要なくなったのだ。
数名の雇っていた使用人にも暇を出すと中心街に近い場所に居を移す。
新たな住居は煉瓦造りの二階建てで、アパートメント群に紛れた庭もない家だが、場所の便は良かった。
前の屋敷を売り払って手にした大金は、その新たな家と高級奴隷という高い買い物で五割以上は消費されたが、リンデマンは遺産の残りを勘定してあれこれ考えるような性格ではなかった。
***
夕方。
買い物帰り、メイド姿のヴェロニカが紙袋を抱えて歩いていると、石畳の道路の中央を何台もの馬車が並んで走っていく。
軍用馬車だ。
黒く塗られた荷台は夜間に敵軍に見つからないようにという工夫で、南部諸州連合では他の用途の馬車を黒く塗るのは禁じられており、灯火を着けない夜間作戦中に軍用馬車が近づくまで来た事に気づかず轢かれる兵もいるくらいだ。
アルファンス州の州都だけあり、エリーゼの街は道幅が広く、隅を歩けば危険はないが、緊急の名の元に何かと急いでいる軍用馬車は気をつけないといけない。
軽くかすめて買い物の荷物を廊下に落とすくらいでは相手は意に介さないからだ。
一歩だけヴェロニカが隅に寄ると……
「待って!」
走っている軍用馬車から女性の高い声が聞こえ、そこから女性将校が軽いステップで降りて駆け寄ってくる。
顔見知りだった。
スパイ防止の職務質問かと一瞬強ばった表情になったヴェロニカの顔に安堵が戻る。
「アリス少将、走行中の馬車から飛び降りるのは危険だと思いますし、第一にレディーの作法ではありませんよ」
「街中を走る速度なんてたかが知れてるわよ、平気、平気」
笑顔でたしなめると、女性将校は気さくな態度で答えた。
アリス・グルタニア少将。
リンデマンの同期で士官学校首席卒業という輝かしい経歴を持つ軍人。
栗色のソバージュヘアを首筋まで伸ばした美人であるのだが、三十代後半になる今も独身である。
「買い物?」
「はい、先程、御主人様がオムレツを夕食に、との御希望でしたので卵を買いに」
「急に?」
「はい」
ヴェロニカは黒のショートボブカットを軽く揺らして頷く。
「まったく、そんなのまだ陽の高いうちに言えっていうのよ、夕方に言われても困ります、って言わないと」
「いいえ、御主人様が望まれて、私に可能ならば断る事柄は一切ございません」
肩をすくめるアリスに今度は微笑みながらも首を横に振るヴェロニカ。
「貴女みたいな娘がウチにメイドに来てくれたら良いのに、部屋とか片付けてもらいたいし、食事とかも作って欲しいわ」
「アリス少将の家のメイドになる事は不可能です、でも少将の部屋を片付けたり、食事や洗濯を一時的にする事は御主人様の許可が出れば十分に可能です、私から申し出る訳にはいきませんが、少将の方から頼まれてみては?」
「え~、イヤイヤ、無理だから、あのゴッドハルト・リンデマンに頼み事をするなんて考えただけで怖いわ」
「まぁ」
大袈裟に身体を震わせるアリス、彼女とリンデマンの適当な距離感がある友人関係を知るヴェロニカはクスクスと笑う。
「まったく献身的なんだから」
「はい、それが私の出来る事ですから」
「……いよいよ復帰ね」
「……はい」
ヴェロニカの表情に僅かな影をさしたのをアリスは見逃さなかった。
「軍務に戻るのは心配?」
「いえ……軍務に戻られるのは御主人様が決められた事ですから心配していません、私が心配しているのは軍に戻ることです、一度は御主人様を必要としなかった人達ですから」
「ヴェロニカ……」
「いえ、アリス少将は信頼しています、失礼な事を言いました」
「いいのよ」
ハッとなるヴェロニカにアリスは仕方がないと言った風に答えた。
数年前、第五次ディスアニア会戦の勝利でキャリアの絶頂を迎えようとしていたゴットハルト・リンデマンは意外な方向からの攻撃で窮地に陥る。
当時、南部諸州連合七州の内六州で廃止され、完全廃止の機運が高まっていた奴隷を買ったというスキャンダルだった。
スキャンダルといってもリンデマンが奴隷を買ったのは唯一、奴隷制度が廃止になっていなかったラーシャンタ州であり、違法は行っていなかったのだが、それでも十二分な攻撃材料として一部のマスコミが書き立てた。
更に買ったのが、十代半ばにもいかない少女という点も攻撃派を勢いづかせる。
当然、擁護論も出たが、その者達は奴隷制度を支持する者と見なす論理のすり替えで声を押さえ込まれた。
騒ぎは鎮静化せず軍部内でも問題となった、更にリンデマン本人が合法であると、全く意に介さない態度に出たのが逆に作用してしまう。
当時の大佐であったアリスやリンデマンの才能を買った数人が火消しに動いたが、リンデマンの敵を造り易い性格が災いし、それは少数派であり、焼け石に水となる。
英雄のスキャンダルが新聞の部数に繋がるマスコミと、異例のスピード昇進と才能をよく思わない軍部内の者達からの誹謗中傷がエスカレートの度合いをいよいよ増した時、リンデマンは躊躇なく辞表を提出した。
これには攻撃した側も意外だった、調子づかせない様に頭を軽く抑えたつもりだったのが相手が頭を下げる所か、抑えた手を振り払って舞台を降りてしまったのである。
リンデマンのような性格の男の台頭は困るが、その軍事的才能が軍から取り払われるのはもっと困るという身勝手な事情だ。
結局はアリス達の尽力もあり、リンデマンは退役という形にはなったが、予備役扱いの軍士官学校の講師となって、軍との繋がりは完全には断たれず戦略、戦術の研究に没頭する事が出来たのだった。
「前は迷惑をかけるだけでしたが……今度は御主人様のお役に立って見せます」
「やっぱりね」
視線を上げ唇を引き締めるヴェロニカ、アリスは軍服の腰に手を当ててため息をついた。
「リンデマンが軍部に出した復帰の条件付けにはあなたも一枚噛んでるんでしょ?」
アリスの問いにヴェロニカは可愛らしく瞳を細め、
「はい、噛ませていただきました」
と、爽やかに答えるのだった。
続く