第六話「皇帝居城」
ガイアヴァーナ大陸。
単純図形的にみれば、巨大な逆三角形を描いており、アイオリア帝国は北方の大部分を領土に治め、南半分は南部諸州連合を形成する七つの州がある。
南半分は南下していくうちに狭くなっていくので、領土面積としては北半分を治める帝国が遥かに巨大なのだが、大陸の極北は厳寒地で永久凍土に包まれ生産性は低く、人口数も少ない。
そして逆三角形の尖った北西部分の半島には海を越えた北の氷の大陸から来たという伝承を持つサラセナ国が五十年前から小さな領土ながらに独立している。
実質的には帝国と南部諸州連合には国力に差はほぼなく、鉄や銅などの資源を豊富に有する大陸北部のお陰で工業生産は帝国が優るが、温暖な地形を利用しての農業生産はむしろ南部諸州連合が有利という状態だ。
また北方の完全支配を目論み、帝国がサラセナ国に攻略部隊を送り込んだ事も一度では無かったが、海すら一年のうち四ヶ月ほどしか航行を許さない極北の環境と、サラセナ国の頑強な抵抗に会い、サラセナ国が帝国に毎年自治承認費(これは帝国側の呼び名だ)を支払う事で、近二十年間遠征は行われていない。
承認費が入るようになった事情と合わせ、南部諸州連合軍との戦いが激化している事、軍を疲弊させてまで全体がほぼ永久凍土のサラセナ国を占領する意味を帝国が見出だしていない点で今の状況が続いている。
帝国首都フェルノールは大陸の東沿岸中央部辺りに位置する。
戦争を考えれば、首都は少し北へ南部諸州連合との国境から離したい所だが、あまり北に上がってしまうと寒冷地に分類されてしまい、冬場は首都としての機能が著しく制限されてしまう為、周辺地域の守備を固め、首都にも高い二重城壁を巡らせている。
フェルノール皇帝居城は、その特殊な事情から増築を繰り返し、異常に高い歪な高層造りになっていた。
「謁見は終わったのかい?」
皇帝居城の石畳の廊下を歩く軍服姿のセフィーナを呼び止めたのは、同じ軍服に身を包んだ赤茶色の髪の美少年。
クラウス・ゼノ・アイオリア。
帝国直系皇族の四男で十九歳。
セフィーナを入れた兄弟の順番も四番目で、セフィーナのすぐ上の兄は何か言いたげな笑みで石積の壁に背中をついて腕を組んでいた。
「クラウス兄さん、お久しぶりです、皇帝陛下への謁見は終わりました」
「また昇進?」
「ええ、そう承りました」
「もうボクと同じ中将かぁ、良いねぇ、戦場で頭の回る娘は、すぐに軍の階級はボクよりも偉くなっちゃうね、そのうち敬礼してセフィーナ大将と呼ばないといけないね」
「お気になさらずに、軍での功績がどうあれクラウス兄さんは私の兄上です」
意味深げな薄ら笑いの兄に対して、セフィーナは僅かに切れ長の瞳を鋭くした。
互いにいつもの態度。
セフィーナとしては下手な皮肉を言ったつもりだが、無視したのか、気づかなかったのか、クラウスは自分の後頭部に両手を回す。
「しかし戦争があると面倒だよな、金はかかるし、人も死ぬし、敵を沢山殺した奴を昇進させないといけないしね、何とか手打ちが出来ないもんかな」
「言っている意味が理解しかねます、アイオリア帝国の存在を南部諸州連合が認めない限りは戦争は続くでしょう、彼らの目的がガイアヴァーナ大陸を幾つもの州に分割しての連邦制の確立にある以上は相容れる可能性はほぼ無いでしょうね」
「だろうねぇ、奴等も何だかんだで戦争が好きだからな、連邦制の確立なんてボクには理解できないや」
「己が理解できない事柄が全てナンセンスだと思い込めるなら人生はだいぶ楽観できますね」
「そうかい」
クラウスは口元を歪める。
今度の皮肉は通じたようだ。
セフィーナは努めて表情を変えない。
皇帝居城の廊下は明かり取りの窓が少なく、昼間から煌々と照らす壁掛けランタンの揺らめきが二人の間で強くなった様にセフィーナは感じた。
「まぁ、いいや……とにかく昇進おめでとう、行きなよ」
「ありがとうございます、では失礼します」
中身が空洞の祝いの言葉と解りつつも礼をしてから歩き出す。
敬礼して、では中将失礼します、とでも言えばクラウスの綺麗な口元はもっと歪んだに違いないが、セフィーナはそこまで四番目の兄を嫌ってもいないし、そこまでの嫌味が思いつく性格でもなかった。
***
「セフィーナ様」
クラウスと別れ自分の部屋に戻ろうとすると、見知った宮中警護武官が敬礼をして呼びかけてくる。
「何か?」
「ハッ、セフィーナ様をお見かけしたらカール様が訪ねてほしいと仰られていたと伝えるようにと承っておりました」
「そうか……ご苦労」
敬礼を返すとセフィーナは踵を返して廊下を戻る、首都の皇帝居城は皇帝のみの住む場所ではない、皇帝の直系の家族の部屋もあるし、警護武官や世話役、後宮の者まで合わせれば数千の人間が生活している。
政務の中枢でもあるので、登城してくる官僚達などを入れれば昼間は万の者達が出入りしているだろう。
その中でも直系皇族が生活しているエリアに立ち入れるのは一部だけで、立ち入りの警護はもちろん厳重である。
「兄上に呼ばれてきた、部屋に通してもらいたい」
「かしこまりました、どうぞ」
フロア前に立つ数人の護衛にセフィーナが声をかけると、彼らは頭を下げて扉を開けた。
皇太子ともなると部屋といっても一部屋だけではない。
直系皇族は全ての者が皇帝居城内にかなりのスペースを当てられていて、出入りには各々の皇太子専門の護衛の許可が必要だ。
人数はそれぞれで、セフィーナの護衛は女性のみの十数名だが、特別な事でもなければ普段は気心の知れたメイヤのみを連れ歩いている、今は皇帝居城の中であり、謁見の直後という事もあり一人であった。
「兄上……」
入口まで案内された部屋に入ったが、応接室には誰も居なかった。
応接机を挟んで向かい合う高級ソファー、床は職人が数ヵ月かけて織り上げた絨毯、壁に架けられた絵画や調度品も価値あるものばかりに違いない。
「カール兄さん?」
案内されたのに居ないとは?
周囲を見渡そうとした時……
「うわぁ……」
ソッと背後から優しく包む様に抱き締められ、驚いた声を上げながらセフィーナは背筋を伸ばした。
「今日も綺麗だ……セフィーナ」
耳元で囁く甘い声。
「あ、あ、兄上!?」
「なんだい?」
目の前にたまたま架けられた鏡に写る焦った表情のセフィーナとそれを背後から抱き締める長身金髪の美しい軍服の青年。
彼が帝国皇帝の長男であるカール・ゼフィス・アイオリア。
「なんだいって、私は兄上に呼ばれてきました、ご、ご用事をお申し付けください」
「じゃあ俺の物になれ」
「……!!」
セフィーナは絶句する。
鏡に写った兄の薄く整った唇、切れ長の碧眼には全く冗談めいた物が無い。
「ご、ご冗談を」
「俺は冗談は嫌いだ、今までもそうしてきたろ? 俺の真意を理解しないのならこれはお仕置きだ」
「……んっ!」
カールの右手がセフィーナの胸の程よい隆起に伸び軽く撫でた。
「あ、兄上っ……あ……はぁ」
華奢に見えるカールだが、セフィーナはそれを振り切れない。
身体が震え、思わず声が漏れる。
「かわいい声だ」
「……!!」
耳元で囁いていた唇から伸びた舌が首筋に触れた瞬間、セフィーナはまるで飼い主の腕から飛び逃げる猫の様にカールの腕を振り切り、距離を取って睨み付ける。
「兄上、お戯れが過ぎます!! 用事がないならセフィーナはもう帰らせて頂きます!」
「戯れじゃないんだがな、わかった、わかった……もう今日はしないよ、だから大人しくソファーにお座り」
「……」
赤面して火の出るような勢いで声を上げる妹に困ったな、と言いたげなカール。
その態度に返す言葉を失いながらもとりあえず赤面のまま大人しくソファーに座るセフィーナ、カールは対面に腰を降ろす。
「飲み物は?」
「紅茶を……砂糖は多めに」
不機嫌に答えるセフィーナだが、カールは全く意に介していない様子で、応接机の上に置かれた鈴を鳴らして世話係の少年を呼び出し、砂糖が多めの紅茶とアリエス州産の豆を指定して、コーヒーを運んでくるように告げた。
恭しく頭を下げる少年。
まだ十代の前半だろう。
『鈴を軽く鳴らしたら出てきたクセに、私が声を上げようが怒鳴ろうが、出てこないのだな』
そんな事を考えていると、隣の部屋に下がった少年がコーヒーと紅茶を運んで来て、セフィーナとカールの前に置き、頭を下げて再び戻っていく。
「まずは戦勝と生還、おめでとう」
「ありがとうございます、兄上」
「どうせアレキサンダー辺りには嫌味でも言われたのだろう? なぜ俺が到着するまで待てなかったとな」
「そんな事は……」
「……嘘が下手な娘だ」
あまりにも図星であったのが顔に出たのか、セフィーナの嘘をカールは鼻で笑う。
「アイツに言ってやれば良かったのだ、万の兵力を率いながら直接の戦に益する所なく、兵糧の無駄使いをしていた兄に言われたくないと、アレキサンダーもアルフレートも敵軍に十二分に対抗できる戦力を持ちながら、前衛のセフィーナだけに五万の軍勢との戦いをさせただけで懲罰物だ!」
「カール兄さん……」
ソファーの背もたれに両手をかけながら、研ぎ澄まされた刃物のような鋭い調子で二人の兄弟の責任に言及するカールにセフィーナは俯く。
自分を弁護してもらった嬉しさではない、兄弟仲を心配する妹の態度。
カールはアイオリア軍上級大将という位を得ている軍人である。
何度か戦にも参加し、冷静な戦術分析で帝国軍を勝利に導いていた、もちろん上級大将になれたのは皇族というファクターが強いのは当たり前だが、理知的かつ時には大胆にもなれる指揮をみせる司令官だ。
アレキサンダーは一定の戦術眼をもちながらも、どうしても武勇に頼りすぎる点があるし、アルフレートは確実に任務をこなすが、軍務よりも人柄の良さや真面目さが活きる政務の方が向いていると思う。
クラウスは頭は良いのだが、軍人というよりも謀略家的な面が目立つ。
セフィーナの観察眼は兄達の中で、カールが最も軍事的才覚のバランスの取れた司令官であると観ていた。
「違わないか? あの二人がだらしないからお前が代わりに敵軍と戦ったのだろう?」
「そんな事では……」
返答に困る、そういう事ではないのだが先の戦いでは様々な要素から前衛と主力とが距離が離れ、助力を頼めなかったのは事実なのだ。
それでいて勝手に戦った様にアレキサンダーに言われたのは正直、面白くはなかった。
しかし、その不満を他の兄弟に口にして、兄達の関係が悪くなるのは妹として避けたい事態なのである。
「まぁいいさ……折角のセフィーナとの時間につまらない者の話題などしたくない」
話を続けないセフィーナを察したのか、カールは話を切り上げ、ソファーの自分の座っている隣を華奢な手の平で軽く叩いた。
「隣においで、セフィーナ」
「また戯れを!」
「……強情だな、戯れじゃないといってるだろ?」
「お断りします」
「そうか」
再び赤面しながらも断りを入れるセフィーナ。
兄の顔にはやや残念な様子はあってもやはり冗談の顔はない。
数年前からカールはセフィーナに対してこうだが最近は特に拍車が掛かった。
「だいたい私と兄上は」
「母親は違うが兄妹だろ? そんな事はわかってるさ」
「なら……」
「だが妹でもセフィーナが俺に相応しい唯一の女性だと思っているからさ、その逆もしかりセフィーナに相応しいのも俺だけだ、そして俺は絶対権力者を目指している」
真顔。
もう冗談でないのは理解している。
裏など無くカールは本気だ。
帝国の皇太子でなくとも女性には苦労しないであろうルックスを持ち、二十四歳という年齢にも関わらず彼が妃をまだとらない理由をセフィーナは解っていた。
「絶対的な権力を目指すというのは、つまり自分の我が儘を全て通す存在になるという事だ、不道徳など後から人が付け加えた決まりだろう? それならば絶対権力者が、また後からどうにでもできる筈さ」
「……」
一流舞台俳優を思わせる兄の仕草と言葉に徹底的拒否という感情が出来ない、複雑な何かが胸を熱く、鼓動を早めさせる。
何かに流されそうな衝動に心の奥底で大きく深呼吸をしてセフィーナは兄を見つめた。
「絶対的な権力者ならば、何でも出来るというのは違うと思います、権力者とて一人の人間です、両手両足、一対の瞳に鼻と口、それ以外の物が神から与えられた訳ではないのですから」
「なるほど、聡明だねセフィーナ」
セフィーナの言に対して、カールは優しく笑いソファーに脚を組んだ。
「では兄上、祝いの言葉と紅茶を頂きありがとうございました、では失礼します」
丁寧に頭を下げソファーから腰を上げるセフィーナだったが、
「ああ、そうだった……待ってくれ、参謀本部に今日、興味深い報告があったんだ、それを話し忘れていたよ」
カールが何かを思い出した様子で呼び止めたので、立ち上がったままで兄を見る。
「興味深い報告ですか?」
「ああ……セフィーナは覚えているかい? ゴッドハルト・リンデマンという男の名を」
「ええ……もちろんです」
その名前にセフィーナとカールの間の空気が緊張する。
「どうやら彼が軍に復帰するらしい」
「確か第五次ディスアニア会戦の後、ラーシャンタ州で奴隷を買ったという新聞の記事から軍で批判を浴び、本人が嫌気がさして辞めたと聞きましたが……」
「誰かが説得したか、本人が希望したかはわからないが復帰は確定情報だ」
「しかし、よくわかりませんね」
セフィーナは大きくため息をつく。
「なんでだい?」
「奴隷売買は今では南部諸州連合全てで禁止されていますが、当時はラーシャンタ州のみでは認められていた筈、彼のした行為はあくまで合法であったのに、南部諸州連合軍やマスコミが彼が嫌気をさすまで攻撃した意味です」
「機運と妬みというヤツだ、英雄になった人間は初めはチヤホヤされるが、どこかで攻撃の隙も伺われている物だ、まだ禁止されてない州だろうが禁止が大きく叫ばれていた機運の中で、功績を妬んだ者からは格好の攻撃の的だったのさ」
「自分達の生活を護ってくれる軍の英雄を失うなんて……愚かな事だと思います」
「セフィーナ」
説明に立ったまま首を振るセフィーナ。
カールはそんな妹をソファーに座ったまま見上げた。
「何か?」
「お前だってそうだ、戦いで功績を上げて凱旋したばかりだ、軍やマスコミ、人々の妬みは何も南部諸州連合だけに存在する訳じゃない、気をつけるといい」
「ですね……」
カールの忠告に頷き、セフィーナはクラウスの事を思い出すのだった。
続く