第六十六話「氷の王国と西部戦線の再動」
サラセナ首都オスロ。
馬車を出ると雪こそは無いが、そこはすでに極北の寒さを感じさせた。
三日の馬車旅で食事とトイレ以外は外に出る事を禁じられていたシア達は街の石畳の道路に出て、皆が久し振りの歩行に怪しい足取りを笑い合うとその街の景観に驚く。
高い山々の間の平地に造られた街は想像以上に立派であり、灰色の低い空のせいで明るさは感じないが規模は帝国首都フェルノールに近い。
フェルノールには歪に増築を繰り返された高層の皇帝居城がそびえ立つが、街を見下ろす岩肌の山の中腹に王城があった。
「ユージィ王女は皆様の来訪を歓迎しています、今夜にでも城にお招きしたいと」
逗留先に指定された二階建ての煉瓦造りの宿に現れた使者からの報せをシアは丁重に受け入れる、オスロでゆっくりしているつもりはシアには無い。
相手が会うと言うなら望む所で、むしろ相手が宿にこちらを留め置いたままで何日も放置をしてこないのに安心したくらいだ。
「辛いスケジュールでシア様を翻弄するつもりでは? 疲れたままだと交渉事に不利になるかもしれませんよ」
まだ十五歳の割に何かと気が回るルフィナが心配するが、
「まぁ、そうかもしれないけど私は平気よ、あなた達はここまで来たら護衛としてついて来てくれればいいから、心配ありがとう」
と、シアは彼女の心配りに感謝しながらも、今夜の王城行きを通す。
確かに経済交渉などでは本国に招いた側が然り気無く相手を疲労させ、知らず知らず交渉の席での粘りを削り取るテクニックがあるのはシアも知っているが、言う程にシアは疲労を感じてはいなかった。
十年を越える軍隊生活では辛い行軍の後で屋根もない場所に寝る事もあったし、つい数ヵ月前の鉄槌遠征の際もシアは最も過酷な状況に陥り、最後は少ない物資で山に籠城した第三軍を実質的に率いていたのだ、それに比べたら今回の護送は大分マシな部類だ。
『むしろ心配は……敵地の王城に一人乗り込んで行くという精神的な物なのよね』
護衛の少女達は交渉には頼れない。
彼女達はルフィナからして十五歳、他も似たような年端の子供達。
これが初めから想定していたサラセナ行きならば随員を用意できるが、結成間もない親衛遊撃軍の幕僚を連れ出す事も出来ず、シアが全権を委任されてきたのだ。
「セフィーナ様から全てを任されたのだから、頑張らなくちゃいけないわ!」
鏡の前でシアは自らの頬をやや強めに叩くと、帝国軍の礼装に身を包むのだった。
***
「アルファンス州より、南部諸州連合軍の第十七師団が西に向け進発を開始した模様、進出目標はラーシャンタ州の都市マーガレッタと見られる」
コモレビト城に早馬でもたらされた緊急情報にセフィーナは「連合軍もしつこいな」と、ため息を漏らして会議を召集した。
シュランゲシャッテンとサペンス、ガイアペイアの総計六万の謀反軍はシュランゲシャッテンにアルフレートが入って説得を行っている事があってか、親衛遊撃軍と対峙したまま動かないが、西部に再び連合軍が現れるとなれば話が変わってしまうからもしれず、対応を迫られる。
ラーシャンタ州の都市マーガレッタは南部諸州連合が西部に遠征軍を送り込む際の拠点になる事が多く、すぐに境であるエトナ平原の南にあるザトランド山脈にも西海岸線にも出る事が出来る要衝で、すなわち師団単位の部隊がここに集結するというのは西部戦線が再び動くという意味合いが大きい。
「二個師団を撃破した後は一個師団か、戦力の逐次投入とは連合軍も呑気な事で」
「やはり南から圧力をかけ続けてシュランゲシャッテン公の反乱を間接的に助けるのが目的でしょうか」
クルサードとヨヘンの発言にセフィーナは切れ長の瞳を鋭くさせてはいたが、それに対して発言はしなかった。
別の思案があったのであるが、口には出せなかったからだ。
結局は撃退されたが、連合軍は二個師団を動員し、政情不安な西部にシュランゲシャッテン公の反乱を誘発させる効果を発揮し、その状態はまだ現在進行形である。
一見、新たな一個師団の投入はシュランゲシャッテン公の支援にしては規模が半端だし、クルサードのいう通り、前に投入された二個師団に続く戦力の逐次投入になってしまっている。
それならば、前にまとめて三個師団がやって来ていたら親衛遊撃軍も簡単には勝てなかったかもしれない。
だが帝国の英雄姫には敵軍が撃退されても西部攻勢の構えを諦めない事に思い当たる原因があったのである。
「作戦指揮は本当にゴッドハルト・リンデマンでしょうか? それならば戦力の逐次投入なんてらしくないのでは無いでしょうか?」
「……」
「セフィーナ様!?」
返答を求めたヨヘンが短めのポニーテールを揺らしながら、童顔の顔を傾げてくると、
「ああ……え? ど、どうした?」
そこでセフィーナはようやく一人の考え事から脱する。
「この作戦指揮は本当にゴッドハルト・リンデマンなんでしょうか? だってさ」
横目でフォローするメイヤ。
ちゃんと聞いていたぞと強がりを言ってから、セフィーナはヨヘンに向き直る。
「うん、情報からそれは間違いない筈だし、皆の奮闘で撃退したから良かったが、撃退出来てなければ、西部地域にエトナ平原に侵攻してきた南の連合軍とシュランゲシャッテンの北の反乱軍に挟まれて、今のようにサラセナとシュランゲシャッテンに工作をしながら状況の好転を待つような余裕は無かった、やはりこれはゴッドハルト・リンデマンの作戦指揮だと思うよ」
「ですよね、言われる通りですね」
セフィーナの返事にヨヘンは素直に頷く。
「それはそれで良いですが、早ければ十日もすればエトナ平原に現れるであろうその一個師団はどうします? 放っておいてエトナ城まで北上して来たら籠城なりして対処しますか?」
今度は肥満した身体を椅子に預けて、クルサードが聞いてくる。
迷うところだ。
一個師団は約一万八千。
戦術的には無視できない戦力だが、戦略的にはそうは大きくない。
クルサードの言う通りにエトナ平原に進出する分には放置しておいて、北上してきた時に対処する手も現実的だ。
北に合計六万の謀反軍と睨み合う親衛遊撃軍は三万五千、装備や練度は正規軍である親衛遊撃軍が勝っているが、数は相手が倍近い。
判断を誤ればこちらが望まぬ戦いを誘発し、西部は一気に混沌に沸き上がる。
「それについては、まだ時間があるので留保してから判断する、取りあえずは散会だ」
セフィーナはそう言ってから立ち上がり、
「ヨヘン……お前はちょっと残ってくれ」
と、だけ付け加えた。
***
幕舎から親衛遊撃軍の幕僚達が帰っていき、残ったのはセフィーナとヨヘン、メイヤの三人だけとなった。
「あの……セフィーナ様」
「いや打ち明けておきたくてな、実は最近、兄上達の仲が上手くいっていない、鉄槌遠征以降はアレキサンダー兄さんが封地のゼファーに籠ってしまっているのだ、父上に呼ばれても出てこない 、非常事態だ」
「……はい」
セフィーナの話を聞いたヨヘンの態度は驚くというよりも、右の頬を掻いての少しだけ困った風だった。
十歳以上年下の上官、それも皇女殿下に家庭の悩みを打ち明けられれば当然だが……
「アレキサンダー皇子がゼファーから出てこない事は噂になっておりました、大っぴらに話す者はいませんが、将官の通うバーなどでは話が出ていたようです、私は確信が持てなかったので信じてはいませんでしたが」
言いにくそうにヨヘンはセフィーナに告げると、セフィーナはフゥと息をつく。
「……であろうな、アレキサンダー兄さんは二万の軍を率いているのだ、一個師団を越えている軍勢が任務も無く、封地に閉じ籠っているのだ、全く噂にならないわけがないな、この分ならクルサード辺りも知ってはいるだろうな」
ヨヘンの返答はある程度予想していた。
一般兵はともかく、軍の情報が詳しく知れる将官クラスなら不審な様子の噂くらいは聞いているだろうと覚悟はしていたのだ。
「会議では戦力の逐次投入がらしくなく、敵の指揮がゴッドハルト・リンデマンであるか、と疑問がありましたが、その話を連合軍が確度の高い情報と観たなら納得できます」
「ああ、わかってる、連合軍も最近になってこの変事に気づいたからこそ、揺さぶりを継続しようと新たに一個師団を派遣してきたのだろう」
「しかしゼファーは中部です、なぜまた西部に連合軍は部隊を派遣したのですか? アレキサンダー皇子への揺さぶりが目的なら……」
「いや……」
ヨヘンの疑問に思案を巡らせる様子で顎に手を当てるセフィーナ。
「何よりも我々を西部に釘付けに出来れば抑止力を封じる意味合いがある、国内守備の自由を持つ親衛遊撃軍と私が動き回れなくなれば、間違いも起こりやすい」
「……」
間違い。
セフィーナの言葉にヨヘンは上手く返答が出来なかった。
皇族であるアレキサンダーに対して迂闊な事は言えない、なにせ目の前の帝国皇女セフィーナの兄なのだ。
警戒はしていても兄と戦う事など望んでいる妹はそうはいない。
「とにかく……今度派遣されてきた相手は前にも増して私達を西部戦線に釘付けにする役目を帯びているでしょう、余程の事が無ければ戦線の維持を目的として守りに入り、戦端は開かない可能性があります」
「こちらの領地に攻めてきて守りに入る、ゴッドハルト・リンデマンめ、相変わらず嫌味な戦略を好みおって」
セフィーナは面白くなさげに右拳で左の手のひらをバシッと叩くと、椅子から立ち上がった。
「連合軍の第十七師団の師団長は確か……」
「アリス・グリタニア中将です、鉄槌遠征の際は第三軍を敗退させ、一日に二個師団を撃破した見事な手際も持ちます」
「ゴッドハルト・リンデマンの一派だな?」
ヨヘンの説明にセフィーナはもう一度、右拳で左手のひらを叩いた。
セフィーナのアリスの立場の認識は本人が聞いたら、あらゆる表現を用いて全否定を試みるだろうが、帝国軍部内ではリンデマンとアリスは同期生かつ、直接の上司と部下であった事もあり、ごく近い存在と観られていて、情報によってはプライベートでも男女の関係にあるだろうという、アリスからすれば情報員を名誉毀損で締め上げたくなるであろう報告まである。
「よし……」
セフィーナの瞳が好戦的な色を帯びた。
「ヨヘン、ここの睨み合いは任せる」
「は?」
「は? ではない、アリス・グリタニアがエトナ平原に現れたら私が部隊を率いて撃退する」
「しかし……シュランゲシャッテン公への抑えはどうしますか? あまり兵力を割くと……」
「心配するな……半個師団だけを私は連れていく、それでいい、ここには戦力を張り付けておかないといけないからな」
「それでは……」
ヨヘンの顔色が曇る。
セフィーナは半個師団、約九千ほどの戦力で一個師団のアリス・グリタニアと戦うと言ったのである。
「数が少なすぎます、決してセフィーナ様の作戦指揮を疑うつもりはありません、しかしアリス中将は南部諸州連合軍の中でもおそらく五本の指に入る将星かと私は観ています、それはあまりに危険です、せめて同数でお当たりください」
「もちろん、わかっているさ」
慌ててヨヘンは反論したが、それをセフィーナは手を上げて制した。
「私だって同数、出来れば優る数で当たりたい相手だ、しかし現状はそれを許さん、睨み合いを利用して、全軍でエトナ平原に南下して襲いかかる手もあるが、万が一にでもシュランゲシャッテン公の逆手を取られたら、ますます収拾がつかなくなるし、相手が相手だ、クルサードの案のように野放しにしていたら何をされるかわからない」
セフィーナには油断の色は見えない。
アリスを強敵と見てはいるだろう。
だが、そこにあくまでも彼女をゴッドハルト・リンデマンの一派で彼の右腕的な部下、という評価が入っていないだろうか?
ヨヘンはそんな不安を感じながらも、
「それはそうですが……」
と、答えるのみで強く反対をする事が出来なかったのである。
続く




